【忠犬ハチ公秘話】待っていたのは駒場⁈像は二代目⁈

忠犬ハチ公像渋谷スクランブル交差点を横目で感じながら、ハチ公前広場で待つ間にハチ公ネタを仕入れておいてはいかがですか?
ハチが住んでいたのはココ、歩いたのはこの道。知っていて歩くと、いつもの渋谷の街が新鮮に映ります。

上野先生との出会い

上野英三郎博士

駒場の東京帝国大学農学部、上野栄三郎博士は接待をいっさい受けつけない高潔なお人柄。後進たちへの支援を惜しまない教育者です。そして大の犬好き。今までに犬を二十匹は飼っています。青森で働く教え子の一人が電話で「何かお礼に青森の名物でも送りたいのですが」というので「それなら秋田犬でもぉ…」と返事をすると、大正13年(1924年)1月15日、鉄道小荷物で子犬が送られてきます。
小荷物で犬が送れた時代があったとは驚きです。

書生と子犬の頃のハチ。
書生と子犬の頃のハチ。

上野先生は「ハチ」と名付け可愛がります。病気のハチを布団に入れ一緒に寝ることも。先生の書生、教え子たちは呼び捨てにすることをはばかり「ハチ公」と呼びます。
中渋谷大向(現・渋谷区松濤、東急百貨店本店裏)の家から勤め先である大学の正門まで、毎朝いっしょに歩き、頭を撫でてあげるとハチはひとりで家に帰えってゆきます。

もと上野先生の家辺り。
もと上野先生の家辺り。
古地図:大正5-10年(1917-21年)陸地測量部2万5千分の1地形図より、松濤の家から東京帝国大学農学部正門。緑矢印が109。
古地図:大正5-10年(1917-21年)陸地測量部2万5千分の1地形図より、上野先生の家から東京帝国大学農学部正門緑矢印が109の位置(クリックで拡大)。
この道を真っ直ぐ行くと正門
この坂道を真っ直ぐ登って行くと東京帝国大学農学部正門がありました。

そして夕方になると、ハチは正門前で待っていて先生を見ると嬉しくなって飛びつきます。

東大弥生キャンパス
下は東大弥生キャンパスの上野英三郎博士とハチ公像。
東京帝国大学農学部地図。三田用水の橋を渡るとすぐ正門。
東京帝国大学農学部地図。目黒区と渋谷区の区境、三田用水の橋を渡るとすぐ正門(クリックで拡大)。
東大農学部正門のあった辺り。
東大農学部正門のあった辺り。手前の十字路が三田用水跡。

この辺り(古地図赤矢印)で、先生とハチのじゃれ合う光景がくりひろげられていたはずです。

上野英三郎博士とハチ公像スーツを汚されても上野先生はハチをしからずに可愛がるばかりです。
しかし、そんな幸せな時間は長くは続きませんでした。先生とハチが出会ってから1年と4ヶ月後のことです。

上野先生倒れる

大正14年(1925年)5月21日夕方、いつものようにハチは正門で先生を待っていますが、いつまでたっても、夜中になっても現れません。上野先生は勤務中、脳内出血で倒れ病院に運ばれ亡くなっていたのです。

上野先生の家は借家だったため、八重子未亡人とハチは家を出て行かなければならず、ハチは親戚の家を転々とします。大伝馬町、浅草と親戚のウチへ預けられますが、不憫に思った上野先生の教え子たちが、世田谷の弦巻に住処を用意。これも亡き先生への恩返しです。

こうして、八重子夫人とハチは弦巻に移り住みますが、ハチは毎朝出掛けて行き、夕方になると帰ってきます。
夫人は駒場の大学正門に行っているのだとせつなく思っていましたが、ある日、ハチを渋谷駅で見かけたと知人に告げられます。

なぜ渋谷駅に行っていたのか?

