元禄十四年(1701年)八月十九日、吉良邸は江戸城外堀の呉服橋門内から本所に移転を命じられます。
吉良上野介は吉良左兵衞に家督をゆずり、左兵衞宅の隠居となって本所に移り住みます。
幕府の警護が強い呉服橋門内よりも当時の新興住宅地・本所の方が討入りには好都合なこと。赤穂浪士にとっては朗報です。


本所の吉良邸周辺には赤穂浪士数人が住み、内偵を進め、元禄十五年(1701年)十二月十四日の夜(今の暦でいうと、十二月十五日早朝)吉良上野介が茶会ののち、必ず屋敷にいることをつきとめ、討入りを決行します。




討入り
七ツ時(午前4時頃)、大石内蔵助率いる表門組23名は門をハシゴで乗り越え、大石主税の裏門組24名は大鎚で門をうちこわし邸内に侵入します。


その際、抵抗しなかった門番を縛りあげ四十七士のうち最高齢七十六歳の堀部弥兵衛(堀部安兵衛の義父)が見張ります。
抵抗しない者は斬らないと、かねてからの申し合わせがあり、このことがのちに大きな意味を持つことになります。
吉良の家来150人対47人

浪士たちが侵入し、まずやったことは、屋敷の弓棚にある弓のツルを切り、槍もズタズタに折り武装解除。
そして屋敷の三方を囲む長屋の扉を鎹(かすがい)で打ち付け、長屋にいた家来百数十名の出動を阻止します。
各長屋の扉には長槍を持った見張りを配したものですから、うかつに飛び出せば槍で突かれることになり、身動きができません。

こうして数的劣勢を排除した浪士たちは火事装束・鎖帷子(くさりかたびら)に身を包み、「火事だ!火事だあ!」と叫びながら主屋敷内に斬り込んでいきます。
長屋に閉じ込められた家臣のひとりはその叫び声を聞き、二百人はいると思ったと回想しています。
火事装束
史実では、ドラマ、歌舞伎、浮世絵に描かれているようなだんだら模様の派手さは無く、味方同士の目印になるように袖に白い布を付けただけの火事装束でした。
赤穂浪士の討入りには、実はお手本があります。
寛文十二年(1672年)に起きた、市ヶ谷の「浄瑠璃坂の仇討」。
この事件も討手は夜間・火事装束・四十名ほどの徒党。夜中に火事装束で徒党を組んで歩いていても大名火消だと言えば疑われないということです。
堀部安兵衛は浄瑠璃坂上・納戸町に住んでいたことがあり、この事件のことは熟知していました。また「高田馬場の決闘」では着物の帯を斬られ、身動きに困ったという安兵衛の進言をもとに、討入りの際にはみな、帯にも鎖を巻いていたと云います。
元禄(1688年から1704年)といえば天下太平の世。四十七士の中で人を斬った経験があるのは安兵衛ほか一名と云い、安兵衛の経験・発言力は大きかったようです。

大邸宅の捜索

寝込みを襲われ、火事装束の下には鎖帷子・鎖頭巾のフル装備 vs 寝巻き姿。圧倒的な防御力の差に、邸内での戦闘は30分程度で決着がつきます。が、上野介の捜索に一時間以上を用します。
東京ドーム約3分の2の大きな邸宅。今の本所松坂町公園・吉良上野介邸跡は地図でいうとA地点にあたり、元の屋敷の大きさの70分の1ほどです。

捜索が済んだ部屋には、目印が付けられていきます。一部屋一部屋、しらみつぶしに捜索していきます。

炭小屋(地図赤エリア)を捜索していると中から二人の侍が飛び出してきます。この二人を斬っても、まだ人の気配がします。間十次郎が槍で突くと身なりの良い老人が飛び出し倒れ、武林唯七がトドメを刺します。
衣服・持物・歳格好から見ると上野介である公算が高いのですが、四十七士の中で上野介の顔を見知るものは皆無。乱闘で顔は傷つき浅野内匠頭が殿中でつけた額の傷も判別できません。背中にも傷跡はあるものの決定打とはなりませんでした。
慎重な内蔵助のこと、ここで堀部弥兵衛が見張る門番を呼び寄せます。門番は上野介に間違いないと証言。四十七士一同は本懐を遂げることとなります。
引揚げ
首級をあげても四十七士の誰一人として油断はしていません。
モデルケースとなった「浄瑠璃坂の仇討」では追手が市ヶ谷から神楽坂下まで追ってきています。
内蔵助は、上野介の息子が養子に入った上杉家から追手が来ると当初から予想していました。
計画の第二段階として、吉良邸裏にある回向院に立て籠もり追手と一戦交えたのち、一同自刃する覚悟でした。
吉良邸裏門を出た一行は、明六ツ(午前6時)頃、回向院の門を叩きます。

