明治四十三年(1910年)十九才の金栗四三は東京高等師範学校(現・筑波大学)に入学します。この頃、嘉納治五郎が校長をつとめる東京高等師範学校は大塚窪町(現・文京区大塚三丁目)に移転。御茶ノ水にあった旧校舎は予科(一年次学生)の寄宿舎となります。

御茶ノ水の旧校舎は女子師範学校(現・順天堂大学病院)と湯島聖堂の間。江戸幕府の最高学府であった湯島聖堂は御維新後、博覧会会場となっています。



金栗の日課
予科の生徒たちはお茶の水から大塚窪町の東京高等師範学校まで、徒歩か市電で通うことになりますが、金栗は学友たちが通学に出たあともノンビリしています。皆が出発した三十分後、やっと寄宿舎を出ます。
故郷、熊本県玉名市で通学に往復十二キロも走っていた金栗にとっては当然な距離。
そう、金栗は走るのです。
通学のランニングコース

上記片道四キロのコースを毎日往復します。
寄宿舎を出て、中山道を本郷方面に向かいます。

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まっすぐ行くと東京帝国大学の赤門前ですが、かつて「かねやすまでは江戸の内」と謳われた「かねやす」の角を左折。

明治に入って新たに開削された太い道路、真砂坂を下り、富坂下の講道館を通過。




春日通り(国道254線)の長い登り坂・富坂まで来ると先発した学友たちが見えてきます。ここでギャアをシフトチェンジ。

この富坂、明治三十九年(1906年)市電が登れるように緩やかにした江戸時代からの急坂の難所。


こんなに急坂だったの?富坂を参照
陸軍砲兵工廠を横目で見、登りをものともせずに加速。学友たちを尻目に追い越してゆきます。なかには負けず嫌いの学友がいて追いかけてきますが、マラソンさながらに、心臓破りの坂でスパート。颯爽と引き離し、追随を許しません。

現・東京メトロ茗荷谷駅のある高台を超えて下り、東京高等師範学校に着きます。


そんな予科の毎日でしたが、運動部に入部できるのは本科(二年次から)に入ってから。本科の寄宿舎は本校と同じ大塚窪町。

翌年、本科生となり、最初は庭球部かボート部にでも入ろうと思っていましたが、校内長距離走大会で一年生ながら三位に入賞。徒歩部(陸上部)が放っておくはずがありません。「道具代がかからないよ」「個人戦が主だから自由さがある」などと甘い言葉に釣られて入部。
その後、嘉納治五郎に「世界に通用する力」を見出され、マラソン足袋を開発した「大塚の播磨屋」黒坂辛作さんとの出会いもあり長距離の才能を開花させていきます。

徒歩部時代へとつづく
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