オリンピック・パリ大会に惨敗、現役を引退した金栗四三は東京女子師範学校から母校にもハリマヤにも近い大塚の東京高等女子師範学校(現・御茶ノ水女子大学)に移るも、かわらずにスポーツ振興に尽力する毎日。

昭和五年(1930年)七月、秋田で講演をしている時、たった五文字の電報が届きます。
「ア ニ キ ト ク」

取るものも取り敢えず、故郷・熊本の玉名に駆けつけますが、兄・実次は急性肺炎ですでに亡く。四三が幼い時から父親がわりとなって支えてくれた兄。この兄がいなかったら東京高等師範学校にも、ストックホルムへも行けなかったと悲しみに暮れ、翌年、故郷に帰る決心をします。兄同様に惜しみなく援助してくれた養母・幾江に親孝行しなければ。そして長い間留守にしていた家族にも。
故郷に住んでも子供たちから「マラソンのおじちゃん」と呼ばれ地域の産業・スポーツ振興に努めている頃、昭和六年(1931年)八月、東京高師の後輩・栗本義彦に誘われて九州一周を二十日間で達成。下関ー東京、樺太ー東京と合わせて、鹿児島から樺太まで日本列島を南北縦断したことになり、四十歳になっても精力的な金栗です。
幻の第12回東京オリンピック
昭和十一年(1936年)七月三十一日、ベルリンで開かれたIOC委員会。嘉納治五郎・副島道正の両IOC委員の努力が実り、第12回オリンピックの開催地が東京と決定。政府は直ちにオリンピック組織委員会を立ち上げます。

恩師からの手紙
嘉納治五郎先生から熊本にいる金栗に速達郵便が届きます。
「貴君は日本でのオリンピック初参加者だ。五輪への情熱もまた人一倍かと思う。ぜひ上京の上、その準備に携わって欲しい」
それに加えて、在京の知人、後輩、門下生からも続々と手紙が舞い込んできます。こころ惹かれるも、故郷で親・家族孝行、地域の振興に尽くそうと決心していた矢先、金栗は難渋します。
養母と妻の愛
そんな折、養母・幾江に呼び出され、母の思いを告げられます。
「四三さん、オリンピックはあなたが全精魂を捧げるべき仕事です。寂しくなるけど、お国のためだと思って我慢します。行きなさい。行って東京大会が無事終了するまで尽くしなさい」
妻・スヤも
「ゆうべ母さんと話したんです。子供のことで今すぐとは言えませんが、わたしと子供も東京へ行ってあなたのお力になります」
二人の言葉は温かく、こころに沁みます。
ふたたびの上京
知人が目白雑司が谷に家を用意。後輩・秋葉が教頭を務める巣鴨の文華高等女学校(後の十文字女学校)に籍を置きます。

故郷から妻と子供たちも上京して、にぎやかな家庭に。オリンピック開催のために奔走する毎日を送りますが、盧溝橋事件に端を発し日中戦争勃発。暗雲が漂い始めます。
戦争の影

日中戦争が始まり各国、日本の世論もオリンピックは返上したほうがよいのではないかと傾きますが、昭和十三年(1938年)エジプト・カイロで開かれたIOC総会で嘉納治五郎は訴えます。
「戦争が起こった今だからこそ、スポーツを通じて隣国と自他共栄の関係を築きあげようではありませんか。東京オリンピックをその絶好の機会としましょう」
嘉納治五郎の想いは各国のIOC委員に響き予定通り開催地は東京とされます。
恩師の死
この時、嘉納治五郎は七十七歳。高齢を押しての総会参加。カイロからの帰路、客船「氷川丸」の船上で帰らぬ人となります。

最愛の兄に続き、人生最大の恩師も失い金栗は立ち上がれないほどのショックを受けます。
金栗にとってだけでなく、スポーツという言葉がなかった時代からその普及に努め、スポーツと平和を愛しつづけた嘉納治五郎の死に日本国民全員が涙します。

お国とて平和のために最も必要な人物を失い、軍部は暴走。同年七月十六日、日本政府と東京オリンピック組織委員会はオリンピック開催の返上を決定します。

スポーツ団体は解散させられ、体育は戦争のためのものへと変貌。太平洋戦争の泥沼へと入っていきます。

東京暮らしを始めた金栗一家ですが、東京への空襲が激化。昭和十九年(1944年)七月、家族を故郷・玉名へ疎開させ、金栗も翌年の三月、帰郷します。
意気揚々と上京したものの、またしてもオリンピックの夢は露と消えます。
戦後の偉業
戦後、マラソン指導者として数々の偉業を達成。なかでも教え子の山田敬蔵がボストンマラソンに優勝した時は監督として同行。自分が成し得なかった快挙に、山田、カナグリ・シューズのハリマヤの辛作さん、勝蔵くんとともに喜びを共有しています。

オリンピック三大会出場、世界記録更新二回、箱根駅伝創設、女子体育への寄与、長きにわたる幾多の功績を認められスポーツ界で初となる紫綬褒章、勲四等旭日双光章を受章。
昭和四十年(1965年)秋の園遊会では妻・スヤとともに昭和天皇皇后両陛下からお言葉を賜り、輝かしい余生を送っていますが、昭和四十二年(1967年)突然、スウェーデン・オリンピック委員会から一通の手紙が届きます。
スウェーデンからの手紙
貴殿は1912年7月14日午後2時30分、ストックホルム・オリンピックスタジアムをスタートして以来、なんの届出もなく、いまだに世界のどこかで走り続けている事と存じます。スウェーデン・オリンピック委員会は貴殿に第5回オリンピック大会のマラソン競技を完走することを要請いたします。
ストックホルム・オリンピック55周年式典への招待状。それを読んだ金栗に記憶が蘇ります。
そういえば、あの時、棄権届けを出していなかった。記録上はまだ走っていることになっているのかぁ。スウェーデン・オリンピック委員会も粋なことをやるもんじゃいと要請を快諾、ストックホルムへと飛びます。
ロマンチックな大記録

明治の頃の懐かしいコースを走り、気を失い介抱を受けた家を訪れ、お礼をいい、あの頃と少しも変わっていないオリンピックスタジアムにやってくるとすでにゴールテープが準備されています。用意してきたユニフォームに着替える間もなく、コート姿のままで金栗翁は走り出します。
ゴールテープを切るとスタジアムには拍手が響き、アナウンスが流れます。
「日本の金栗四三選手ただいまゴールしました。記録、54年8ヶ月6日と5時間32分20秒3。これにて第5回オリンピック・ストックホルム大会の全日程を終了いたします」
昭和五十八年(1983年)十一月十三日、九十二歳で永眠。生涯総走行距離250.000キロ。地球を六周余の走り続けた韋駄天の人生でした。
(完)