いだてん・金栗四三

いだてん・金栗四三「徒歩部時代」

体育を奨励する東京高等師範学校(現・筑波大学)の運動会は絵葉書が印刷されるほど、スポーツを楽しむことなど知らなかった明治の人にとって、運動会は珍しいものでした。

東京高等師範学校の運動会障害物競走。
東京高等師範学校の運動会障害物競走。
古地図:明治39-42年(1906-09年)2万分の1測図より東京高等師範学校
古地図:明治39-42年(1906-09年)2万分の1測図より東京高等師範学校。

古写真:東京高等師範学校

筑波大学
現・筑波大学。

その校長・嘉納治五郎のモットーは……

「立派な教員となるために必要なのは『広い知』『清廉な心』そして『たくましい体』だ」

日頃から朝礼や遊説で、そのようにぶち上げている彼は、武士社会の文武両道を明治の世になって「知育と体育」に置き換えた代表的な明治人、偉大なる教育者です。
彼はその功績と近代柔道の創始により、明治四十二年(1909年)アジア初のIOC委員に推挙されます。そして、第5回近代オリンピック・ストックフォルム大会へ向けて大日本体育協会を設立。オリンピック初参加となる日本チームの派遣を画策します。

東京高等師範学校徒歩部

いっぽう、東京高等師範学校の本科生(二年次)となり徒歩部(陸上部)に入部した金栗四三は、走りを専門とする先輩方にもまれ、メキメキと上達していきます。

東京高等師範学校徒歩部学友たちと(中央・右から四人目が金栗)。
東京高等師範学校徒歩部学友たちと(中央・右から四人目が金栗)。
校庭での徒歩部トレーニング風景
校庭での徒歩部トレーニング風景。
現・文京スポーツセンターグランド。
現・文京スポーツセンターグランド。

走法・練習法の教科書など無い時代。金栗は経験と知識のある先輩に恵まれます。

明治時代の板橋
明治時代の板橋。

放課後の部活では大塚ー巣鴨ー板橋往復の練習はあるものの、それだけではもの足りずに、寄宿舎の起床時間六時より一時間早く起きて、大塚窪町の寄宿舎ー巣鴨ー飛鳥山間を往復します。

大塚〜飛鳥山

古地図:明治39-42年(1906-09年)2万分の1測図より東京高等師範学校から飛鳥山へ
古地図:明治39-42年(1906-09年)2万分の1測図より東京高等師範学校から飛鳥山へ(クリックで拡大)。

大塚駅まで下り、国鉄のガードをくぐり、折戸街道の長く緩やかな登りをゆきます。

大塚駅前。
大塚駅前。
時代を感じるガード下
時代を感じるガード下。
折戸街道
折戸街道。
サクラトラム
サクラトラム。

金栗は大塚駅前から路面電車と競争したのでしょうか?
いえいえ、明治四十四年(1911年)八月、大塚駅ー飛鳥山間開業の王子電気軌道(都電荒川線「サクラトラム」の前身)が出来る直前のお話です。

王子電気軌道

王子電気軌道一号車。
王子電気軌道一号車。

中山道と交差する庚申塚を過ぎます。

庚申塚
庚申塚。

お岩さんのお墓がある妙行寺近くの「お岩通り」をぬけ、旧道をゆくと飛鳥山公園。

お岩通り
お岩通り。
お岩さんのお墓
お岩さんのお墓。
飛鳥山公園
飛鳥山公園。

この往復8キロのコースを毎朝走ります。

練習は裏切らない

放課後の部活、朝の自主練、先輩の指導の成果は、素質とあいまって、すぐに花開きます。

学校の恒例行事となっている校内長距離走大会(大塚ー中山道ー大宮氷川神社・片道コース24キロ)で優勝。
秋の大会でも二位との差を大きく広げて笑顔でゴール。

この男なら世界に通用するかもしれない……

嘉納治五郎と金栗四三

若い金栗は嘉納治五郎に希望を抱かせます。

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