都会のベールをかぶり呼吸している東京。扉を叩けば古い歴史が顔を出します。東京といえばもちろん江戸城ですが、周辺にはいくつかの江戸以前の城跡と比定される地があり、古くは奈良平安、鎌倉、戦国時代の伝承が残ります。
家康の江戸以前
家康が天下普請によって浅瀬を埋め立て江戸城、大江戸の町を築く前は、東国の寒村に過ぎなかった江戸。

家康入府時(1590年)の江戸の姿が往古の城跡探しのヒントになりそうです。
奥州街道の関所、霞ヶ関
城があるからにはそこが軍事的な要衝であることが前提。
江戸名所図会では名所となった霞が関坂とは別に、江戸以前、往古の「霞ヶ関古図」想像図が載っています。


往古の奥州街道にして、関門のありし地なり……。『武蔵野地名考』に云う、ある古記に曰く、荏原郡霞関、大和武尊蝦夷の儲関なり。爾来、連綿としておほいにこれを置かる。挙国の勝景にして、しかもその遠眺雲霞を隔つ。ゆゑに霞関の号あり、云々
いまでは行政の中心地・霞ヶ関。奥州街道の関所と聞いて最初は驚きますが、都から見れば江戸などは奥州の一部。
遠くに見える水の流れは堀になる前の桜田濠でしょうか。

「霞ヶ関」というのは、日本武尊が蝦夷に備えて設けた関所と言っています。古過ぎて理解に苦しみます……。

霞ヶ関跡の碑
霞ヶ関跡の碑が東京メトロ霞ヶ関駅出口A2、霞ヶ関坂下にたちますが、霞ヶ関の比定地は数々あり、真偽はともかく、少なくとも奥州街道、古鎌倉街道、中原街道や日比谷入江に入ってくる船舶の監視に城・砦は必要だったと考えられます。

謎の星ヶ岡城
霞ヶ関坂、茱萸坂(グミ坂)を登り、首相官邸を過ぎ、山王坂を下るとそこは山王日枝神社。ここには「星ヶ丘城」の伝承が眠ります。


山王日枝神社は江戸の頃は日吉山王神社と呼ばれていました。いまでは溜池方面に東京らしくエスカレーター付きのメインの参道がありますが、山王坂下の階段が表門です。


この星ヶ丘城、一次資料が存在せず、全くの伝承ですが、現ザ・キャピトルホテル東急が城の第一郭、山王日枝神社が第二郭、都立日比谷高校が第三郭と云われており、大きな規模を有します。

今ではザ・キャピトルホテル東急の地盤が低くなっていますが、古地図を見るとそこが掘り下げられたのがわかります。

星に一番近い丘、星ヶ丘というロマンあふれるネーミングを初めて聞いたのはマンガ「美味しんぼ」。海原雄山のモデルは星ヶ丘茶寮で美食倶楽部を開いた北大路魯山人。星ヶ丘茶寮があったのは、第一郭にあたるところです。

第二郭(山王日枝神社)と第三郭(日比谷高校)の間の道は空堀を掘り下げたものと云われており、歩くと、確かにそんな気にさせてくれます。

そして神社には土塁の跡だと云われているものがあります。

ここで探索していると宮司の方が、社殿の裏ばかり覗いている私を不審に思ったのか暇だったのか話しかけてきます。
「ここはねえ、空襲で焼けてしまったんですが、そこのお稲荷さん(赤矢印)だけが焼け残ったんですよ。いまは立ち入り禁止ですけどね、賽銭箱を覗くと古い硬貨がまだ残ってますよ。それとね、この下の駐車場は昔、池だったそうです。下の「山の茶屋」のうなぎが絶品だと、東京一じゃないかと、うちの巫女さんたちに評判ですよぉ……」と、つづけざまに押し倒すように話します。

これは暇つぶしだなと確信し、にわか知識の星ヶ丘城のことを聞いてみると、
「えっ、星ヶ丘城⁈初めて聞きましたぁ。面白いですねえ、みんなに聞いてみよっと。でもねえ、可能性はありますよね、見ての通りの丘の上、丘続きですものぉ、へえ〜へえ〜」
「(・_・)……」目が点になる私。
一次資料が存在せず、学術的には何も言えず、日本城郭大系にも載っていない伝説の星ヶ丘城。ただの城似の地形、城郭好きの絵空事か、もしくは古代・奈良平安時代の事で、さほど都から重要視されていなかった江戸のこと。忘れさられたのか?と寂しく思うのですが、目の前には溜池になる前の湿地帯が拡がり攻めづらく、奥州街道・日比谷入江に近かったここは地形的・地勢的に見ても想像が拡がる場所です。
日本城郭大系にも載っている城跡が港区にあります。
港区に熊谷次郎直実はいたのか?
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