江戸時代の地誌「御府内備考」によると、大猷公(三代将軍・家光)の頃、常磐橋は大橋とか浅草口橋と呼ばれていたようです。

江戸の草創期、千代田のお城と城下町である日本橋、浅草を結ぶ当時最大の橋だったため「大橋、浅草口橋」と呼ばれます。 しかし、江戸が拡大するにつれて、これよりも大きな橋や浅草橋ができたため紛らわしいので、幕府はこの地の町年寄・奈良屋市右衛門を呼びつけ、橋の名前を考えるように命じます。 困った奈良屋は、居候の浪人に相談します。和歌を能くする浪人は、金葉集・大夫典侍の歌「橋の上の藤」を思い出します。
この歌から「常磐橋」の名を奏上します。徳川家の始祖である松平氏、藤原氏にもかけたお目出度い名称です。かくして大橋は「常磐橋」となったと御府内備考は伝えています。
常磐橋御門
城下町から城内への入口、常磐橋は防御の枡形の前に掛かる木橋。大火消失を繰り返しますが、幕末まで存続します。 明治五年(1872年)枡形は撤去され、その一部の石垣石と小石川御門の石垣石を使って石橋に架け替えられます。

東京最古の石橋
車道と歩道が分離独立した石橋。日本橋側の日本銀行へとつづきます。

二重アーチの石橋、大理石の白い橋柱は明治の人々に、さぞかしハイカラに映ったことでしょう。当時、珍しい石橋は東京の新名所となり、絵葉書にもなります。

時代が進み、古くさくなったこの橋を文明開化の象徴として存続すべきと訴えたのが、渋沢栄一。橋のたもとに朝倉文夫作の渋沢栄一像が建ちます。
解体修理
近年の東日本震災で亀裂が生じて通行禁止に。解体修復が行われることになります。解体の際、石材一つひとつに記号番号をふり、元の位置を記録します。
令和三年(2021年)五月、修復して元通りの位置に積みなおして、お披露目します。

大理石の橋柱もツギハギながら見事に修復され「紀元弐千五百三十七年六月造」の皇紀の創設表記も読めるようになっています。

皇紀から六六〇を引くと西暦年が出るので西暦1877年、明治十年となり、現存する最古の鉄橋「八幡橋(旧弾正橋)」より一年古く現存では東京最古。

明治十年といえば西南戦争のあった年で六月は、まだ西郷さんが生きていた頃。そう思うと古さを実感します。
常盤橋でなく常磐橋
新常盤橋も常盤橋も交差点名も常盤橋ですが……。 一番古いこの橋は……
橋銘板、橋柱にも石のついた磐の常磐橋。金葉集・大夫典侍の歌にも常磐の橋とあり正解のようです。それにも増して、お皿のように壊れやすくなくて、石橋ということを意識しているようです。その名の通り頑丈に末長い存続を願います。