宮内庁へと登る坂の坂下にある坂下門。幕末、桜田門外と同じく襲撃事件がここでも起きています。
坂下門外の変

桜田門外の変ののち、老中安藤信正は井伊直弼の開国路線を継承、公武合体政策による和宮降嫁を主導。和宮を人質に孝明天皇に揺さぶりをかけるのではと、尊王攘夷派に反感をかいます。
文久二年一月十五日朝(1862年二月十三日)、屋敷を出た安藤信正の駕籠行列は直訴により止められ、水戸浪士ら六人が包囲、一発の銃声を合図に斬り合いが始まります。


安藤信正上屋敷の場所(現・皇居前広場)は、いわば官舎といえる位置で各時代の幕閣重要ポストが屋敷を構えるところ。本丸への通用門である坂下門へは目と鼻の距離、約五十メートル。
桜田門外の変の後、要人登城の際の警護は厳しくなっており、五十人の供廻りが六人を斬りすてます。しかしながら安藤信正は背中に傷を負い、命からがら坂下門内へと逃れます。
その日の午後には包帯姿でイギリス公使ラザフォード・オールコックと会見。
オールコックは「負傷しながらも職務を続け、幕府の代表として意地を見せる安藤信正の姿に感嘆した」と日記に書いています。
これは政治家・文官として立派な態度ですが、幕府内部の反安藤派が安藤の逃走行為に「敵に背中を見せ逃げるとは何事ぞ!」と言いがかりのように糾弾します。この年の四月には幕閣からの引退を余儀なくされます。ここに江戸幕府は自らの手で優秀な人材を失い、幕府崩壊への道を早めてしまいます。
古写真の坂下門

古写真を見ると、坂下門は江戸城の他の門、桜田門、大手門のように高麗門と渡櫓からなる枡形門の形状をしていますが……。

明治六年(1873年)後方の蓮池巽三重櫓と連なる箪笥多聞に貯蔵した砲弾火薬が爆発炎上。櫓と多聞は焼失、石垣のみが残されます。坂下門渡櫓を時計回りに90度向きを変えて移設したのが現在の坂下門です。
向きを変え、門の内側にあったのは星印の「近衛師団司令部」。ゆえに坂下門は軍部の通用門になっていました。そのため、この門は昭和のクーデター「二・二六事件」の舞台にもなります。

二・二六事件
「高橋是清襲撃」


昭和十一年(1936年)二月二十六日、雪の早朝。近衛歩兵第三連隊第七中隊隊長代理の中橋基明中尉率いる隊は明治神宮に参拝に行くと言って兵舎を出、薬研坂を登り、赤坂区表町三丁目の高橋是清邸を目指します。この間、ほんの五分程度の道のり。




なぜ、大蔵省官邸ではなく、自邸に高橋大臣がいるとわかったのか?
それは自邸に大臣がいるときは警官が警備に立つからで、近衛歩兵第三連隊兵舎近くの高橋是清邸はつねに見張られていたということ。
邸の門前で警備の警官に重傷を負わせ、中橋中尉、中島莞爾少尉らは塀を乗り越え二階寝室に時の大蔵大臣、ダルマ宰相と呼ばれ国民にも人気のあった高橋是清を発見。中橋中尉は拳銃、中島少尉は軍刀でこれを殺害します。

その後、邸の玄関で催涙弾を焚き、すぐに撤収。なぜそんなことを?なぜ催涙弾?(これは操作を遅らせるための方策です)と一兵卒は思ったと証言しているように末端の兵は命令に従うだけで何のために行動しているのかわからない状況でしたが、午前五時十分頃、ここに卑劣な目的の一つを達成します。
幻の皇居占拠計画
高橋是清邸を出た突撃隊は中島少尉引率のもと、首相官邸に向かい、中橋中尉は薬研坂手前に控えさせていた控部隊、約八十名を連れ、もう一つの目的達成のため皇居の半蔵門を目指します。

