お江戸の西郷どん史跡巡り

お江戸の西郷どん史跡巡り

歴史は古いものと新しいものがわからないと、よくいわれます。
古いもの、例えば邪馬台国などは資料が少なくてわからない、逆に新しいものは資料が多過ぎてわからない、また、立場によって見方がガラリと変わり、定説が定まらないことも。

明治維新の頃は後者のようです。西郷さんは写真も残さず不明な点も多く、一次資料の無いものはすでに伝説、言い伝えになっています。

芝さつまの道

古地図は嘘をつかない一級の資料です。

古地図:嘉永三年(1850年)芝三田二本榎高輪辺絵図より薩摩藩上屋敷。
古地図:嘉永三年(1850年)芝三田二本榎高輪辺絵図より薩摩藩上屋敷(くりっくで拡大)。

三田の広大な薩摩藩上屋敷跡の中心辺りに、出土した石垣をつかったオブジェ群と案内パネルがあります。

芝さつまの道

芝さつまの道

薩摩藩上屋敷図パネル
薩摩藩上屋敷図パネル(クリックで拡大)。

この上屋敷の地図によると、庭池は碑のあるNEC本社ビル辺りで、ここで西郷さんは御庭番をして島津斉昭公から指令を受けたことになります。

NEC本社
NEC本社ビル。

また、ここは庄内藩新徴組の焼き討ちを受けた地でもあります。

「新徴組」が幕末を加速

新徴組を参照

水戸上屋敷跡

水戸上屋敷跡はその庭園「後楽園」が残る東京ドーム一帯です。

特別史跡・特別名勝「小石川後楽園」
特別史跡・特別名勝「小石川後楽園」。
水道橋駅前、藤田東湖の住んだ長屋があった辺り。
水道橋駅前、藤田東湖の住んだ長屋があった辺り。

西郷さんは島津斉昭公の使いでここを訪れていますが、当然ながら水戸の殿様には御目通りは叶わずも、水戸学の学者・藤田東湖には会ったようで薫陶を得、その日のことを「東湖先生の家を訪問すると清水に浴したような塩梅で、心中一点の曇霞なく、ただ清浄なる心になり、帰路を忘れて……」と日記に書いています。

大河ドラマでは、往路で道を間違え、紀尾井坂経由で水戸上屋敷に行っていますが、史実では帰路、胸がいっぱいで道を間違えたようです。

三田の薩摩藩上屋敷から小石川の水戸上屋敷(北が右)。
三田の薩摩藩上屋敷から小石川の水戸上屋敷へのルート。青矢印が紀尾井坂(右が北、クリックで拡大)。

三田の薩摩藩上屋敷から小石川の水戸上屋敷に行くには、東海道をまっすぐ、日本橋(A)をこえ、筋違御門(B)を抜け昇平坂御茶ノ水坂C)を登り下りして水戸上屋敷。ほとんどメインの大通りをまっすぐなので、間違えることはありません。

目黒不動尊

島津斉昭公が病気をした時、西郷さんは目黒不動尊「独鈷の瀧」で水垢離をして、回復を祈ったとの伝承があります。

目黒不動尊

目黒不動尊独鈷の瀧
目黒不動尊 独鈷の瀧。

西郷さんがまだ有名人でなかった頃のこと、薩摩弁を話す大きい人が水垢離をしていたら「西郷さんだったんじゃねっ?」「きっとっそうだよ、うん」、本人だったかどうか?という類のことと思われ真偽は不明。
もっともご維新後、西郷さんはここ目黒不動尊を訪れています。

洗足池公園

鳥羽伏見の戦いののち、新政府軍が江戸に迫ります。江戸での戦禍をさけるため勝海舟は奔走します。多摩川を越え新政府軍が池上本門寺に陣をしいた時、勝さんは極秘裏に人目を避け池上本門寺にむかい、裏道を通り洗足池の景色を見たと伝わります(真偽のほどは不明)。
そして、ここの景色がいたく気に入った勝さんは、晩年、洗足池のほとりに住んでます。

洗足池公園

洗足池

洗足池公園

なるほど、確かに洗足池は風光明媚な地です。

西郷隆盛留魂碑
西郷隆盛留魂碑。

西郷隆盛留魂碑は、西南の役で戦死した西郷さんを悼み、勝さんが私費で葛飾の浄光寺に建立したもの。荒川放水路の開削の際、水没を避け、当地に移されています。

勝海舟夫妻墓
勝海舟夫妻墓。

勝海舟の別邸「洗足軒」洗足池のほとりに勝晩年の邸宅「千束軒」がありましたが戦災で焼失。ここでは勝さんのお妾さん二人も一緒に暮らしていたと云い、嫌気がさした奥さんは「死んだら別々のところに葬って」と遺言。初めは青山霊園に葬られましたが、今では仲よく?隣同士の墓石です。偉人の女性関係は複雑なようです。

池上本門寺

池上本門寺

池上本門寺の庭園「松濤園」の東屋で、西郷さんと勝さんが江戸開城の前打ち合わせをしたという記録が、寺に残るそうです(真偽のほどは不明)。

松濤園
松濤園
松濤園、西郷勝会見の地
松濤園、西郷勝会見の地。

高輪下屋敷

三田の薩摩藩上屋敷は焼き討ちにあい焼失しているので正式な第一回の西郷・勝会談が高輪の下屋敷行われました。

写真右側が薩摩藩高輪中屋敷跡
写真右側が薩摩藩高輪中屋敷跡。

柘榴坂の北側、今はグランドプリンスホテル新高輪などが建つ地に高輪下屋敷がありました。

古地図:嘉永三年(1850年)芝三田二本榎高輪辺絵図より薩摩中屋敷
古地図:嘉永三年(1850年)芝三田二本榎高輪辺絵図より薩摩藩中屋敷

柘榴坂の仇討ちを参照

三田蔵屋敷

江戸開城西郷南州勝海舟会見の地

江戸開城談判(昭和11年・明治天皇紀附図」より)
江戸開城談判(昭和11年・明治天皇紀附図」より)

