「東大に入ろう、試験無しで」などと言われるように、東京大学構内には誰でも入学ならぬ入場可。東京大学は関東大震災で壊滅的な被害を受けましたが、太平洋戦争の戦禍を免れ、昭和初期の歴史的な建造物も多く、今では海外の観光客の方も大勢いらしている観光地となっています。



東大構内では内田祥三(第14代東京帝国大学総長)設計の安田講堂をはじめとする内田ゴシック様式建築に圧倒され、見逃してしまいそうになる偉人の銅像の数々をご紹介。
構内には銅像が多々あります。
古市公威
(1854-1934)ほとんどの人が通り過ぎてしまいますが、東大正門を入って左に行くと古市公威の銅像があります。

司馬遼太郎が「この国のかたち・三」の中で絶賛している土木工学のパイオニア。公威がフランス留学中、下宿のおばさんに「koui、そんなに根詰めると体をこわしますよ」といわれたとき「私が一日休むと、日本が一日遅れます」と答えたと云います。

司馬遼太郎は古市公威を「文明の配電盤」と評し、欧米で学んだ土木工学の知識・技術を「電流」として、帰国した明治十三年以降、後進に伝播していくさまを配電盤に例えています。
ジョサイア・コンドル
(1852-1920)明治初期、お雇い外国人として来日した建築家。誰でも一度は目にしたことがあるような西洋建築を数々残しています。




浮世絵師の弟子に

日本への造詣も深く、日本人女性を妻とし、浮世絵師・河鍋暁斎に弟子入りして「暁英」の号を名乗ります。
そのほかにも日本舞踊・華道・落語といった日本文化を、こよなく愛した趣味人です。
チャールズ・ディキンソン・ウェスト
(1847-1908)アイルランドからやって来たお雇い外国人。機械工学・造船の権威。銅像の台座には機械・造船のレリーフが。

「Engine is my life」が口ぐせ。生涯独身を通し、余暇にはヨットを設計製作。自らの趣味ではなく、教え子たちの体育のためにヨットの操縦を教えました。
三好晋六郎
(1857-1910)このやさしい笑顔に癒されますが、像が持つ本の題名は「Manual of naval architecture」海軍建築マニュアルといかめしい。明治三十四年(1910年)講義中に脳出血で倒れ死去。のちに彼の人徳を慕う人々により立像されています。
濱尾新
(1849-1925)東京帝国大学第3代・8代総長、文部大臣も歴任した巨人らしく東大で一番大きい銅像です。
安田講堂の南側にあり、三四郎池を背にしています。

構内整備に力を入れて「土木総長」と呼ばれ、有名な銀杏並木の生みの親。彼の命により植樹したヒマラヤ杉三百本のうち一本が三四郎池のほとりで大木になっています。
エドワード・ダイバース
(1837-1912)明治のお雇い英国人化学者。実験中に爆発事故。失明寸前となりますが、それにもかかわらず、ひるまずに研究に打ち込む姿は学生らに多大なる影響を与えました。
山川健次郎
(1854-1931)もと会津の白虎隊隊士から東京帝国大学総長まで上り詰めた人物。会津藩に対する忠誠心は、やがて愛国心に変わり、日露戦争の際、東大総長であったにもかかわらず、陸軍に「一兵卒として従軍させろ」と迫って困惑させたと云います。
カレーライスを初めて食べた日本人
若き頃の明治四年(1872年)国費留学でアメリカに向かう船の中でカレーライスを食べ、これが日本人ではじめてとされています。どんなカレーライスだったのでしょうか?ただし船のレストランで米を使ったメニューがこれしかなかったとのこと。
「診療・治療・予防」のレリーフがある東京大学医学部附属病院前、バス通りに沿って二つの銅像があります。

青山胤通
(1859-1917)ドイツ留学から帰国後、医科大学で内科学を担当。学長を16年も務めました。
森林太郎(森鴎外)を支持
日露戦争で多くの将兵を失った病「脚気」を感染症(本当はビタミンB1欠乏症)とした陸軍軍医の森鴎外(学生時代からの友人)を支持。
まだビタミンが発見されていない頃の話で責めることはできません。
また、囲碁好きとしても知られ、療養中の大隈重信と打っていて、夫人に怒られたと云います。
佐藤三吉
(1857-1943)青山胤通とともにドイツ留学した医師。初代日本外科学会会長。故郷である岐阜で大地震が起きると駆けつけ治療にあたり、宮中から感謝状をいただいています。
災害ボランティアのはしりです。
東京大学医学部附属病院に向かって二体のドイツ人医師の胸像が建っています。
ユリウス・カール・スクリバ
(1848-1905)下関条約締結のために来日していた清国の李鴻章負傷事件、ロシア帝国皇太子ニコライが負傷した大津事件に、政府の要請により現地に出張。歴史の表舞台に立っています。
親日家だったスクリバ先生。国際結婚など稀な時代に日本人妻をめとり日本で亡くなっています。スクリバ家の墓は青山墓地にあります。

