幕末とは物騒な時代です。
攘夷のはじめは、レイシズム、民族至上主義、人種差別にほかありません。やがて頭のいい人たちはそれに気付きますが、神国を汚したなどと、攘夷の前に尊皇とつけ、自分の行為を神聖なるものと正当化し、毛嫌いを通し、暗殺などという卑劣な行為に及んでしまいます。
ヒュースケン暗殺事件を参照

港区の光林寺を訪れ、不幸にも暗殺に倒れたアメリカ公使館付通訳ヒュースケンの墓をお参りし、墓石の上にのる笠石は家紋が削りとられているので、リサイクル石材の後付けだなと、自分勝手な、ひとりよがりの考察をしながら、周りを見ると、似たようなお墓が目に入ります。

ヒュースケンのような笠石は無く、十字架も彫られていません。
墓石には英文で、
DAN – KUTCI,
JAPANESE LINGUIST
TO THE
BRITSH LEGATION
Mudered
BY
JAPANESE ASSASSINS
29th January, 1860.
1860年1月29日、ダン・ケッチ、
イギリス公使館の日本語通訳、日本人に暗殺される。
ASSASSINS、暗殺とはショッキングですが、抗議の意図が見え隠れします。裏面を見ると、
安政七申歳
禅了院伝翁良心居士
正月○○七曰
(○○は磨滅して判読できない)
と戒名があり、どうやら仏教徒で日本人のようです。
イギリス公使館付の日本人通訳がどんな事件に巻き込まれ、ここに眠っているのでしょうか?
ボーイ伝吉
DAN – KUTCIの本名は岩吉。紀州加茂郡塩津(和歌山県下津町塩津)出身の水夫。通称がん吉、ダン・ケッチ、伝吉、ボーイ伝吉。イギリス公使館付の通訳。イギリスに帰化し、帰化名ボーイ・ディアス。

そう、彼はジョン万次郎のような漂流民です。栄力丸という船で仲間とともに流され、十年近くサンフランシスコ、ハワイ、清国を放浪。イギリス公使オールコックに、通訳として拾われ、彼と一緒に帰国したのは安政六年(1859年)のこと。帰国前、イギリスに帰化し、自らを「イギリス臣民」と名乗っています。
この伝吉、イギリス臣民を鼻にかけ、騎馬で出歩く洋装の日本人として江戸中に知れ渡ります。
このころ、攘夷の標的は外国人にとどまらず、外国人と付き合いのある日本人にも向けられていた時代です。

安政六年(1859年)十一月五曰、伊皿子坂台町の通りで同心・島田周蔵という武士と口論となり一触即発の状態でしたが、たまたま通りかかった外国方役人が仲裁に入り事無きを得ています。
同年十一月二十四曰夜七時頃、伝吉は騎乗し、北品川宿三丁目あたりを通りかかった時、酔った武士二人に馬から引きずりおろされそうになったので、相手を鞭で打ち払ったとか。
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このような事件を度々起こす不良なので外国奉行は東禅寺のイギリス公使館に伝吉の解雇を勧めています。
そんな矢先、事件は起こります。
暗殺
安政七年正月七曰(1860年1月29日)日曜日、サンデイは仕事がお休みの休息日です。イギリス公使館・東禅寺門前で、伝吉はいつもの洋装で子供達の凧揚げを手伝っていると、背後から武士二人が現れ、短刀で背中をつかれ、刃は胸を突き抜けます。
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たまたま公使館に泊っていたイギリス艦ローバック号艦長マーテン大佐が咳き込みながらオールコックの部屋に走ってきてき叫びます。
「あなたの通訳が重傷を負って運ばれてきます!」
オールコックも駆けつけ伝吉に声をかけますが、目をすこし動かすだけで、意識はほとんどありません。ときどきくちびるを震わしますが、無言のまま。傷口を調べるために洋服をぬがしている間、一二度けいれんを起こし、その痛みのためか全身を震わし苦悶すると程なく息を引きとります。
幕府に訴えても下手人は捕まりませんでした。
この事件には尾ビレが付いて、こんな話もあります。
伝吉がイギリス公使館職員に日本人女性を斡旋していたというのです。
三田のソパ屋「鶴寿庵」の娘お花、本芝妙法院の寺娘お香乃の両人は生娘ではなく、道楽娘のうわさがあり品行はよくなかった。 お花はあでやかで美しく、妖婦のようであり、一方お香乃も男心を誘うような色っぽい美しさがあった。 お花の実家鶴寿庵が、人気娘を異人館に奉公に出そうとした裏には、お定りの借金があり、お香乃の寺にしても内情はよくなかったようだ。 両人の洋妾勤めはすべて家のためであった。ところが、鶴寿庵に酒を飲みにやって来る客の中に浪士某がおり、ある曰のこと、お花は、家のために東禅寺に奉公にあがらねばならない、と泣いて語り公使館の伝吉なるものが口入屋と相談し私にラシャめん勤めをさせようとしていると伝吉が奔走したことをぶちまけた。 お花に恋していた野州(栃木県)浪人桑島三郎(二十五歳)の耳に入ったから事がめんどうになり、浪士らは伝吉に天詳を加えんものと、その機会を伺った。 伝吉をあやめた犯人は、この桑島三郎ではないかという。
この話は昭和六年(1931年)刊行の「驫獣綿羊娘情史」という本にあるものです。昭和の初めといえば、軍国主義真っ只中の時代。攘夷の時代と似たところがあります。本芝妙法院ってどこ?などと不明なところも多く信用できない、でっちあげの話です。
下田のアメリカ領事館で病気のタウンゼント・ハリスを介護しただけで偏見を持たれ、洋妾悲話「唐人お吉」が作られたように。
唐人お吉の写真
19歳くらいの唐人お吉の写真として知られるこの写真も捏造されています。
この写真のもととなったのが、横浜で外国人向け土産として売られていた「Officer’s Daughter(士官の娘)」というタイトルの写真です。
これにレタッチを加え、髪飾りを消したものです。
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日本人離れした美しい娘さんです。
この写真は海外でもウケたようで、イギリス人と日本人の混血の少女とか、鼻を整形した日本人などと笑ってしまうキャプションをつけた本もあります。

実はこのモデルさんの写真がもう一枚存在します。「二十歳の士官の娘」というタイトル。
この写真が撮られたのは1887年から1897年頃と推定され、1841年(天保十二年)生まれのお吉だとしたら四十か五十のはずで、年代的に見ても、でっち上げは明らかです。
攘夷の時代
攘夷の波に飲み込まれた伝吉は帰国後わずか七ヶ月(享年三十前半と推定される)で命を落とし、伝記を残していないのが残念です。どんなひとだったのでしょうか?
評判では、高飛車で嫌な奴、幕府も嫌っていたようですが、一方、オールコックは伝吉に何かキラリとしたものを感じていて、世界を旅させ見聞を持たせようとしていたと語っています。
そもそも、外国とは文化が違います。
裸同然のフンドシ一丁で走る飛脚をみて野蛮人と思われ、握手を求めても土下座して頭を下げる。男女混浴で銭湯に入っていてハレンチ極まりない。

酔った異人に抱きつかれた。それはハグという愛情表現、お礼だ、感謝の気持ちだとわかるまでに長い時間を要します。
銭湯の件も体臭を香水でごまかす自国の文化とは違い、毎日清潔な日本人と気付く外国人がだんだんと増えて、相互理解が高まってゆきます。
伝吉にも偏見が向けられていたのかもしれません。
日本人であっても、外国人と繋がりがあるだけで、売国奴扱いされたこの頃は、我々にとっても恥ずべき時代でした。
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