神楽坂

神楽坂と光照寺(牛込城跡)

東京で一番有名な坂、神楽坂。一つの坂の名前というより神楽坂エリアという一大コマーシャルタウンです。お江戸の昔から商業地区として栄えていましたが、その前はというと……

14世紀、赤城山の豪族大胡氏(のちの牛込氏)が今の光照寺辺たりに牛込城を築いたのが神楽坂の始まりといいます。
神楽坂上付近は牛込城の城跡⁈
光照寺を見てもここがお城だったとは全く想像できません。

家康公の江戸開幕のころ、荒れ地や沼地だった新宿区で唯一、町としての形態があったところだといわれています。

開幕後、牛込城は軍事的必要性が無くなり廃城となりました。

かつては牛込城だったという光照寺
かつては牛込城の本丸だったという光照寺

神楽坂の兵庫横丁

兵庫横丁は鎌倉時代からの古道で、神楽坂で一番古い道です。
なぜ兵庫かというと牛込城の武器庫(兵庫)があったからといいます。

戦国時代よりも前からあった道だなんて江戸っ子もビックリしたことでしょう。

今では石畳の美しい、最も神楽坂らしい道の一つです。

兵庫横丁
兵庫横丁
兵庫横丁の石畳
兵庫横丁の石畳

牛込城の抜け穴?

日本出版クラブ会館
日本出版クラブ会館

光照寺の向かいに日本出版クラブ会館があります。
この建物の建設工事中に地下に大きな横穴が発見され、牛込城の抜け穴かと話題になったそうです。

幕府クーデターを計画していた由比正雪が掘った抜け穴か?などの説も出たとか。
(由井正雪は牛込榎町(今の大日本印刷辺り)に居を構えていましたが、ここに抜け穴を掘る必要があったのか?)

また地元の口伝で、こんな話もあります。

 明治の頃、光照寺で働いていた植木職人が急にいなくなり、探すと近所の南蔵院にいた。
 どうやってここに来たのかと尋ねると抜け穴に迷い込んでここに出てきたと言う。
 えぇー!ぬっぬけ穴ぁ〜っと一同、ビックリ!
 話の真相は職人が仕事をサボって南蔵院の和尚さんと将棋を打っていたが、口から出まかせの嘘が広まってしまった。

という話です。ほんとに抜け穴があったら今頃、観光地になっています。

光照寺から南蔵院って道が繋がってるから、人目を避けて、こっそりと行けるんじゃねっ?
と思い、気になって明治の地図をみると、

古地図:南蔵院と光照寺
南蔵院と光照寺。明治の地図と昭和の地図

今あるS字カーブ(急勾配なのでS字カーブ)の坂道がありません。この坂道は太くて立派な急坂なのになんで名前がないんだろうと思っていましたが、昭和に開削された坂だったのですね。

S字カーブの坂
S字カーブの坂
南蔵院
南蔵院

明治の地形なら、道も無いし、抜け穴を通って崖下の南蔵院へ、と言っても信じてしまうかもしれません。
獣道ならぬ職人道なるものがあったのかも。

南蔵院の母子の墓石
南蔵院の母子の墓石

余談ですが、南蔵院には珍しい墓石がありました。
母子の合葬墓石で母は延宝七年(1679年)銘、子は慶安元年(1648年)銘。子は不生とあり死産だったのでしょうか?

子どもの死の30年後、あの子といっしょに弔って、と言ったお母さんがいたかと思うと、ジーンと泣けてきて手を合わせました。
しかしながら、ずいぶんと古いものなので、ここ南蔵院も牛込城と関係があるのかもしれません。

話を戻すと、日本出版クラブ会館の話も江戸時代の麹室(こうじむろ)か、食料貯蔵庫だった可能性が高いといわれています。
いつの時代もみなさん話を盛るのが好きです。

神楽坂に牛込城があった証拠として、
神楽坂には「大手門通り」という道があるのです。

後編・大手門通りから牛込城跡へに続く

意外な歴史の神楽坂四部作

神楽坂と光照寺(牛込城跡)
神楽坂と仇討ち事件
神楽坂と漱石先生
神楽坂のオシャレな坂たち
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