伝通院はまことに不思議なお寺です。
徳川幕府・家康の生母於大の方の菩提寺、三葉葵の眩しさとは裏腹に、禁教下の転びバテレン・ジュゼッペ・キアラの供養碑があるかと思えば、なぜか倒幕を目論んでいた尊皇攘夷の旗手・清河八郎のお墓もあるのです。
清河八郎
幕末が生んだ文武両道を備えた天才のひとり・清河八郎。
どこが天才の所以かというと、幕府最高学府であった昌平坂学問所へ入学するも失望し、自らの塾を開いてしまいます。
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安政元年(1854年)清河二十五歳の時、神田三河町に開いた清河塾を落語「家事息子」にも描かれている大火で失うと、薬研堀(両国橋近く・現中央区東日本橋)に再建。これも安政二年十月二日(1855年11月11日)の安政大地震で倒壊。次に淡路坂、これも大火で焼失。

淡路坂に塾を開いていた頃(安政四年・1857年)お玉が池の大千葉道場「玄武館」で山岡鉄太郎(鉄舟)らと出会い親交を深めます。
翌年、北辰一刀流中目録免許を受け、安政六年(1859年)自らの四度目の塾をお玉が池に開きます。当時、江戸広しといえども学問と剣術を同所で学べる塾は清河塾だけだったと云います。
真偽のほどは確かではありませんが、安政四年(1857年)頃、大千葉・千葉周作道場と小千葉・千葉定吉道場の同門同士の剣術試合があり、清河八郎と坂本龍馬が対戦。結果は三対〇で、五歳年上の清河八郎に龍馬はかなわなかったと伝わりますが、これはありそうな話です。
この話が本当なら、二人とも近い将来、同じ犯人?に暗殺されるとは思わなかったことでしょう。
清河八郎は手塚治虫の「陽だまりの樹」にも剣豪として描かれています。
度重なる大火・天変地異の被害に、普通の人なら、どこかで諦めてしまいそうなものですが、彼には豪商の息子という財力があり、そして「志」がありました。
尊皇攘夷・倒幕、その後の清河幕府をも目論んでいたのかもしれない、何を考えていたのかわからない得体の知れない天才です。
虎尾の会
万延元年(1860年)清河三十一歳の時、やがてお玉ヶ池清河塾に過激な尊皇攘夷派が集まるようになり「虎尾の会」を結成します。この虎尾の会がやらかしてくれます。
ヒュースケン暗殺事件
万延元年十二月四日(1860年1月14日)夜9時ごろ、アメリカ公使館通訳のヘンリー・ヒュースケンは、通訳を持たないプロイセン王国使節を助けるために芝赤羽接遇所にいました。
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仕事を終え、アメリカ公使館が置かれた麻布の善福寺への帰途、中の橋付近で虎尾の会のメンバーに襲われます。



馬上で切りつけられ深手を負い、そのまま西に180mほど走り、今の日進ワールドデリカテッセン辺りで落馬します。
そこから500mほどのアメリカ公使館・善福寺へ担ぎ込まれるも、翌日、帰らぬ人となります。
江戸府内ではキリスト教風の土葬は禁止されていたので、善福寺ではなく南西に1キロばかり離れた光林寺に葬られます。



墓石の十字架の下には以下の銘文が刻まれています。
to the memory of
HENRY C, J, HEUSKEN
Interpreter to the
AMERICAN LEGATION
in japan
BORN AT AMSTERDAM
January 20 1832
DIED AT YEDO
January 16 1861
アムステルダムで生まれ、攘夷の犠牲となり、遠い極東の島国で永遠の眠りにつくとは思いもよらなかったでしょう。
この暗殺の黒幕を清河八郎と睨んだ幕府は清河の周りに岡っ引きをはりつけますが、清河はこの町人風の男を斬ってしまい、幕府から追われる身となります。

