だらだらとゆるやかに登るこの坂、ゼームス坂。なぜ、こんなバタ臭い名の坂道があるのでしょうか?。

この坂は、幕末・明治初期の英国人船長「キャプテン・ジョン・M・ジェームス」に由来します。

もともと、この地は「浅間台」と云い、この坂も「浅間坂」と呼ばれた急坂でした。明治初期のこの地図でも海抜7mから15mに一気に登っています。
坂下に住んだキャプテン・ゼームスは私財を投げ打ってこの坂を改修、緩やかな勾配にして地元の人々に喜ばれます。
このキャプテン・ゼームス(ジェームス)、子孫もなく、自伝も残さなかったので今では忘れ去られていますが幕末・ご維新の日本に貢献したそうとうな人物だったようです。
キャプテン・ゼームス
坂本龍馬、海援隊とかねてから交流があり、龍馬の勧めもあって志士たちのイギリス密航を企てます。
慶応二年(1853年)七月十日、外国を見なければ話にならんと思う勤皇の志士たちを乗せたローナ号は長崎を出航、イギリスを目指します。上海へ寄港、次の寄港地シンガポールに向かう途中、船は難破し中国大陸に小舟で漂着。一難去ってまた一難、今度は青竜刀を持った盗賊に襲われ、船長ゼームスら乗組員は拳銃で、志士たちは日本刀で立ち向かい、命からがら、やっとの思いで日本に舞い戻ります。
以後、ゼームスは日本に永住することになり、新政府軍に協力を惜しまず、ご維新後は横浜鎮守府顧問、海軍省顧問等を歴任。明治二十八年(1895年)には勲二等旭日章を授与されています。
彼の名刺には「勲二等ジョン・M・ゼームス」と日本語で大きく誇らしげに書いてあったそうです。

親日家としても知られるゼームスは日蓮宗に帰依した仏教徒でもありました。自宅に純銀製の仏像三体を置くほど。それは、上海・香港で見たキリスト教布教を植民地支配に利用した姿に失望し「一切の衆生に仏を見る」という穏やかな宗教に魅了されたことに寄ります。
子供のいなかったゼームスは近所の子供に「ミンナデ分ケルンダヨ」と二十銭銀貨をあげる好々爺的なやさしい一面も見せ、また皆が困っている急坂を改修、地元の人々に感謝され、誰ともなく「浅間坂」は「ゼームス坂」と呼ばれるようになります。

このマンションのある場所にかつてゼームスの屋敷があり、屋敷にあったケヤキの木が今も残ります。
戦時中「敵性語」が禁止されても、この坂はゼームス坂で通したそうです。それだけ日本に貢献し愛されたゼームス。
もっとも、近くに税務署があり、ゼームス坂と聞いた憲兵も「ああ、ゼイムショ坂のことか」と聞き返すだけだったとの逸話も残っています。
幽霊坂
ゼームス坂の中腹から東に下る幽霊坂があります。ここはゴミ溜め隠しのための幽霊坂、ゴミ坂の特徴を満たしています。坂下にゴミ溜めがあり、それを見せないように坂はクランクしています。急激に落ち込む坂はかつての「浅間坂」もこうだったのかと思わせてくれます。地元では幽霊坂と呼ぶのを嫌い「ニコニコ坂」と呼んでいます。
ゼームス坂から幽霊坂
ゼームス坂を調べていると偶然にも図書館でこんな本を発見。吉村達也著「ゼームス坂から幽霊坂」。幽霊坂のマンションに住む一家の妻が花嫁姿で自殺。夫は世間体を気にして庭に死体遺棄します。翌日から幽霊になって現れる妻と一家三人で生活をやり直せるだろうか?という内容のミステリーホラー。
この本ではゼームス坂の歴史は二、三行言っていますが、幽霊坂については怖い「幽霊」のことだけクローズアップしています。
賛否はあると思いますが、自然現象「雷」によって有機物が生まれるから「雷=神なり」とか、一見、不可解と思える素粒子(Elementary particle)レベルでの幽霊の可能性を説いている箇所もあり、私には面白く、一日で読了。
幽霊坂のことを調べていると、ゴミ処理に従事した乞食同然の身分しかない人々の歴史も見えてくるもので、これくらい幽霊の恐怖をクローズアップした方が文学的にはシビアにそして無粋にならずに良いのかもしれません。
かと言って本当に幽霊が出たら怖いですが、ゼームスの幽霊なら会って話してみたいと誰もが思うでしょう……。
幕末・明治維新トップへ
幽霊坂とは
「ゼームス坂から幽霊坂」グーグルマップはこちら
またはマップ右上の拡大表示ボタンをクリックしてグーグルマップでご覧ください。