エルヴィン・フォン・ベルツ
(1849~1913)ベルツは、草津温泉の泉質を調査し、温泉が美容と健康に良いことを証明。ベルツ水なる化粧水を考案。今でも売られています。

日光まで、人力車と競争
また、日本人の体力を試そうと東京から日光まで馬に乗り、人ひとり載せた人力車夫と競争。約150kmの間、自分は馬を六回乗り換え、さぞかし差がついただろうと余裕しくしゃくゴールで待ちますが、30分もすると人力車が到着。人力車夫は一人で走りきり交代は無し。
驚いたベルツは、車夫に「いつも何を食べているのか」と弁当を見せてもらうと、それは「玄米の握り飯、たくあん」でした。こんな質素な食事でそこまで強靭ならばと、また実験。西洋人と同じようにステーキ中心の食事をしばらくの間とってもらい、人力車夫が勝つと予想して、再度、競争すると、結果は人力車夫はいつまで経っても現われずに惨敗。車夫は「これでは腹持ちがしませんわぁ」と音をあげたといいます。
ベルツはドイツ帰国後、このことを報告。ドイツ国民に穀物・野菜類の摂取を提唱しています。

フルマラソンを走ったとき、お腹が空いて苦しかったのを思いだします。なんだか、スポーツ界での日本人の活躍を納得してしまうような逸話です。
ベルツ先生は森鴎外の小説「雁」にも登場するほど、日本人に愛され親しまれています。
名作と名曲の無縁坂を参照
レオポルト・ミュルレル
(1824~1893)ドイツの医師。ベルツ、スクリバの先代のお雇い外国人。陸軍軍医少佐だった1871年に来日。実はこの銅像は三代目。初代は戦後のごたごたで盗まれ、二代目はコンクリート製、初代と同じくブロンズ製に復元したのがいまの三代目です。
初代の像の製造は1895年と古く、まだ、江戸時代の気風が強く残り、医者の身分は低いと思われており、そのせいで像も軍人のいかめしい格好をしています。
ドイツのお雇い外国人医師が多いわけとは?
江戸時代、医学は蘭学、オランダが最高と思われていましたが、開国後、蘭書のほとんどはドイツ語の翻訳であったとわかり、明治新政府はドイツ医学にシフトしています。
下山順一郎
(1853-1912)ドイツ留学から帰国後、新設の医科大学薬学科教授に。日本の薬学博士の第1号。東京府北豊島郡王子町下十条(現:東京都北区中十条)に大規模な私設薬草園「是好薬園」をつくり後進の育成にあたりますが、在職中に死去。彼の偉業を讃えて像が建立されています。
隈川宗雄
(1858-1918)日本の生化学(生物体の構成物質および生物体内での化学反応を解明して生命現象を研究する学問)の先駆者。

面白いのは像の台座四方にあるニワトリ。「ニワトリが先か、卵が先か」という因果性のジレンマを表しています。これがあることで生化学とはどんなものかなんとなくわかります。
小柄なからスマートで洗練されたこの像の作者は、東京国際フォーラムの太田道灌像の作者・朝倉文夫です。こんなところで好きな芸術家に出くわすとは思いませんでした。

ドーバー海峡(弥生坂)を超えて弥生キャンパスへ

東京大学本郷キャンパスと弥生キャンパスの間は深い谷が落ち込み、弥生坂があり、ここをいつしか学生たちはドーバー海峡と呼びます。

関東大震災後の昭和の初め、二つのキャンパスの間に橋が架けられています。橋を渡り弥生キャンパスへ。
ヨハネス・ルードヴィヒ・ヤンソン
(1849-1914)ドイツの獣医学者。日本に西洋式獣医学を導入。この像は駒場農学校(現・東京大学駒場キャンパス)から弥生キャンパスに移されています。
日本人女性と結婚、妻の故郷・鹿児島で没し、同地にお墓があります。

かの鹿鳴館で日本人相手にダンスレッスンを行い、西洋式ダンスを最初に導入したことでも知られます。
上野栄三郎博士とハチ公像
2015年、ハチ公の主人は東大教授だと知られていないことを憂えた有志が建立。博士とハチは弥生で再会を喜んでいますが、この光景が繰り広げられたのは駒場キャンパスです。
弥生キャンパスの農学資料館には上野先生の胸像とハチ公の臓器標本が展示されています。
忠犬ハチ公秘話を参照
偉人の業績をみると「田園調布に家が建つ」よりもたいへんな、名誉ある「東大に銅像が建つ」のようです。
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