江戸には南町奉行所、北町奉行所の二つの町奉行所があり、お江戸八百八町の行政・警察・消防・司法・裁判(なんという仕事の多さ)を月番交代で管理していました。
例えば一月に訴訟を受付け、二月には非番になり一月に受付けた事案の処理を行う。それを南北交互に行うので休みの月があるわけではありません。
北町奉行所
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北町奉行所は呉服橋門内に位置していて、今の東京駅八重洲北口周辺です。
呉服橋門内といえば、五代将軍綱吉治世・元禄の頃は、本所に移る前の吉良上野介邸があった辺りです。
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北町奉行所跡から出土した水路の石積みは、北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方角の角をとったもので、鬼門封じの意味があります。
これ以外では駅ビル2階、北町ダイニングで北町奉行所押しです。決して2階に北町奉行所があったわけではありませんが。

北町奉行所跡から元は外堀であった外堀通りを南下。
東京駅八重洲中央口、鍛冶橋交差点を過ぎ、数寄屋橋交差点手前、有楽町駅前へ行くと南町奉行所跡があります。
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有楽町二丁目遺跡・南町奉行所跡
有楽町駅中央口にある石垣。これはここ有楽町二丁目遺跡で発掘されたものを組み直したものです。
北側には石碑を模した配電盤ボックスに「南町奉行所跡」とあります。
中央口からエスカレーターで降りると、地下広場の左側には、出土した「南町奉行所の穴蔵」の木枠で作ったベンチがあり、左右には出土木樋(もくひ・木製水道管)を利用した長いベンチ。




東京オリンピック2020に向けて、江戸時代の遺物を利用した公共物がどんどん増えています。
南町御奉行御役屋敷・遠山左衛門尉⁈
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一般的に時代劇では、南町奉行は「大岡政談、大岡裁きの大岡越前」、北町奉行は「この桜吹雪がお見通しよっ!の遠山左衛門尉・遠山の金さん」で知られていますが、嘉永二年(1849年)の切絵図では数寄屋橋門内に南町御奉行御役屋敷・遠山左衛門尉となっています。

遠山左衛門尉景元(幼名・金四郎)は、天保十一年(1840年)〜天保十四年(1843年)まで北町奉行。
弘化二年(1845年)〜嘉永五年(1852年)までは南町奉行を務めた超エリート官僚。決して遊び人の金さんではなかったようです。

大岡越前守忠相も出世街道を上り詰めたエリートです。
八代将軍吉宗治世の頃、享保二年(1717年)〜元文元年(1736年)まで南町奉行を務めています。
エリートでなければ、町奉行の激務はこなせなかったということです。
あのお白州はどこ?
さて、時代劇の裁判シーンで良く見るお白州ってどこにあったのか気になるところです。

実は有楽町二丁目遺跡ではお白州の一部を発掘しています。

公事場がお奉行様が座り吟味をするところ。砂利敷とあるのが白い砂利を敷き詰めたお白州です。
これを現在のグーグルマップに重ねると、大体こんな感じになります。
この辺りにお白州があったことになります。

イトシアと丸井の間の道、マリオンへと続く道です。
時代劇では時々、青空から桜が舞ってきたりして、屋外のように思えますが、史実では屋根がついていたそうです。
しかしながら、ここで金さんも大岡越前も活躍していたかと思うと……これにて一件落着。
金さんの桜吹雪、大岡裁きのお白州グーグルマップはこちら
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