一日に3700本以上もの列車が発着し、40万人の人々が利用する東京駅。
この歴史的建造物は復元工事を終え、関東大震災、太平洋戦争の戦禍からよみがえり、駅前広場・駅前から皇居へとつづく御幸通りも整備され、往時の姿を取り戻しています。


皇居から御幸通り、東京駅へは各国駐日大使の信任状捧呈式の馬車列が、ときおり通り、まさに日本を代表するストリートとなっています。
車列はリムジンか馬車かは大使が選択できますが、馬車を使える国は世界でもイギリス、スペインぐらいなもので、ほとんどの大使は馬車を選ぶそうです。
東京駅最初の設計

明治二十九年(1897年)、明治政府は東京の表玄関として東京中央停車場を計画します。
設計を依頼されたのはドイツ人技師、フランツ・バルツァー。彼の案は和洋折衷・帝冠様式の駅舎で、日本建築の良さを残した西洋建築。


いかにも東洋を意識した外国人好みの景観です。
しかし、明治政府は、オリエンタル趣味なこれに難色を示し、明治三十六年(1903年)イギリス帰りの建築家・辰野金吾に白羽の矢をたてます。
辰野金吾の設計

富国強兵を推し進める明治政府のスローガンは「外国に追いつけ追い越せ」。
西洋の赤煉瓦に一種の憧れを抱いていました。
丸の内・馬場先通りには煉瓦造建築が建ち並び、一丁倫敦(いっちょうロンドン)と呼ばれた街並みを形成します。



ロンドンに留学経験のある辰野金吾は政府の要求に応えつつ、なおかつ、地震大国日本にそくした設計を目指します。
地下には11000本もの松の杭が打ち込まれ、江戸時代の埋立地であるこの辺りの軟弱な地盤を強化。駅舎は煉瓦を組み上げるだけでなく鉄骨煉瓦造とします。

こうして大正三年(1914年)12月20日、東京駅は、ついに開業の日をむかえます。
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開業式典では時の首相・大隈重信が、「この駅はあたかも光線を放射する太陽のようなものだ。あらゆるものの中心になって此所から光を四方八方に放ってほしい」
と述べています。
そんな輝かしい東京駅も数々の災難に見舞われることになります。
最初の災難 関東大震災
開業から九年後の大正十二年(1923年)9月1日・11時58分32秒、マグニチュード7.9の大地震が東京を襲います。各所で建物崩壊、その後の火災で無残にも焼け野原となります。が、東京駅だけは目立った被害もなく、その設計の堅牢さが証明されます。

鉄道・駅ホーム部、駅前広場が火除地の役目を果たしたことも大きな要因の一つです。
空襲の戦禍
関東大震災を乗り越えた東京駅ですが、昭和二十年(1945年)3月10日の東京大空襲には勝てずに、三階部分、ドーム屋根を失います。

戦後、応急処置的な修復がなされ、二階建て・八角屋根のドームとなり、以来七十年近くもの長い間その姿のままとなります。

戦災の煉瓦
東京駅丸の内駅舎南ドーム二階、喫茶「トラヤ・トウキョウ」の内装は戦災の跡を残した赤煉瓦むき出しの演出。
歴史の生き証人となっています。
内壁を打ち付けるために組み込んだ木煉瓦は黒く焼け、強度を保った鉄骨も見えています。
内壁と煉瓦をつなぎとめたパイプの穴跡も残っています。
丸の内坂
坂の町東京を象徴するかのように東京駅の広大な駅構内にも坂道が存在します。
昭和五十五年(1980年)、総武線、横須賀線の直通運転が開始された時、丸の内と八重洲を結ぶ通路にこの坂道ができています。丸の内は江戸時代の埋立地。平坦とばかり思っていましたが、新たに坂ができるとは……。
不死鳥のようによみがえった東京駅

五年の歳月を費やし、2012年10月、免震施工をも施し、今後百年を見据えた丸の内駅舎はグランドオープン。その後、駅前広場、御幸通りの整備も終え、今では単なる鉄道ターミナルではなく、一大観光地となっています。





天然石に似せた擬石、屋根の天然スレート・銅板加工、煉瓦の目地を盛り上げる覆輪目地。
それら失われつつある技術も試行錯誤の末、再現します。使えるものはできるだけ使い保存、失われたものを復元再生。

戦災で焼け落ちた南北のドーム内部、三階部分もよみがえります。
戦後、格子状の丸ドームとなっていた天井、八方に方角を示す干支を配したレリーフ群も丸天井裏に残っていた戦災の残骸・古写真を元に見事に復元されます。


復元された三階部分と保存された二階部分の赤煉瓦はクッキリと新旧が判別できます。

二人の首相の災難
東京の表玄関としての顔を持つ東京駅。
ここからは多く要人が旅立つことになります。
大正十年(1921年)11月4日、平民宰相・原敬首相は丸の内南口ドームで襲われます。
刃渡り五寸の短刀は首相の右胸部をつらぬき、駅長室で手当てされますが、すでに絶命していました。


昭和五年(1930年)11月14日、中央口ではライオン宰相・浜口雄幸首相を一発の銃弾が襲います。
一命はとりとめたものの、その後、病室で激務をこなしたため容体が悪化。帰らぬひととなります。
これら二つの遭難現場は、道を急ぐ人々には目立たぬように、静かに歴史を語っています。

このように災難続きだった東京駅ですが、2016年、シン・ゴジラの被害を受けてしまいます……
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