その目的とは、恐れ多くも昭和天皇のお住まい「皇居」を占拠すること。もうすでに皇居守衛隊には各地で起こっている反乱の知らせは入っているはずとして、皇居守衛隊の援軍を装って皇居に入る計画です。
中橋中尉の近衛歩兵第三連隊は、有事の際、皇居に駆けつける規則になっていたので、午前六時頃、隊は半蔵門から皇居へ入城することに成功します。
中橋中尉は坂下門警備を願い出て、隊は坂下門でその任につきます。しかし、皇居守衛隊司令官、門間健太郎少佐は、はじめは中橋部隊に労をねぎらう言葉をかけるほど信用していましたが、夜が開け、続々と入ってくる各地の反乱軍蜂起の知らせと中橋部隊の早すぎる到着に疑惑の念をいだきます。
午前七時すぎ、部下に命じて中橋中尉を呼びにゆくと、中橋中尉は皇居本丸の午砲台(正午を告げる砲台)の土手の上に手旗信号用の手旗を持ち警視庁のほうに向いて立っています……。


警視庁占拠

午前五時、野中四郎大尉率いる麻布の歩兵第三連隊約五百名は、その圧倒的な重火器装備で、ほとんど抵抗を受けることなく「警察権の発動の停止」を宣言。
あたりに有刺鉄線を張りめぐらし機関銃を設置。桜田門一帯、桜田門外の警視庁を占拠しています。


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警視庁屋上にも機関銃を据え、野中大尉から命令を受けた清原少尉と手旗信号通信員たちが皇居からの手旗信号を今か今かと待っています。合図があれば野中部隊は皇居内に入る計画でした。

中橋中尉の不可解な行動
しらじらと雪の朝が明ける午前七時半頃、手旗を持ち、土手の上に立った中橋中尉は守衛隊兵士に羽交いじめにされ、手旗信号は送れずじまい。
坂下門の司令部の一室に連行され、銃剣を差したライフルをかまえる兵士五、六人に囲まれ軟禁されます。
それに不服を唱えた中橋中尉は居合わせた大高少尉と口論になりますが、階級が上である中橋中尉に従い、兵士を退出させ、部屋の中には中橋中尉と大高少尉の二人だけになります。
大高少尉は自らの拳銃ブローニングをぬき、中橋中尉に銃口を向けています。中橋中尉は「俺も持っているんだよ」と言いながら大型のモーゼル拳銃をぬきます。その時、モーゼルの銃口から硝煙の匂いがしたので、大高少尉は「中橋中尉は何かしでかした」と思ったと回想しています(この時は高橋是清大蔵大臣を殺害したのが中橋中尉だとは誰も気づいていませんでした)。
中橋中尉は銃をぬくものの引き金に指をかけることもなく、しばらくして部屋を出ます。大高少尉は「それは困ります」と止めますが「門間司令官にことわって出てゆく」と言うので、彼は任務を放棄したのだと思い、それよりも皇居の守備のほうが重要だとも思い、二重橋正門から退出し、三宅坂の陸軍省官邸に徒歩で向かう中橋中尉を見送ります。

何も知らずに残された近衛歩兵第三連隊の兵たちは坂下門の屋根に登らされ、寒さの中、小便を我慢し警備につき、交代時間がくるまで任務を全うし兵舎に戻ります。
クーデターの失敗
手旗信号で警視庁にいる野中部隊を坂下門から皇居に招き入れ、昭和天皇という「玉」を手中に収めていれば、このクーデターは成功していたかもしれません。慶応三年(1867年)十二月九日の王政復古のクーデターのように。
しかしながら、野中部隊と皇居守衛隊が天皇陛下の眼の前で皇軍相撃つことを恐れ、計画はあったものの、誰一人として実行には至らなかったということ。中橋中尉は手旗信号を止めた兵士を拳銃で撃つこともできたのに敢えてそれをしなかったのは皇居内であったからにほかありません。そして、しらじらと明けてゆく空を見ながら、自らの恐れ多い行為に気付き、躊躇したのかもしません。中橋中尉に疑惑を抱いた門間司令官、大高少尉も皇居内という特殊な環境を考慮し、手荒な行動にはでませんでした。
いまでは宮内庁への通用門、一般参賀の通用門として使われている坂下門は皇居前広場の前という環境ゆえ、多くの歴史の転換点に遭遇しています。
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