前回からの続き。
本所吉良邸で本懐を遂げた赤穂浪士一行は隅田川沿いを南下し、永代橋を渡り、いよいよ八丁堀・鉄砲洲・築地方面に入っていきます。
忠臣蔵では凱旋パレードとして描かれますが、史実では、追手がいつ現れるかわからない決死の道中です。敵襲に備えた山鹿流の隊列でのぞみます。


前回の吉良邸から永代橋までへ

永代橋


元禄の頃、今より200メートルほど上流に架かっていた永代橋(A)を渡り、日本橋川沿いに進み、湊橋(B)を渡り、霊岸島の越前堀(C)沿いをゆきます。


この近く、亀島の水谷町は堀部弥兵衛・安兵衛父子・嫁が仲睦まじく暮らしたゆかりの地。亀島橋西詰には堀部安兵衛の功績を讃える碑が建っています。

堀部安兵衛武庸之碑 越後新発田五萬石溝口藩中山弥次右衛門の子 寛文十一年生れ 元禄元年江戸之念汽堀内道場へ入門 元禄四年 玉木一刀斎道場師範元禄七年二月高田の馬場に於て 叔父菅野六郎左右衛門之仇討 其の後も京橋水谷町儒学者細井次郎大夫家に居住 浅野家臣堀部家の妙と結婚堀部安兵衛武庸となる 禄高二百石 元禄十四年十月 本所林町に於て長江左衛門の名で剣道指南 元禄十五年十二月十四日 赤穂義士の一人として吉良邸に乱入仇討す 元禄十六年二月四日歿 三十四歳 法名 刃雲輝劔信士
新潟新発田に生まれ「高田馬場の決闘」でその腕を見初められ娘婿に入り、赤穂出身ではないが討入りに参加という、波乱万丈な人生をたどった剣豪・安兵衛。
四十七士の中で、一二を争う人気者です。
霊岸島から高橋(D)稲荷橋(E)を渡り、鉄砲洲の元赤穂藩上屋敷方面(G)へと向かいます。



浅野内匠頭上屋敷跡

元上屋敷近くなので八丁堀・鉄砲洲周辺は四十七士の多くの者が周知の道です。
八丁堀・築地に潜伏していた赤穂浪士 | |
南八丁堀湊町 | 片岡源五右衛門・貝賀弥左衛門・大高源吾・矢頭右衛門七 |
築地小田原町二丁目 | 松村喜兵衛 |
どちらの道を行ったのか?
元禄十二年(1699年)のこの地図では「アサノ内匠」となっていますが刃傷事件直後に取潰しになり、元禄十五年当時は若狭小浜藩酒井忠囿(ただその)の屋敷になっています。
この元上屋敷前を通ったとする説と、軽子橋(F)を渡り築地川の対岸を通ったとする説があります。


武装集団が大名屋敷の門番に尋問されるのは当然のこと。
それを避けるなら対岸をゆき、まだ浅野時代の屋敷門は残っていたと云い、懐かしく思い元上屋敷前を通ったのか?
どちらなのでしょうか?
本所からここまでの道は、無駄な接触を避けることと、攻撃されるリスクが半減する川沿いの道を行くことがキーワードに思えます(このあたりでは怪我人を貸船に乗せていたという話もあります)。ならば築地川対岸となりますが?
浅野内匠頭の生誕の地でもある元上屋敷前で、地神に首級を手向けたという説もあり、これもあり得る話ですが、対岸から一礼したとも考えられます。
築地本願寺の間新六の墓
築地川沿いから西本願寺(築地本願寺)の北側の塀沿いの道と正面を通ります。
四十七士はみな決死の覚悟でしたから、供養料と書状(遺言)を身につけ、討入りにのぞんでいました。
間新六は槍に供養料と書状をくくりつけ、築地本願寺に投げ入れたとの伝承があります。遺体は姉婿の中堂又助が引き取り、ここに埋葬したと伝わります。
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「泉岳寺にも新六の供養塔があるが、本願寺に葬られた理由は、檀徒であったのか、生前の意志によるものなのか、不明です」と東京都教育委員会は歯切れ悪く言っています。謎です。
大目付へ自訴(自首)
築地本願寺を過ぎ、木挽町の堀沿いを汐留方面に向かい、汐留橋(H、現・蓬莱橋交差点)を渡ります。

この辺りは江戸城にも追手の桜田の上杉家にも最も近付いた付近です。ここで内蔵助は、時の大目付・仙石伯耆守に自訴する使者を送ります。使者は吉田忠左衛門、冨森助右衛門の両名。
当初の計画ではこの役は、裏門組で大石主税を補佐した重鎮・吉田忠左衛門と、表門組の原惣右衛門でしたが、原惣右衛門は表門を乗り越え降りる際、捻挫してしまい、代わりに冨森助右衛門が大役を任されます。
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元禄十二年の地図では、仙石伯耆守邸は浅野内匠頭が切腹した田村右京太夫邸のお隣になっていますが、元禄十五年当時は虎ノ門に移転しています。
この時期、元禄十一年(1698年)に発生した大火「勅額火事」の影響で再開発・移転ラッシュだったようです。