上野先生が出張する際は渋谷駅を利用。ハチはなかなか帰って来ないご主人さまは出張していると思っていたようです。

その頃の渋谷駅
その頃の渋谷駅。

渋谷駅にも迎えに来てくれる頭のいいハチに上野先生はびっくり!出張予定より早く帰った時でさえ待っていたこともあり、またびっくり!上野先生は駅前の屋台で焼鳥をごちそうしてあげたとか。そんな思い出がハチの中にもあったのでしょう。

古地図:昭和3-11年(1928-36年)1万分の1地形図より焼き鳥屋台の位置上野先生の家(中渋谷大向843番地)。緑矢印が今の109の位置渋谷駅には東京市電の停車場、東急電鉄(玉電)の駅も確認できます(クリックで拡大)。
SHIBUYA109とハチ公広場の東急電鉄の5000系、通称「青ガエル」。
SHIBUYA109とハチ公広場の東急電鉄の5000系、通称「青ガエル」。

第二のご主人さま・小林菊三郎

小林菊三郎とハチ公
小林菊三郎とハチ公。

弦巻から渋谷までは5キロ強。かわいそうに思った八重子夫人は以前、上野家に出入りしていた植木職人、小林菊三郎にハチを預けます。菊三郎の家は代々木富ヶ谷にあり渋谷駅までは1.5キロほど。
自分の子供たち(男4人・女4人)が一銭のコロッケを食べていても、ハチには十銭の牛肉を与え、亡き上野先生の形見だからと言って大切に育てます。

菊三郎についてゆき渋谷の街、道玄坂を歩いたり、子供達と銭湯に行き、銭湯の前で待ち子供を背に乗せて帰ることも。

道玄坂と吉沢利工
道玄坂と菊三郎とハチが通った金物店「吉沢利工。
小泉湯
コインランドリーが銭湯「小泉湯」(旧住所:代々木富ヶ谷町1565)のあった辺り、右隣が小林菊三郎宅跡。

菊三郎の家から渋谷駅への途中、先生と暮らした家の前(古地図A)を通り、立ち止まり、中をのぞいていたとか。

菊三郎の家から渋谷駅までの道のり
菊三郎の家(青矢印)から渋谷駅までの道。ハチは細い旧道を好んだようです。A :もとの上野栄三郎博士の家 B:今のハチ公前広場。緑矢印が今の109の位置(クリックで拡大)。

渋谷駅前に毎日いる図体の大きいハチは、はじめのうちはハーネス(胴輪)をつけられているにもかかわらず野良犬と思われてしまい邪魔もの扱いされます。

ハチの左耳はなぜ寝ているのか?

ハチ公の耳

生来、秋田犬はおっとりとした性格。犬一倍おとなしいハチはイタズラされても、触られても嫌がらず、ハーネスを盗まれるとこもしばしばあったとか。そんなおとなしいハチですが、体が大きいので野良犬仲間から推されボスだったようです。自分から喧嘩を売ったわけでなく、犬同士の喧嘩の仲裁に入り、耳を噛まれたことがありました。傷はすぐ治り、耳を立てますが、重度の皮膚病に冒された時、その後遺症で古傷の左耳が寝てしまったようです。

そんなハチの境遇も、この新聞記事で一変します。

忠犬の君愛国

昭和7年(1932年)10月4日付朝日新聞朝刊。
昭和7年(1932年)10月4日付朝日新聞朝刊。

尋常小学校教科書

この記事でハチは、たちまち全国区の人気者になり、あろうことか軍が利用。「忠犬ハチ公」のだけひとり歩きし「忠君愛国」のシンボルにされ「忠犬ハチ公物語」が尋常小学校国定教科書に掲載されます。

銅像募金付きハチ公チョコレート。一個10銭。

ハチ公の銅像を作ろうという機運が一気に高まり、募金運動が開始され、全国から手紙とお金が送られてきます。そうなるとハチ公人気にあやかろうとする便乗商売がでてくるものでハチ公の木像を作るというサギまがいの輩が現れ、銅像制作の邪魔をします。これに対抗して、いち早く銅像を作ろうと、ハチの生前に銅像は完成します。

