ときに、立ちすくんでしまう絵があるものです。
東京ではそう珍しくもない関東ローム層の赤土むき出しの坂道が青空へと伸び、路傍には真新しい白い壁と造成地の土手。そして赤土の道に落ちる電柱の影。これらの自然と人工物は対比を成して、強烈なインパクトを放ち、新しく生まれた坂道の生命すら感じます。
芸術を学んだ事もなく偉そうなウンチクは述べられないのですが、作者の術中にハマり込み、しばしの間、その絵の前を動けなくなってしまいます。
道路と土手と塀(切通之写生)
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この絵を見たのは東京国立博物館で開催された「名作誕生 つながる日本美術」という展示。様々な芸術作品の誕生舞台裏を解説している意義ある展示でした(現在この絵は東京国立近代美術館で常設展示)。

岸田劉生(1891年ー1929年)といえば、日本全国の小学生を恐怖のドン底に落とし込んだ「麗子像」で知られます。銀座で生まれ「麗子像」の連作を描く前、大正四年(1915年)二十四歳の時、代々木に住み、明治の頃は鬱蒼とした森や畑だったところに、大正初期、切り通された坂道を題材にこの作品を描いています。


古地図によると白い擁壁は元土佐藩主・山内侯爵邸のものです。
また、絵の右下に5th November 1915とあり、坂道に落ちる電柱の影を日時計にして考えると秋の昼前午前11時ごろ。

劉生は北欧ルネサンスの巨匠アルブレヒト・デューラーやファン・エイクに心酔。彼らの細密描写に挑戦し、写実を自分なりに再構成。内なるものを包み込み、試行錯誤の末に独自の画風を確立しています。
大正五年(1916年)に描いたこの「古屋君の肖像」が写実の一つの到達点を物語っています。
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不自然さを感じる絵
「道路と土手と塀」は写実ではありますが、3Dの消失点が一致せず写実の中にも不自然さがあり、少しばかり不思議な気持ちにさせるところがあります。「名作誕生」ではそのもとを辿り、日本伝統の浮世絵の影響を指摘し、それも展示しています。


お江戸東京の名所といえば坂道。浮世絵は対象物を強調し、消失点を意識することなく描いているものがほとんどです。
霞ヶ関坂の浮世絵は部屋に飾っていたらしく、お気に入りだったようで「道路と土手と塀」にはその影響が色濃くでています。霞ヶ関坂を登る大八車の荷の凸。切通しの坂の坂上にも小さな凸が突出してあり、北斎の九段坂脇の強調した土手にも通じるところがあります。
しかしながら、この絵の部分をみると写実が徹底していて、石ころの影や盛り上がった赤土の質感などに引き込まれ、劉生の画力に脱帽してしまいます。日本の西洋絵画に新風をもたらした傑作、尚且つ日本古来の伝統的なものも感じる、故に重要文化財なのかもしれません。
この代々木の坂道、百数年後の今はどのように変わっているのでしょうか?
岸田劉生が描いた切通しの坂
坂道に行ってみるとマンションが立ち並びますが、さほど地形は変わってはおらずに面影を残しています。
影の具合が同じになるように午前11時ごろ、写生したポイントに立ち、にわか芸術家となって一眼レフを取りだします。
同じ頃にこの辺りを写生した絵がもう一枚あります。

これによると白い擁壁が手前の方まで続いているのがわかり、少し坂下に下りると山内邸の擁壁の一部が残っています。
1970年代の古写真では絵に描かれている高い擁壁、石垣で固められた造成地が写っています。
場所は変わろうとも、絵の内に秘められたものは変わりません。
怖い麗子?
父が偉大な芸術家だったがために、怖いものになってしまった「麗子像」ですが、やはりこの連作も内なるものを秘めています。ダビンチのモナリザの微笑みを秘めた作、中国画を意識した作、岩佐又兵衛にヒントを得た作など。劉生は生涯50点の麗子像を描いています。



父の実験作のモデルになり様々な変容を遂げることになりますが、実はこんなに可愛かった麗子です。
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