明治五年九月十二日(1872年10月14日)午前十時、九両編成、明治天皇を乗せたお召列車がここ新橋停車場を出発。鉄道の歴史が始まったと云われていますが、実は……。
品川ー横浜間
それに先立つ明治五年五月七日、品川ー横浜間が完成。いち早く鉄道の仮営業を開始しています。
それは芝ー高輪間の工事が難航していたからです。
なぜ遅れたのでしょうか?……。


大隈重信と伊藤博文
時代の潮流をいち早く取り入れた佐賀藩。藩の自力で作り上げた4分の1スケール蒸気機関車模型の試運転を見ていた当時十七歳の大隈重信。


長州藩からイギリス留学してイギリス全土を駆け巡る鉄道に驚愕した伊藤博文。

鉄道にこそ近代日本の未来があると思っていた二人。
ご維新後、三十代であった二人はそれぞれ民部・大蔵大輔(今の次官)、民部・大蔵小輔(今の局長)に就任。明治二年(1869年)鉄道建設建議書を上奏、近代国家の創建に乗り出します。
鉄道利権を狙う列国の思惑を退け、外国の技術を利用して自力での鉄道建設を目指します。
鉄道用地買収の壁
しかし、鉄道用地買収に立ちはだかったのは、職を奪われることを懸念する宿屋、カゴ屋、馬車屋などの民衆と、三田、高輪に屋敷を構えていた薩摩藩。薩摩藩邸は測量さえ拒む始末。

言うまでも無く西郷隆盛、大久保利通の出身藩です。西郷、大久保は出来たばかりの明治新政府は、まずは軍備を増強すべきと鉄道建設には否定的でした。
大隈重信、起死回生のアイデア
民衆からも自分たちの上司・大久保利通からも反発を受ける大隈、伊藤でしたが、このままでは用地買収は困難を極め、資金不足により欧米列強につけいる隙を与えかねません。
万策尽きたかに思えた二人ですが、地図をみていた大隈重信が、こうつぶやきます。
「陸がダメなら海の上を行けば良いではないか……」
大隈の計画は薩摩藩邸を避け、海に堤防を築き、その上を鉄道がはしるというものでした。
早速、お雇い外国人・イギリス人鉄道技師エドモンド・モレルに相談すると、充分可能だとの返答を得ます。
世界でも類を見ない画期的なアイデア。かくして日本初の鉄道は新橋ー横浜間全長29kmのうち10kmが海の上を行くことになります。
また大隈、伊藤の良き理解者、財政難に苦しむ明治新政府の理解者であったモレルは鉄製の予定だった枕木を日本に豊富にある木製とし、レールもダメになっても裏返せば、再度使える双頭レールに。イギリスから輸入するはずだった鉄橋も木製にし明治新政府の財政を助けます。

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落語「芝浜」で有名なこの地「芝の雑魚場」も、もとは海沿い、海岸で、今現在、鉄道の下をくぐっている通路も、明治のころは船が鉄道堤防をくぐっていた名残りです。


古地図を見ると鉄道は芝橋辺りから海の上を行ったようです。
品川駅も品川宿の反発を受け、仕方なく高縄(今の港区高輪)に置かれます。これが都会あるある「品川駅は港区」の所以です。
新橋ー横浜間全線開通の日
芝橋から高輪まで海の上を行くことになり、堤防は潮をかぶり工事は難航、全線開通は遅れますが、明治五年九月十二日(1872年10月14日)午前十時、新橋駅にて開通開業式典が行われます。

空には祝砲百一発がとどろき、芸人を集めて見物客を楽しませ、さらに赤飯・煮しめの折詰弁当を配り、文明開化を高らかに謳いあげ世論の不安を一掃します。まさに江戸幕府にとってかわった明治新政府、ご維新の一大イベントでした。



汽笛一声、新橋駅を出発した汽車は五十三分で横浜駅に到着します。徒歩による所要時間の十分の一でした。

横浜から帰る列車を待つ間、芸人たちが盛り上げ、折詰弁当に舌鼓を打つ民衆たちは文明開化の香りに酔いしれます。
「あいつ(蒸気機関車)疲れて悲鳴あげてらぁ、汗かいてらぁ」
列車に乗った大久保利通はこのように回想しています。
「まさに百聞は一見にしかず。愉快にたえず。鉄道の発展なくして国家の発展はありえない」
このようにして、大隈重信、伊藤博文の尽力は、明治新政府中枢をも納得させ、鉄道は日本全国にひろがってゆきます。

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