渋谷スクランブル交差点を横目で感じながら、ハチ公前広場で待つ間にハチ公ネタを仕入れておいてはいかがですか?
ハチが住んでいたのはココ、歩いたのはこの道。知っていて歩くと、いつもの渋谷の街が新鮮に映ります。
上野先生との出会い

駒場の東京帝国大学農学部、上野栄三郎博士は接待をいっさい受けつけない高潔なお人柄。後進たちへの支援を惜しまない教育者です。そして大の犬好き。今までに犬を二十匹は飼っています。青森で働く教え子の一人が電話で「何かお礼に青森の名物でも送りたいのですが」というので「それなら秋田犬でもぉ…」と返事をすると、大正13年(1924年)1月15日、鉄道小荷物で子犬が送られてきます。
小荷物で犬が送れた時代があったとは驚きです。

上野先生は「ハチ」と名付け可愛がります。病気のハチを布団に入れ一緒に寝ることも。先生の書生、教え子たちは呼び捨てにすることをはばかり「ハチ公」と呼びます。
中渋谷大向(現・渋谷区松濤、東急百貨店本店裏)の家から勤め先である大学の正門まで、毎朝いっしょに歩き、頭を撫でてあげるとハチはひとりで家に帰えってゆきます。

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そして夕方になると、ハチは正門前で待っていて先生を見ると嬉しくなって飛びつきます。



この辺り(古地図赤矢印)で、先生とハチのじゃれ合う光景がくりひろげられていたはずです。
スーツを汚されても上野先生はハチをしからずに可愛がるばかりです。
しかし、そんな幸せな時間は長くは続きませんでした。先生とハチが出会ってから1年と4ヶ月後のことです。
上野先生倒れる
大正14年(1925年)5月21日夕方、いつものようにハチは正門で先生を待っていますが、いつまでたっても、夜中になっても現れません。上野先生は勤務中、脳内出血で倒れ病院に運ばれ亡くなっていたのです。
上野先生の家は借家だったため、八重子未亡人とハチは家を出て行かなければならず、ハチは親戚の家を転々とします。大伝馬町、浅草と親戚のウチへ預けられますが、不憫に思った上野先生の教え子たちが、世田谷の弦巻に住処を用意。これも亡き先生への恩返しです。
こうして、八重子夫人とハチは弦巻に移り住みますが、ハチは毎朝出掛けて行き、夕方になると帰ってきます。
夫人は駒場の大学正門に行っているのだとせつなく思っていましたが、ある日、ハチを渋谷駅で見かけたと知人に告げられます。
なぜ渋谷駅に行っていたのか?
上野先生が出張する際は渋谷駅を利用。ハチはなかなか帰って来ないご主人さまは出張していると思っていたようです。

渋谷駅にも迎えに来てくれる頭のいいハチに上野先生はびっくり!出張予定より早く帰った時でさえ待っていたこともあり、またびっくり!上野先生は駅前の屋台で焼鳥をごちそうしてあげたとか。そんな思い出がハチの中にもあったのでしょう。


第二のご主人さま・小林菊三郎

弦巻から渋谷までは5キロ強。かわいそうに思った八重子夫人は以前、上野家に出入りしていた植木職人、小林菊三郎にハチを預けます。菊三郎の家は代々木富ヶ谷にあり渋谷駅までは1.5キロほど。
自分の子供たち(男4人・女4人)が一銭のコロッケを食べていても、ハチには十銭の牛肉を与え、亡き上野先生の形見だからと言って大切に育てます。
菊三郎についてゆき渋谷の街、道玄坂を歩いたり、子供達と銭湯に行き、銭湯の前で待ち子供を背に乗せて帰ることも。