回向院の正門は今とは違い西側、両国橋(当時は今より20メートルほど下流)から真っすぐのところにありました。
回向院は寺法である開門明六ツ半(午前7時頃)を頑なに守り、開門しません。
これとて内蔵助には想定内の事案でした。桜田の上杉家から追手が来るなら両国橋を馬で渡ってくるはず。対騎馬戦闘用に半弓も用意していて、両国橋東詰で体制を整え追手を待ち受けます。


がしかし追手は現れません。内蔵助はのちに「用意していた半弓が無駄になった」と語っています。
一方、桜田の上杉邸では
朝の早い本所の豆腐屋が、いち早く異変を知らせに、桜田門外の上杉邸に来ています。
がしかし、火事か喧嘩の類と相手にされず、吉良邸から抜け出してきた足軽が駆けつけると、ようやく事の重大さを認識します。
江戸大絵図より上杉弾正大弼(上杉-綱憲、上野介の実子、長男).jpg?resize=474%2C356&ssl=1)

出動の準備はするものの、浪士は二百人以上との思い込みもあり、騎馬を揃えるのに手こずります。
やがて老中から「追手を出すことを固く止めよ」との沙汰があります。これは復讐の連鎖を防ぐための裁定ですが、初動の遅れがひびいたことは確かです。
泉岳寺への道
追手が現れないので内蔵助は、泉岳寺・浅野内匠頭の墓前に首級を捧げることを決断します。
とはいえ、これは第三のチョイス。
これとて大きな危険を伴います。ドラマや芝居で演じられているような凱旋パレードとはほど遠い決死の行動です。
いつ現れてもおかしくない追手を警戒しながらの長く危険な道中です。
槍先に首をぶら下げ、返り血を浴びた武装集団が人目にさらされ、12キロも歩いてゆくことになります。
ちょうど、この日は大名の登城日に当たり、大名行列との無駄な衝突を避けるため、両国橋を渡らずに一之橋を渡り、隅田川沿いを南下していきます。

川沿いを行けば、川側から攻撃のリスクは少なくなります。また、内蔵助が選んだこの川沿いコースは、古地図を見ると気付くことですが、四十七人のメンバーの誰かが周知で、安全と思われた道すじです。
本所・深川に潜伏していた赤穂浪士 | |
本所相生町二丁目 | 前原伊助・神崎与五郎 |
徳右衛門町一丁目 | 杉野十平次 |
本所林町五丁目 | 堀部安兵衛・横川勘平・倉橋伝助・木村岡右衛門 |
深川黒江町 | 奥田孫太夫・奥田貞右衛門 |
一之橋から永代橋まで隅田川沿いをゆきます。





新大橋の東詰を通り過ぎ、萬年橋を渡り、さらに隅田川沿いをゆきます。
永代橋の東詰までくると、ちょうど商家の棟上げ式で道行く人々に甘酒を振舞っていた「ちくま屋」があります。一行はこのちくま屋前で小休止します。

赤穂浪士討入り後、回向院は名を下げ、ちくま屋は株を上げたと云いますが、どちらも慣習に従っただけのこと。
棟上げ式では誰にでも差別なく振舞わないと商家の将来が危ぶまれると云います。しかしながら、急に血だらけの武装集団が現れ、怖かっただろうと思います((((; ゚Д゚)))
甘酒を振舞ったおかげで、ちくま屋は繁盛、ビルを新築中です。
永代橋で隅田川を渡り江戸市中に近づいていきます。(つづく)
真実の元禄赤穂事件(2)
永代橋から泉岳寺へとつづく
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