東京大学本郷キャンパスの敷地はもと加賀藩上屋敷。なので江戸時代の遺構もあり、また、不思議な伝説もあります。
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日本の最高学府の代名詞にもなっている赤門は文政十年(1827年)十一代将軍家斉の第二十一女・溶姫が加賀前田家に嫁ぐ際、建てられたものです。
グッピー将軍と揶揄される十一代将軍家斉。彼は二十人の側室に五十二人の子供をもうけた子沢山、子息は大名家に授けました。大名にとっては徳川家と親戚関係となるわけで格が上がりますが、婚姻による大きな負担に悩まされ痛し痒し。

姫が輿入れするときは赤い門をくぐるという仕来たりがあったものの、格式の高い門を建てるのは大名にとっては大きな負担で当初は表向きだけ赤く朱を塗ったものでした。
赤門わきの富士山
今の赤門は北から15mほど移動されています。移動前の古地図をみると赤門近くに、こんもりとした山があったようです。
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この地が加賀藩上屋敷になる前、富士塚があったところで、旧町名「本富士町」の由来にもなっています。
古くは古墳ではなかったか?と云われていましたが、キャンパス拡張工事の際、調査により人口の築山だったことが明らかになります。加賀藩上屋敷の時代、富士塚は駒込富士神社に合祀されますが、それ以前、ここにも富士信仰が芽生えていたことがうかがえます。
お化け灯篭「蛇塚」
工学部の中庭にはジョサイア・コンドル、チャールズ・ウェストの銅像があり、落ち着きのある洋風の庭園なのですが、片隅に、なんとも不似合いな和風の灯篭があります。
蛇塚伝説
加賀藩上屋敷時代、不義をはたらいた奥女中を蛇いっぱいの部屋の中に閉じ込めて折檻、処刑。その地に供養のため蛇塚は建てられたと云います。当初はもっと本郷通り寄り、キャンパス造成の度に移動されますが、その都度、不幸があり、最終的にこの地に落ち着きます。
そういえば、一つは移動したようで台座だけが残ります。蛇塚の灯篭は移動出来なかったのでしょうか?いまでも付近を通ると蛇が出るというウワサがありますが、写真を撮った時、蛇は出てきませんでした。
長屋の井戸と下水道

東大龍岡門の近く、ロソーンの前に加賀藩上屋敷の長屋の井戸跡が残ります。落下を防ぐため厳重に鉄板の蓋をしています。そこまでするなら埋め戻してしまえばいいのにと思われますが、番町皿屋敷のお菊の井戸のような伝説があるのでしょうか?
ローソンの裏、キャンパス外の無縁坂へと続く道には排水口跡が残っていて、どうやら、井戸と排水口はセットで残されているようです。
番町皿屋敷へ
ラーメンを紹介した朱舜水
農学部のある弥生キャンバスには明の儒学者・朱舜水(しゅしゅんすい)終焉の地の碑があります。
そう、弥生キャンパスは加賀藩上屋敷のお隣の水戸藩中屋敷だったところ。勢力のある加賀百万石の監視をするような親藩の位置付けです。
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朱舜水は明から水戸藩に招かれ水戸学の礎を築きます。水戸光圀(水戸の黄門様)にラーメンの作り方を教えたとされ、これが日本初のラーメンと云われてきましたが、近年の研究で、それより二百年も古い室町時代の書物に中華麺(経帯麺)の記述があり、日本初のラーメンの座は奪われます。が、新しもの好きの黄門様の名は健在。
育徳園心字池
加賀藩上屋敷には当時、江戸諸侯一と云われた数寄を凝らした庭園があり、池はその形から心字池と呼ばれていましたが、夏目漱石の小説「三四郎」の舞台となってから三四郎池と呼ばれるようになります……。
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