菊三郎の家から渋谷駅への途中、先生と暮らした家の前(古地図A)を通り、立ち止まり、中をのぞいていたとか。

渋谷駅前に毎日いる図体の大きいハチは、はじめのうちはハーネス(胴輪)をつけられているにもかかわらず野良犬と思われてしまい邪魔もの扱いされます。
生来、秋田犬はおっとりとした性格。犬一倍おとなしいハチはイタズラされても、触られても嫌がらず、ハーネスを盗まれるとこもしばしばあったとか。そんなおとなしいハチですが、体が大きいので野良犬仲間から推されボスだったようです。自分から喧嘩を売ったわけでなく、犬同士の喧嘩の仲裁に入り、耳を噛まれたことがありました。傷はすぐ治り、耳を立てますが、重度の皮膚病に冒された時、その後遺症で古傷の左耳が寝てしまったようです。
そんなハチの境遇も、この新聞記事で一変します。
忠犬の忠君愛国
10月4日付朝日新聞朝刊.jpg?resize=474%2C350&ssl=1)
この記事でハチは、たちまち全国区の人気者になり、あろうことか軍が利用。「忠犬ハチ公」の忠だけひとり歩きし「忠君愛国」のシンボルにされ「忠犬ハチ公物語」が尋常小学校国定教科書に掲載されます。

ハチ公の銅像を作ろうという機運が一気に高まり、募金運動が開始され、全国から手紙とお金が送られてきます。そうなるとハチ公人気にあやかろうとする便乗商売がでてくるものでハチ公の木像を作るというサギまがいの輩が現れ、銅像制作の邪魔をします。これに対抗して、いち早く銅像を作ろうと、ハチの生前に銅像は完成します。


ハチの最期

昭和10年(1935年)3月7日、ハチは駅長室、他の職員の部屋を訪れ、駅前の馴染みのお店を数件廻り、あいさつをして、姿を消します。
明くる8日、ハチは渋谷川に架かる稲荷橋で発見されます。ここはいつもは行かないところ、ハチは誰にも看取られることなく亡くなり、上野先生の眠る青山墓地の方角を向いていたと云います。
亡骸は東大で解剖されます。死因は重度のフィラリア(寄生虫)症で血流が妨げられ、また、残された標本の最近のMRI観察では悪性腫瘍が見つかっています。胃からは4本の焼き鳥の串が見つかっていますが、これは死因とは言えないとしています。剥製となったハチは耳もピンと立ち、上野公園の国立科学博物館に展示されています。
ハチの葬儀
昭和10年(1935年)3月12日、葬儀は青山墓地の上野先生の墓の横にある愛犬の祠で行われます。全国から送られてきた花輪25基、生花200束、手紙弔電180通、清酒樽1本。日本中が悲しみに沈みますが、「あれだけ慕っていた主人のもとに行けて少しだけ安心しています」と八重子夫人は語っています。


戦争の影
昭和16年(1941年)太平洋戦争開戦、またしてもハチ公は戦意高揚に利用されます。金属供出の宣伝に利用され、浜松の国鉄工場で溶かされて機関車の一部になってしまいます。

やがて終戦をむかえ、愛ある物語、平和の象徴としてハチ公像を再建しようという声が湧きあがります。占領下の連合国軍司令部(GHQ)も後押しします。
二代目ハチ公像
初代ハチ公像を制作した安藤照は空襲で亡くなっています。白羽の矢を立てられたのが、彼の息子・安藤士(たけし)。安藤士は父が像を制作している間に、ハチ公に寄り添いポーズを付けさせたり、遊んであげていてハチ公のことをよく覚えています。
さて銅像を作ろうとしても、終戦直後のこと、材料である「銅」がありません。


安藤士は空襲で焼けた自宅の瓦礫の下に父の作品「大空に」が埋まっていることを思い出します。2メートルはゆうにあるこの像を鋳溶かし、二代目ハチ公像を完成させます。
父の大事な形見をハチ公像に造り変え父の思い出、父の遺志をも塗り込めます。

終戦から3年後の終戦記念日、昭和23年(1948年)8月15日、二代目ハチ公像が除幕されます。
以後、今日まで、待ち合わせスポットとして、平和の象徴として、渋谷の街を静かに見守っています。
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