明治五年(1872年)二月二十六日午後三時ごろ、旧江戸城の和田倉門内から出火した大火は東海道の新両替町一〜四丁目(二丁目は通称:銀座町)から築地一帯を焼け野原にしてしまいます。

火事と喧嘩は江戸の華。ご維新後の東京にも火事は絶えず、神田佐久間町は大火により、秋葉神社のある原っぱ(火除け地・秋葉原の地名由来)となり、銀座町も更地になってしまいます。
江戸時代、銀貨の鋳造役所のあった銀座町は火事により生まれ変わることになります。
不燃都市を目指して


「帝都東京は江戸とは違う……」。
時の大蔵大輔・井上馨と東京府知事・由利公正は、レンガ造による不燃都市の再興を目指します。
英国人技師トーマス・ウォートルスに設計を依頼。築地外国人居留地を再生、銀座町一帯、京橋ー新橋間には二階建のレンガ街を誕生させます。


新しく生まれた銀座レンガ街の画期的なところは、レンガ造二階建アーケード形式の西洋建築に加え、火除け地的な性格を持つ広い歩道。

「銀座の柳」の歩道
街路樹として柳、交差点の四隅には松の木を植えた日本初の歩道。大森貝塚を見い出したエドワード・S・モースは、その書簡のなかで「日本には銀座というところにしか歩道が無い」と書いています。


広い歩道を設定したことが、後々の銀座の繁栄に繋がることとなります……。
銀座発祥の地・銀座二丁目
幕府直轄の銀貨鋳造役所があったのは銀座二丁目あたりです。

上の古写真には「銀座二丁目」と裏書きがあり、今のティファニー、伊東屋あたりに銀貨製造工場があったはずですが、想像すらできない明治の光景です。
また、人力車に蒔絵の装飾が施してあり、現在のトラック野郎に通じるクールジャパンテイストがあります。
因みに金座があったのは、ご存知、今の日本銀行の地です。
時代を先取りし、ハイカラ過ぎた銀座の評判はあまり芳しくなく、東京府知事・由利公正は次の手に打ってでます。
ガス灯で文明開化
明治七年(1874年)芝濱崎町にガス会社を作り、ガス管を敷設。金杉橋から京橋までの東海道、中央通りに85基のガス灯を設置します。
同年十二月十八日、銀座にガス灯が灯ります。
文明開化のともしび、文字通り、人気に火がつきます。

鉄道馬車の開通(明治十五年・1882年)で人気がさらに加速。
やがて電化がすすみ、明治三十六年(1903年)路面電車も走り、人々が集まり、繁華街の条件が整ってゆきます。
尾張町角?
当初、銀座は一〜四丁目までしかなく、四丁目以南は、江戸時代に埋め立てを担当した藩の名から尾張町・加賀町・出雲町、竹屋職人が一町をなしていた竹川町などが新橋まで続いています。

銀座の中心地である現・銀座四丁目交差点の呼び名は尾張町角。
明治の末、いまの和光は服部時計店、三越は山崎高等洋服店、三愛は八十三銀行、日産ショールームはカフェー・ライオン。
昭和五年(1930年)三月、尾張町などの町名から銀座五~八丁目となり、約1.3キロ真っすぐ続く銀座となります。
広い歩道
今日、当然ながら、路面電車は廃止されていますが、その敷石は歩道に再利用されています。
ところで、なぜ、銀座には人と店舗が集まり、今日まで日本一の繁華街であり得たのでしょうか?
それは、明治六年(1873年)十月に完成したレンガ街の歩道の広さを頑なに守り、どんなに車道の交通量が増えても、人々がのんびりと歩き、ウインドウショッピングを楽しむことができる歩道の幅は決して狭くはしなかったということ。
たとえ地下鉄の出入口が出来ても……。
こんなところでも歩けてしまいます。
歩きやすさがポイントということは銀座商店街もわかっているようでして、明治の賢人の恩恵を受け、週末の歩行者天国を続けています。

銀座の路地裏探検・お稲荷さん巡りへ
幕末・明治維新トップへ
銀座の歴史の物語グーグルマップはこちら
またはマップ右上の拡大表示ボタンをクリックしてグーグルマップでご覧ください。