江戸の大スターといえば、花魁と歌舞伎役者。庶民出身のスターといえば、茶屋の看板娘、相撲力士に町火消し。その人気者の火消しと力士が芝神明社で大喧嘩を派手にしでかし、江戸市中が騒然となった事件はのちに歌舞伎に脚色され大ヒットします。
芝は増上寺の門前町

東の浅草、西の芝と謳われたほどの歓楽街であった芝界隈。




芝神明社は広い境内を持ち、見世物小屋や芝居小屋、しばしば相撲興行が行われ、おおいに賑わいます。
史実をもとにしたフィクション「め組の喧嘩」のストーリー
時は文化二年(1805年)二月十六日。芝神明社境内で開催された春場所で警備を管轄をしているめ組に相撲側からアイサツがなかったことや相撲小屋警備のための無銭入場を力士の九龍山扉平に咎められ、相撲を終えた四ッ車大八と九龍山扉平が別の芝居小屋で芝居見物をしていたところに因縁をつけて大喧嘩となります。


め組鳶職の辰五郎が四ッ車に投げ飛ばされると、夫の危機を救おうと女房のお仲は火の見櫓に登り半鐘をジャン、ジャン、ジャンと打ち鳴らします。鐘の音は、め組管轄三十六箇所の鐘をつぎつぎに鳴らし火消し人足が三百人以上集まってきます。

力士衆の怪力に部が悪い火消し衆は屋根に登り、瓦を投げつけ応戦。やがて町奉行所の役人の出馬となって騒動は収まります。死者を出してしまったため、本来なら獄門(死刑)のところを奉行所の情けにより、三宅島へ遠島と決まります。
いよいよ遠島の日、辰五郎、四ッ車、九龍山の三名はあらためてお白州に呼び出されます。するとそこにあったのは縛られた半鐘と力士の化粧まわし……。
「改めて双方に申し渡す。世間をさわがせたのは辰五郎の女房の打ち鳴らせし半鐘である。また角界の方では命より大切な化粧まわしであるによって、半鐘と化粧まわしを只今より三宅島流罪に処す。また、辰五郎、四ッ車、九龍山は無罪放免とす」と粋なお裁き、双方仲直りで幕。歌舞伎の題名は「神明恵和合取組」(かみのめぐみわごうのとりくみ)です。
事件の実録を伝える「雷電日記」
この事件のことを怪力の名力士でありながらインテリの大関・雷電為右衛門が日記に書き残しています。歌舞伎では三人まとめて投げ飛ばす雷電ですが実際は乱闘に加わっていないようです。

世にいう「雷電日記」によると……。
相撲を終えた九龍山が芝居の見物に出かけ、桟敷の席で辰五郎、長吉、富士松の一行が体の大きい九龍山に蹴つまずいたのが事の発端。表に出た双方、茶屋の前で喧嘩勃発。辰五郎が茶屋の火鉢を九龍山に投げつけ、長吉が火の見櫓に登り半鐘を打ちます。すると鳶職が大勢二、三百人も集まってきます。九龍山は鳶職三人ともみ合い、辰五郎を投げ飛ばします。

色めき立っため組の連中は鳶口やはしごなどを揃えて境内の相撲場へと押し寄せます。同じ部屋の九龍山を助けようと四ッ車は刀を抜き、たちまち二、三人を斬り倒します(力士は帯刀を許されていました)。

近くに居合わせた十人ばかりの力士が一斉に駆けつけます。四ッ車は「どのツラ下げて部屋に帰るんだ。部屋のものたちに面目が立たねえ。こうなったら思い切り叩きのめしてやれ!」と九龍山を励まして大立ち回り。双方のにらみ合いは夜まで続きますが、親方の柏戸宗五郎とめ組頭の善太郎が手打ち。かくして与力同心が神明社内で三十六人を縛り上げます。
判決が下ったのはこの年の九月
●芝金杉四丁目太兵衛店 長吉 中追放
●本所元町相撲年寄柏戸宗五郎弟子 九龍山扉平 江戸払い
(中追放は江戸十里四方外に追放、江戸払いは江戸、深川圏外に追放)
四ッ車は無罪、傷を負った鳶二人が牢中にあってそれが悪化して死んでいます。め組一同六百六十五人に五両の罰金が課せられています。
喧嘩の元を作った辰五郎と九龍山は当然としても、全体的にみて力士側に甘く、鳶の者も喧嘩そのものより火事でないのに半鐘を打ち鳴らして騒ぎを大きくした責任を問うていると雷電為右衛門は言っています。
三奉行による裁き
江戸町奉行、寺社奉行、勘定奉行の三奉行に関わる事件だっただけに、忖度して、歌舞伎に挙げられたのは事件後八十五年経った明治二十三年(1890年)三月の新富座が初演。以後、人気を博し「火事と喧嘩は江戸の華」を地で行くこの演目は多くの劇場で上演されています。


身代わりになって島流しにされた半鐘は創作です。