ふつうなら逃亡劇でも始まりそうなものですが、ここからが天才・清河八郎の真骨頂。
山岡鉄舟らを通して松平春嶽公に急務三策(1. 攘夷の断行、2. 浪士組参加者は今まで犯した罪を免除される(大赦)、3. 文武に秀でた天下の英材の教育)を上書し、これが認められます。
このようにして自分の罪を自分のアイデアで帳消しにし、浪士組は結成されることになります。
浪士組の結成
浪士組は腕に覚えがある者であれば、たとえ犯罪者であろうとも、町人、農民であろうとも、身分年齢を問わずに参加できるという画期的な組織でした。


その採用試験・結成式は伝通院の子院・処静院で行われ、ここに選抜された234名が集結します。この中にはのちに新選組のメンバーとなる芹沢鴨・近藤勇・山南敬助・土方歳三・永倉新八・沖田総司・原田左之助・藤堂平助らがいました。
文久三年(1863年)二月、将軍・徳川家茂上洛の際、その前衛警備として浪士組を率い京へと出発。京に着くと、
「われらは幕府の募集に応じたが、本分は尊王攘夷にある。幕府とはなんらかかわりがなく、天皇のため、日本のために立ち上がる。われらの真の目的は朝廷を擁立し、外国勢力を打ち払うことである。尊皇攘夷の魁となるが本分……」
と演説をぶち上げます。
将軍警護のために来たのに?
幕府と関係がないってっナニ⁈と一同唖然(; ゚д゚)。
翌日、浪士組に勅諚(天皇のお言葉)を賜り「浪士たちは速やかに東下し、粉骨砕身忠誠を励むべきものなり」という言葉に従い、京都滞在わずか二十日にして、江戸には列国の脅威(薩摩藩がしでかした生麦事件の賠償問題でイギリス艦隊が江戸を攻撃するかもしれない)が迫っていると、浪士組200名を引き連れ江戸にとんぼ返りしてしまいます。
この時、京に残ったメンバーがのちの新選組となります。

結局のところ、自分の罪を帳消しにし、幕府の金で人を集め・京へのぼり、天皇の勅諚をもらうことで幕府との関係を絶ち、自分の目的のために人材を活用しようというもの。かくして浪士組は朝命を戴いた王権復古を目指す倒幕軍へと早変わりするのです。幕府も浪士組234名も清河八郎に騙されていた、このように鮮やかな策士は日本史上でも珍しく、前代未聞の出来事でした。
こんな清河八郎も騙され、最期を迎えることになります。
一の橋の暗殺
江戸に戻った清河は処静院にほど近い小石川の山岡鉄舟の隣家高橋泥舟宅に寄宿してます。
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文久三年(1863年)四月十三日、麻布にある松平山城守・上之山藩邸の長屋を攘夷連名簿を携え訪れます。
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そこで酒を酌み交わし、いささか酔い、裏門から出て一の橋を渡りきると「清河先生」と声をかけられます。声の主は既知の佐々木只三郎。彼は陣笠を取り会釈するので、清河も陣笠を取ろうと両手を笠紐にかけます。が、その時、背後から抜き打ちを浴びてしまいます。前からは佐々木只三郎が一刀。清河は血の海の中へと倒れ込みます。

犯行グループは幕府講武所教授方の佐々木只三郎、速水又四郎、高久保二郎、窪田千太郎、中山周助。
佐々木只三郎は龍馬暗殺の実行者だとも云われています。
ヒュースケンも近くの中の橋で襲われたことから因縁がささやかれましたが、弁慶牛若丸の昔から待ち伏せには橋。鮮やかな策士・清河八郎が幕府の策に見事にはまってしまいます。清河の腕を知る者たちの用意周到な暗殺でした。
享年三十四。
なぜ清河八郎は伝通院に眠るのか?
その後、清河の遺体は、山岡鉄舟・高橋泥舟と懇意の僧・処静院の琳瑞によって葬られます。処静院は廃寺となりますが、その敷地は伝通院の一部となり今日に至ります。

新選組は京都で活躍、清河八郎といっしょに江戸に戻った浪士組は思想的なリーダーを失い、庄内藩お預けの「新徴組」となり、幕末を駆け抜けていきます。
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