文久三年(1863年)四月十三日、幕府が自ら手を下した清河八郎の暗殺から、わずか二日後、リーダーを失った浪士組は幕府により新徴組と改名されます。
この日はまさに、清河が横浜外国人居留地襲撃を計画していた日でした。
幕府は新徴組内部の過激攘夷派・清河親派を封じ込めます(首謀格の石坂周造、村上俊五郎は諸藩預かり、山岡鉄舟、高橋泥舟は蟄居閉門)。京の新選組の粛清とは違い、温和な処罰・対応。
脱退するものも多数いましたが「去る者は追わず」。あるものには金子を渡して故郷へ帰らせることもありました。
そんなユルい規則のおかげで、山岡鉄舟、高橋泥舟らは江戸無血開城、明治維新後も活躍することになります。
幕末を始めた男・清河八郎を参照

もとの浪士組は剣の腕がたつ暴れん坊集団。こんな集団を任せられるのは、徳川四天王のひとり酒井忠次を祖とする庄内藩酒井家しかないと、幕府が半ば厄介払いのように、酒井家に押し付けた格好。酒井家は清河八郎の主人筋にあたることもあり文句が言えずに、ありがた迷惑な話でした。

当時、幕府内部でも、佐幕派と開国派が対立していた状態。庄内藩預かりの新徴組からは政治色を一掃し、江戸市中の警備「御見廻り」につけます。もともと江戸で募集された浪士組出身ですから庄内藩士よりも江戸の地理地勢には詳しく、剣術にも優れ、重宝されます。
御見廻り=おまわりさんの誕生です。
江戸のおまわりさん「新徴組」
黒船来航以降、幕府は参勤交代の停止と引き換えに、各藩に海岸防備を命じます。そのことで江戸市中の大名屋敷の多数は狸や狐の住処となるありさま。
開国後、諸外国との貿易により流通機構はマヒし、物価は高騰。江戸は野盗強盗が頻発し混乱に陥ります。

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そんななか、新徴組は九段・冬青木坂(モチノキ坂)下の酒井家屋敷長屋に組屋敷(今でいうと警視庁)を設け、一組五人、三十組が手分けして江戸市中の見廻りを開始します。朝は八時から夜は十二時過ぎまで毎日、正月も休まずに巡回し「おまわりさん」「冬青木坂の新徴組」と呼ばれ親しまれてゆきます。
見廻りルート
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東は両国、西は内藤新宿(新宿)、南は品川宿、北は浅草吉原まで。これだけの広いエリアをパトロールするとなると、休憩所、問題多発地点には屯所(交番)が必要となります。
商家や料亭をはじめ、妓楼・女郎屋までもが率先して休憩所、屯所を提供しています。妓楼・女郎屋?
庄内藩のイケメン
庄内藩は酒井の殿様、忠篤(ただずみ)・忠宝(ただみち)兄弟をはじめ、家老・新徴組御用掛の松平権十郎、酒井玄蕃ら美男子揃いとの評判が高かったとか。妓楼・女郎屋はイケメン目当て?
明治の古写真を見ると……

なるほどヤバイくらいのイケメンです。
イケメン目当てとは大げさですが、それだけ江戸の治安が悪化。おまわりさんがそばにいてくれば安心ということのようです。

出羽の庄内鶴ヶ岡
酒井なければお江戸は立たぬ
御廻りさんには泣く子も黙る

と江戸歌謡にも詠われるほど、江戸市中をパトロールし、治安を守るおまわりさん「新徴組」は評判が良く、庶民からの通報を受けて、即座に現場に急行、賊を捕えることもしばしばだったとか。
まさに幕末お江戸のヒーローでした。
大政奉還
慶応三年(1867年)徳川慶喜公は明治天皇に政権を返還します。幕府とて薩長とて天子様を奉じる尊皇派には違いありません。薩長側には政治を司る能力・経験もなく、慶喜公は新政府でもトップに君臨できるという思惑のある起死回生のクリーンヒットを放ちます。
御用盗事件
大政奉還により薩長は徳川と戦う大義名分を失います。
新しい世を創るには、あくまで徳川の武力討伐が必要と考える西郷さんは徳川旧幕府を挑発します。相楽総三らの赤報隊や浪士を使い放火、商家乱入などのテロ行為を繰り返します。
テロ後、賊徒が三田の薩摩藩邸に逃げ込んでゆくのが度々目撃されます。赤羽橋・美濃屋の新徴組屯所、三田春日神社前・庄内藩屯所へ鉄砲が撃ち込まれる事件に及んで、慶喜公留守中の幕府は、挑発にのってしまいます。

江戸薩摩藩邸の焼き討ち

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慶応三年十二月二十五日(1868年1月19日)深夜、庄内藩に加え上之山藩、鯖江藩、岩槻藩連合軍は、三田薩摩藩上屋敷(赤矢印)を襲撃。
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庄内藩大砲組を組み込まれていた新徴組も呼応し、綱坂上の薩摩支藩佐土原藩邸(青矢印)を攻撃し、東海道の海側にある芝浜薩摩藩蔵屋敷(緑矢印)へと逃げる薩摩側兵士を追撃します。
奇しくもここ蔵屋敷は、西郷・勝会談が行われた場所です。



庄内藩、新徴組は勝利の美酒に酔いますが、京にいる西郷さんは徳川攻撃の口実を得てニヤリとし、大阪城にいる慶喜公は「やってしまったか」と苦虫を噛んだことでしょう。
江戸の治安を維持した新徴組はその後の戊辰戦争への引き金を引いてしまいす。
清河八郎が幕末を始めたとすると、彼の産物・浪士組、のちの新徴組は幕末を加速させたと云えます。
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