古くはメインの街道だった桜田通り。この街道沿いの西久保八幡神社は長禄元年(1457年)頃、太田道灌、江戸城築城に際して霞ヶ関(一説には麻布台榎坂とも)より移されます。


ここは太田道灌の江戸城の出城とされる番神山城(ばんじんやま城)跡の間近で南に100mほどの小高い丘。もちろん神社の機能はありますが、西から街道を使って攻めてくる敵の監視、有事の際は前線基地として、軍勢の集合場所だったと考えられます。

いくさの神・八幡様を祀る西久保八幡神社というランドマークがあれば、武士どもは集合しやすく、また、この上から石でも投げれば大きな威力になり、中世のいくさは重力勝負だなと、勝手に物理的なことを思うのです。

この地は西久保八幡神社があったおかげて西久保城の城山のように切り崩されることなく砦の雰囲気を残しています。
西久保城を参照
西久保八幡神社北参道
西久保八幡神社男坂女坂とは別に、細道を抜けると北参道なるものが現れます。

この険しさを見上げ、上から石や矢が降ってきたらと思うとゾッとします。
番神山城
日本城郭体系には太田道灌塁として載っている太田道灌の出城、番神山城は西久保城同様、日比谷入江の埋め立て用に切り崩されます。そののち、出石藩仙谷讃岐守の上屋敷となり、明治以降は仙谷山と呼ばれるようになって、それを示す石碑が残ります。
しかしながら、掘り起こせば、これには「仙石山町會防護團 昭和十三年四月建之」といかめしく書いてあり、どうやら江戸の歴史を語る碑ではなさそうです。
防護團とは軍の指導で置かれた民間防空団体。ここには地元の消防団でもあったようで、思わぬところから昭和の歴史が見えてきます。
城跡をゆく
番神山城は跡形もないのですが、切り崩され低くはなっているものの、この城山へと登る神谷町緑道があります。
古地図を見ると、どうやらこの辺りを歩いているようです。
整備され、木洩れ陽豊かな道は都会の喧騒を忘れさせてくれるオアシスのよう。ここに太田道灌の出城があったなどと思いながら歩く人は稀でしょうが、当の道灌本人も想像すらしないこと。登りきると、山あれば谷があるで、麻布台とは思えない情緒あふれる谷を見下ろすことになります。
我善坊谷(がぜんぼう谷)
言い伝えによると、二代将軍秀忠の正室「お江の方」を荼毘に付した谷で、それに感謝の意を表し、三代家光が四人の僧に与えた地。座禅をするお坊さん、座禅坊が転訛し、我善坊になったと云います(諸説ありますが)。今の六本木はここから町屋が発展していったという都会のルーツです。








名の示す通り西久保八幡神社の西側は確かに窪地で、どちらを向いても坂だらけ。こうして見ると番神山城は街道近くの四方が切立った崖の上にあったようです。上り坂下り坂、山もあれば谷もある、感受性強く抱けば、往古の地形を想えば、まさに「つわものどもが夢の跡」です。

都心の謎の城跡「星ヶ丘城」へ
港区の名坂トップへ
「太田道灌の出城・番神山城」グーグルマップはこちら
またはマップ右上の拡大表示ボタンをクリックしてグーグルマップでご覧ください。