第二回西郷・勝会談で江戸無血開城が決まった三田の蔵屋敷。勝さんはここへ向かう途中、馬を降り、馬と馬子の後を徒歩で目立たぬように行ったと云います。緊迫する時勢のなか、極秘裏の行動が多かったことがうかがえます。

古地図:嘉永三年(1850年)芝三田二本榎高輪辺絵図より薩摩藩蔵屋敷
古地図:嘉永三年(1850年)芝三田二本榎高輪辺絵図より薩摩藩蔵屋敷。

愛宕神社

愛宕山

会談の合間に西郷さんと勝さんが愛宕山に登り江戸を見渡したと伝わりますが、これには懐疑的な意見も多くあります。
国家の一大事の会談途中に二キロ以上離れたここに登る必要があったのでしょうか?ましてや愛宕山に登らずとも西郷さんも江戸の大きさは周知のはずです。

古写真:愛宕山からのパノラマ北側(クリックで拡大)。
古写真:愛宕山からのパノラマ北側(クリックで拡大)。
古写真:愛宕山からのパノラマ南側(クリックで拡大)。
古写真:愛宕山からのパノラマ南側(クリックで拡大)。

この江戸が火に包まれると想像し、それを阻止するために云々と思うと、確かに絵になる光景ですが、出世の階段の曲垣平九郎ともども創作の可能性を否定できません。

愛宕神社の顔出しパネル
愛宕神社の顔出しパネル。

愛宕神社出世の階段を参照

上野戦争

江戸無血開城を成し遂げたのち、上野戦争で幕府の残党・彰義隊と戦います。死をも覚悟したという西郷さん率いる薩摩軍が陣をしいたのが上野松坂屋前。

上野広小路。正面の緑が上野のお山、右側が松坂屋デパート。
上野広小路。正面の緑が上野のお山、右側が松坂屋デパート。

皮肉なことに、彰義隊の砲台陣地があった山王台に西郷さんの銅像があります。

上野のお山の西郷さん

上野戦争 後編を参照

日本橋の西郷隆盛邸跡

西郷隆盛邸跡(現・日本橋小学校敷地)。
西郷隆盛邸跡(現・日本橋小学校敷地)。

西郷さんは函館戦争が終了すると政府の残留要請を断り故郷の鹿児島に帰り、のんびり過ごしていましたが、新政府が西郷さんを放っておくわけがありません。
度重なる出仕要請と弟の西郷従道に説得され、明治四年(1871年)に上京、参議に就任。2600坪ほどもあるここに屋敷を構え、書生を十五人、猟犬も数頭飼っていたといわれます。

青山霊園
大久保利通墓

青山霊園で一番大きなお墓は紀尾井坂の変に倒れた盟友・大久保利通墓です。亡くなった時、西郷さんからの手紙を懐に入れていたと云います。

大久保利通墓
大久保利通墓(青山霊園 1種イ-2 15~19側1番)。

痛々しくも傍らには大久保とともに命を落とした従者と馬の墓。

大久保利通の従者中村太郎と馬の墓

紀尾井坂の変を参照

「西郷隆盛」の名付け親?
吉井友実墓

吉井友実墓
吉井友実墓(青山霊園 1種イ-6 4側4番)。

吉井友実西郷さんと同じ鹿児島市下加治屋町で育った幼馴染みの吉井友実。
王政復古に功績があった人物を表彰しようとした際「西郷吉之助」ではなく、本名が必要となります。本人の留守中、西郷さんの本名を聞かれた吉井は、うろ覚えで「う〜ん、隆盛」と答えます。これが痛恨のパスミス!実は「隆盛」は西郷さんのお父さんの本名で、西郷さんの本名は「隆永」。明治天皇の手前でもありますし、その後「隆盛」で通します。
友達のミスを笑ってクリアする西郷さんの顔が目に浮かびます。

エドアルド・キヨッソーネ墓

エドアルド・キヨッソーネ墓
エドアルド・キヨッソーネ墓(外人墓地 南1種イ 6側48、49番)。

有名な西郷さんの肖像画を描いたのが、お雇い外国人、イタリア人画家のエドアルド・キヨッソーネ。

上野のお山の西郷さんの銅像も彼の手による肖像画をもとに塑像されています。

西郷家墓所

西郷家墓所
西郷家墓所(青山霊園 1種イ-11 21、22側)。

糸子

西郷さん三人目の妻イトとその子供たちのお墓が青山霊園にあります。
左から、酉三(イト三男)、イト(糸子)、寅太郎(イト長男)、隆輝(寅太郎の次男)。

上野のお山の西郷さん銅像除幕式で「宿んし(やどんし・うちの人)はこげんなお人じゃなかったこてえ」と言ったというのは有名な話です。

上野のお山の西郷さんはなぜ似ていないのか?へ

上野のお山の西郷さん

西郷さんの辞表

国立公文書館

西郷さんの辞表

2018年、国立公文書館「躍動する明治」展で公開された西郷さんの辞表。
此度兼官被免候付而者非職中御用間ヲ以テ鹿児島表ヘ罷越度此段奉願候也
署名は陸軍大将の肩書のまま。

弟の従道が右大臣岩倉具視に提出、翌日に許可された事が分かります。このようにして鹿児島に帰りますが、お江戸東京でも愛され続け、絶大なる人気を誇る西郷隆盛。多くの史跡が残り東京の人間は親しみを込めて西郷さんと呼んでいます。

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