末長く残るように不朽物に刻むという基準があったため、今も都心に残る明治初期の高低水準標「几号水準点」。東京都心の観光地(江戸城天守台、桜田門、靖国神社灯篭、湯島天神鳥居などなど)にそこそこ残存しています。
富岡八幡宮の境内にも横たわっている几号水準点が残ります。

これは石鳥居の残存物のようですが、なぜ、残っているのでしょうか?「二組」の表記も気になります。
内務省地理局雑報

明治十二年(1879年)三月二十九日の内務省地理局雑報に富岡八幡宮ではなく「深川八幡宮石華標(石鳥居)」の表記で几号水準点が設置された記録があります。
明治十八年(1885年)の東京実測図にも鳥居の左側に「不」の字の記号があります。

江戸名所図会

江戸名所図会の富岡八幡宮をみると石鳥居は大通りの真ん中にあり、広い伽藍を誇っています。「二組」の表記は町火消・本所深川十六組の内の二組の奉納を表します。

二組の担当地域は、黒江町、永代門前町、入舟町、宮川町。
二組が奉納した石鳥居は関東大震災後の都市計画による永代通り拡張のために撤去されます。

新しい鳥居ができても深川っ子は地元の誇り、町火消の思い出を廃棄できなかったのでしょう。几号水準点ととも残ることになります。
