古典落語に「縁切り榎」というのがあります。
とある色男が、どちらの女性と連れ添うかと迷っています。
近江屋さんに相談すると板橋の縁切り榎へ行って木皮を削り、それを煎じて二人の女性に飲ませるといいと言います。
それでは二人とも縁が切れてしまうと反論すると、
「どっこい!おめえさんを心底想ってくれる方には霊力は効かないよっ!」
そう言われ、板橋までやってくると、当の二人の女性とバッタリ出くわします。
「双方とも恋敵に飲ませようと思って来たのかい。よしよし」
すると二人の女性は声を合わせて、
「いいえ、あなたと縁を切りたくて参りました」
「Σ(゚Д゚;)……」

「鎌倉(縁切寺)まで行かずに板橋詣」などと申しまして、嫌なものと別離できる霊力を秘めた、裏パワースポット「縁切り榎」が中山道の板橋にあります。
染井王子巣鴨邊繪図より.jpg?resize=474%2C499&ssl=1)
江戸時代、板橋上宿はずれの近藤石見守抱屋敷の垣根に榎(えのき)と槻(つき、ひのきの古名)の大木があり旅人に日陰を与え茶屋などのある憩いのスポットになっていました。

大木の前の中山道はゆるやかな坂になっており、この坂は岩の坂といいます。
シャレ好きな江戸っ子のこと、いつしか「榎(えん)が槻(つき)る岩(いや)な坂」などと語呂合わせで呼ぶようになり、「縁切り榎」が定着し、嫁入りの際にはここを避けて通るようになります。
ん?岩の坂はいやな坂……?

岩の坂の真実
岩の坂は中山道板橋上宿の入口にあたり、ここには身分の低い低賃金労働者である馬子、馬喰、乞食、浮浪者などが住みつきスラム街と化します。
取り締まる側のお上も板橋宿の貴重で安価な労働力を失ってはと、見て見ぬふりをして放置します。
そんな折、お姫様が京の都から中山道をくだり江戸入りすることになります。
皇女と縁切り榎の歴史
実は、皇室から徳川家に降嫁するのは、皇女和宮が初めてはありません。
寛延二年(1749年)五十宮(いそのみ)女王が、十代将軍家治に降嫁。京の都から江戸にくだるなら東海道が良さそうに思えますが、川留めによる遅延と街道の治安を考え、ほとんど山の中をゆく中山道を選択します。
その時、縁切り榎は縁起が悪いからと、迂回路(根村道)が開削されています。
どうやら縁切り榎は表向きの言い訳で岩の坂の貧民窟を京のお公家さんには見せたくないという本音があったようです。
その証拠に迂回路は縁切り榎の直前からでなく、かなり手前(約500メートル手前)から開削されています。

中山道と環状七号線の交差点の北50メートル辺りから根村という村(現・板橋区双葉町)を経由して日曜寺前の愛染通りに出て中山道に戻り板橋宿メインの仲宿に入ります。
文化元年(1804年)の楽宮(さざのみや)女王が十二代将軍家慶へ、文久元年(1861年)和宮内親王が十四代将軍家茂へ降嫁したときも先例にならってこのルートを使用しています。
そもそも皇室のお姫様がカメラの前に立ったのかが大きな疑問です。
最新の研究では、撮影小道具から類推すると、皇女和宮とされる数々の写真は大名・南部家のお姫様ではないかといわれています。
「縁切り榎」迂回ルート
根村道はいまも健在。
一見して古い道とわかるクネクネとした道です。
江戸期の地図が存在しないので明治初期の地図で見ると……。





日曜寺前には小川が流れ藍染産業がさかんでした。この川に沿ってある愛染通りを東に真っ直ぐ行き、岩の坂を迂回、縁切り榎には菰(こも)を巻き、見えないようにして、板橋を渡り板橋仲宿へ入ります。


実は今現在、中山道の東側にある縁切り榎は三代目。以前は中山道の西側、今の八百屋さん「八百善」の向かいにありました。

右の写真には八百善の「善」が写っています。

ふだん、大名行列などは板橋宿は素通りしますが、一行は板橋仲宿脇本陣で一泊。脇本陣はたった一晩宿泊の皇女和宮のために千四百十二両一分(一両=十三万円として約一億八千万円)をかけて増改築します。


翌朝旅立ち、巣鴨、本郷を通過してその日のうちに江戸城清水門をくぐります。


ものものしく縁切り榎を迂回したにもかかわらず、和宮と家茂の結婚生活は家茂病死のため、たったの四年で終わってしまいます。縁切り榎迂回は効果があったのでしょうか……?。
縁切り榎の絵馬を見ると「〇〇と離婚できますように」「〇〇の部下になりませんように」とか、〇〇と伏字が多くなるシビアな書き込みに加え「禁煙できますように」「長年付き合った病気と別れますように」などと霊力をポジティブに受けとめたものも多くあります。社務所はありませんが、絵馬は隣のお蕎麦屋さんで購入できます。
幕末・明治維新トップへ
「皇女和宮の「縁切り榎」迂回ルート」グーグルマップはこちらまたはマップ右上の拡大表示ボタンをクリックしてグーグルマップでご覧ください。