彫刻家・安藤照とハチ公。完成した銅像を見るハチ公。
彫刻家・安藤照とハチ公。完成した銅像を見るハチ公。
戦前のハチ公広場
戦前のハチ公広場。
 忠犬ハチ公像はできた当初から人気のランドマーク、待ち合わせスポットとなりますが、ハチはもう11歳、人間でいうと70過ぎ。日に日に体は衰え、菊三郎の家から渋谷駅へゆくのもおぼつかなくなります。そこで渋谷駅の吉川駅長は駅の小荷物室に寝泊まりさせてあげます。

ハチの最期

ハチ公と吉川駅長
ハチ公と吉川駅長。

昭和10年(1935年)3月7日、ハチは駅長室、他の職員の部屋を訪れ、駅前の馴染みのお店を数件廻り、あいさつをして、姿を消します。

明くる8日、ハチは渋谷川に架かる稲荷橋で発見されます。ここはいつもは行かないところ、ハチは誰にも看取られることなく亡くなり、上野先生の眠る青山墓地の方角を向いていたと云います。

ハチ公剥製亡骸は東大で解剖されます。死因は重度のフィラリア(寄生虫)症で血流が妨げられ、また、残された標本の最近のMRI観察では悪性腫瘍が見つかっています。胃からは4本の焼き鳥の串が見つかっていますが、これは死因とは言えないとしています。剥製となったハチは耳もピンと立ち、上野公園の国立科学博物館に展示されています。

ハチの葬儀

昭和10年(1935年)3月12日、葬儀は青山墓地の上野先生の墓の横にある愛犬の祠で行われます。全国から送られてきた花輪25基、生花200束、手紙弔電180通、清酒樽1本。日本中が悲しみに沈みますが、「あれだけ慕っていた主人のもとに行けて少しだけ安心しています」と八重子夫人は語っています。

青山霊園の上野栄三郎博士の墓。
青山霊園の上野栄三郎博士の墓。
愛犬の祠
愛犬の祠。

戦争の影

昭和16年(1941年)太平洋戦争開戦、またしてもハチ公は戦意高揚に利用されます。金属供出の宣伝に利用され、浜松の国鉄工場で溶かされて機関車の一部になってしまいます。

ハチ公譽れの出陣。日の丸を巻かれ供出されてゆきます。
ハチ公譽れの出陣。日の丸を巻かれ供出されてゆきます。

やがて終戦をむかえ、愛ある物語、平和の象徴としてハチ公像を再建しようという声が湧きあがります。占領下の連合国軍司令部(GHQ)も後押しします。

二代目ハチ公像

初代ハチ公像を制作した安藤照は空襲で亡くなっています。白羽の矢を立てられたのが、彼の息子・安藤士(たけし)。安藤士は父が像を制作している間に、ハチ公に寄り添いポーズを付けさせたり、遊んであげていてハチ公のことをよく覚えています。
さて銅像を作ろうとしても、終戦直後のこと、材料である「銅」がありません。

二代目ハチ公像を制作する安藤士。
二代目ハチ公像を制作する安藤士。
安藤照作「大空に」
安藤照作「大空に」。

安藤士は空襲で焼けた自宅の瓦礫の下に父の作品「大空に」が埋まっていることを思い出します。2メートルはゆうにあるこの像を鋳溶かし、二代目ハチ公像を完成させます。
父の大事な形見をハチ公像に造り変え父の思い出、父の遺志をも塗り込めます。

二代目ハチ公像除幕式
二代目ハチ公像除幕式。

ハチ公前広場終戦から3年後の終戦記念日、昭和23年(1948年)8月15日、二代目ハチ公像が除幕されます。
以後、今日まで、待ち合わせスポットとして、平和の象徴として、渋谷の街を静かに見守っています。

ハチ公前スクランブル交差点

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