吉良邸は、討入りしやすいように、幕府が仕向け、呉服橋門内から本所に移転を命じたという噂がありますが、古地図を見ると、吉良邸だけでなく多くの屋敷が移転しています。
それはともかく、幕府は、その疑惑を否定していませんので真相は謎のままです。
浅野内匠頭終焉の地近くにお菓子屋さんがあります。人気商品は「切腹最中」(^^*)。サラリーマンのお詫びの品として人気があります。その他、四十七士ようかんフルセットは圧巻でビジュアル的にもインパクト大です。
初めての計画変更
吉田・冨森両名は仙石伯耆守邸に出向き、口上書を手渡し、こう言います。
「我ら亡君の遺恨を散ぜんがため、この年月、心身を苦しめ其の志をば達しき、今に至りてはただ公の御刑法に身を任せ奉じる」
当初、一同自刃する覚悟でしたが、ここにきて幕府に裁定を任せるというのです。


ここまで計画が首尾よく進むとは内蔵助も思っていませんでした。ここで初めての計画変更です。しかも良い方向への。
死んでしまえばそこで終わり。単なる復讐劇に終わってしまいますが、この際なら幕府に反省を求め、考える時間を与えようというのです。
浅野内匠頭への処罰はあれでよかったのか?喧嘩両成敗は?忠義とは?と。
主君の仇討ちから、武士道とは何かという大きな問題にまで発展してゆきます。
結果、幕府内でも議論は白熱し、裁定が下るまでひと月半を要すことになります。

大名屋敷が続く道

汐留橋(H)を渡るともう川沿い・堀沿いの道はありません。
目の前は脇坂淡路守邸(I)。赤穂城引き渡しの際、幕府から派遣された因縁ある使者の屋敷です。ここでは門番に呼び止められ「おお、赤穂の衆か、よくぞやった!」と褒め称えられたとも、ひと悶着あったとも伝えられています。
芝に潜伏していた赤穂浪士 | |
芝源助町 | 磯貝十郎左衛門・松村三太夫・茅野和助 |
芝通町三丁目浜松町 | 赤埴源蔵・矢田五郎右衛門 |
ここは人通りの多い東海道に比べて、空いている脇道。勝手知ったる磯貝十郎左衛門らの意見を聞き、東海道の野次馬・多くの人目を避けたのでしょうか、大名屋敷前を行きます。
脇坂家の隣には仙台藩の屋敷(J・現日本テレビ本社)があり、ここで粥を振舞われたと伝わります。


芝大門辺りからメインストリート東海道へ出ます。東海道へ出たら、あとは泉岳寺まで、ひたすらにまっすぐ行くだけです。
金杉橋

東海道の金杉橋(K)を渡ったところで小休止。怪我人・老人は駕籠に乗せてはいるものの、他の者にとっても討入り後早朝の強行軍。遅れた者たちを待ちます。
その間に、内蔵助は磯貝十郎左衛門に駆け寄り、近くに住む病身の母に会って来いと勧めますが、十郎左衛門は、いつ追手が現れるかわからないので隊を離れることは出来ないと固辞したと云います。
さすがは部下思いの上司・内蔵助、また十郎左衛門も自分の使命を忘れない、よく出来たやつと思わせる逸話です。
札の辻



札の辻(L)には、高札場があり、江戸への出入口になっていました。ここまでくるとみな疲労のピーク。吉良邸を出てから三時間ほど。
間新六はへたり込みますが、父の喜兵衛に「だらしない息子だ、あと少しだからがんばれ」と励まされ、立ち上がったと云う伝承が残ります。
良き上司内蔵助のあとは、父子愛。凱旋パレードでは描かれない、泣けるエピソードです。
泉岳寺門前(M)まで来ると、みな疲労困憊。隊が伸びきってしまっています。遅れた者を待ち、亡き主君の前、内蔵助は礼儀正しく隊列を整えます。

泉岳寺
突然現れた武装集団を見て、泉岳寺の僧侶たちは騒然としますが、口上を聞くと理解をしめし、寺に通し入れ閉門。物見高い野次馬たちをシャットアウトします。

内蔵助が代表して吉良上野介の首級を墓前に捧げます。はじめに一番槍をつけた間十次郎、次にトドメを刺した武林唯七を呼び寄せ焼香させます。
次々に焼香していきますが、最後は遠慮している二人が残ります。
浅野内匠頭刃傷事件以前に浪人となっていた不破数右衛門と間新六です。内蔵助は亡き殿の前で二人に赦免を申し渡します。
いつの時代でも、上司にしたい有名人ランキングで上位にくる内蔵助。こころ憎い演出です。
ひと月半後、赤穂浪士たちは名誉ある切腹。浅野内匠頭墓の隣に埋葬されます。
刃・劔の意味

泉岳寺がつけた四十七士それぞれの戒名を見ると最初の一文字目が「刃」、四文字目が「劔」。禅宗の語録に「劔刃上(けんにんじょう)をわしる」という言葉があります。
劔(つるぎ)の刃(ヤイバ)の上を走る=そんな事出来るわけないという意味です。
大石主税「刃上樹劔信士」、堀部安兵衛「刃雲輝劔信士」、大高源五「刃無一劔信士」など。
赤穂浪士は出来るわけがない事をやってのけたのでした。
築地本願寺に埋葬された間新六の供養塔の戒名は「刃模唯劔信士」。ここには模したものを置くという意味です。
よく見ると、
寺坂吉右衛門だけ「遂道退身信士」。刃も劔も入っていません!(つづく)
最後の赤穂浪士
消えた寺坂吉右衛門を追うへとつづく
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