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岩倉具視暗殺未遂事件「赤坂喰違の変」と、生き残った岩倉邸


大久保利通暗殺事件「紀尾井坂の変」が起きた清水谷から紀尾井坂を登ると喰違見附に出ます。
紀尾井坂の変の四年前、ここでも事件が発生しています。右大臣・岩倉具視暗殺未遂事件「赤坂喰違の変」です。

喰違見附

喰違(くいちがい)とは、敵の勢いを弱めるクランクのことで、江戸城外郭の遺構です。
喰違見附から堀を渡る土橋の部分は喰違坂と呼ばれています。

喰違見付
喰違見付のクランク。
古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より喰違見付。
古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より赤坂仮御所東門(A)、喰違坂(B)、真田堀(C)、喰違見付のクランク(D)、清水谷(E)。

明治七年(1874年)1月14日午後8時、赤坂仮御所で公務を終えた岩倉具視の馬車は東門(A)から退出。紀の国坂を少し下って左折、土橋の喰違坂(B)を登り、自邸へと、帰路につきます。

赤坂仮御所東門
赤坂仮御所東門(A)。
赤坂仮御所東門から紀の国坂、喰違い坂
赤坂仮御所東門(A)から紀の国坂交差点を左折、喰違坂(B)へ。
喰違坂
紀尾井坂交差点、喰違坂。

がしかし、ここで元土佐藩士、武市熊吉ら、不平士族九人が待ち伏せしていました。

テロにいち早く気づいた岩倉具視は馬車を飛び降り逃げます。が、斬りつけられ、数カ所の傷を負ってしまいます。
車夫は助けを求めに今出てきたばかりの御所に走り戻ります。
暴漢に囲まれ、逃げ場を失った岩倉具視、絶体絶命の大ビンチ

この危機に際し、彼のとった行動とは?

真田堀グランド
真田堀グランド

間一髪、真田堀(C)にダイブ(゚Д゚;)!

夜陰の中、刀に手応えを感じなかった犯人グループはターゲットを見失い、やがて御所からの救援部隊が駆けつけ、逃走するしかありません。

この際、慌てた犯人の一人は現場に下駄を残してしまいます。

喰違見付から。真田堀は戦災の瓦礫で埋め立てられ、上智大学真田堀グランドとなっています。
喰違見付から真田堀を望む。真田堀は戦災の瓦礫で埋め立てられ、上智大学真田堀グランドとなっています。

岩倉具視は、幸いにも眉と腰に軽傷を負っただけで、助けあげられ、九死に一生を得ます。

知らせを聞いた西郷従道大久保利通は、すぐさま赤坂仮御所に参内。不平士族の仕業というこの事件を重くみた大久保利通は、ときの警視庁大警視、川路利良に早急の調査を命じます。

西郷従道、大久保利通、川路利良
西郷従道、大久保利通、川路利良

残された下駄を手掛りに、販売した下駄屋をつきとめ、購入者が武市熊吉と判明、芋づる式に九人を逮捕。事件後わずか三日のスピード逮捕でした。
当時から日本の警察力には恐れ入ります(`_´)ゞ。

暗殺が未遂に終わった要因

1. 岩倉具視が馬車をいち早く飛び降りたこと。
2. 赤坂仮御所に近かったこと。
3 .逃げ場はないと思われていた土橋から飛び降りたこと。
4. 夜で見通しが効かなかったこと。
5. 堀の中で騒がず、息をこらえ、じっとしていたこと。

「紀尾井坂の変」の場合、大久保利通は馬車内に留まり命を落とします。「逃げるが勝ち」とはよく言ったものです。

岩倉具視は夜8時まで働いていた勤勉さも幸いしています。

古地図で辿る大久保利通、最期のルート「紀尾井坂の変」を参照。

また、岩倉具視は正装の分厚い装束だったことも軽傷で済んだ要因の一つ。

正装の岩倉具視
正装の岩倉具視。岩倉具視の護身用短刀、携帯ピストルと火薬入れ、刀傷と血痕のある袴。

護身用の短刀、ピストルも所持していましたが、交戦せず、堀に飛び込んた咄嗟の判断。
幕末から常に刺客に狙われていた彼なりのことで、危険察知・危機管理能力には感心します( ̄^ ̄ )う〜ん。

岩倉具視邸のビックリ!

ところで岩倉具視邸はどこにあったのでしょうか?

なんと!江戸城内曲輪(うちくるわ)、江戸城内堀の内側(現・皇居外苑)、馬場先門内、元老院のお隣にありました。さすがは明治天皇の右腕、右大臣は相当なVIPだったことがうかがえます。

古地図:岩倉具視邸周辺
古地図:岩倉具視邸周辺(クリックで拡大)。
古写真:元老院
古写真:元老院
古写真:馬場先門
古写真:馬場先門
現・土橋の大通りとなっている馬場先門。
現・土橋の大通りとなっている馬場先門。手前の木立の裏に元老院、向こうの木立の裏に岩倉邸があったことになります。

正式な出仕ルートは残されていませんが、このように想像できます。もしかすると半蔵門から皇居を出たのかもしれませんが、最短ルートが桜田門三宅坂、清水谷坂、紀尾井坂、喰違見附経由だったとわかります。

岩倉具視出仕ルート
岩倉具視出仕ルート。岩崎邸(A)、桜田門(B)、喰違見付(C)、赤坂仮御所東門(D)(クリックで拡大)。
清水谷坂
清水谷坂

川路利良大警視の警視庁はどこにあったかというと、なっなんと!現在の東京駅あたりです(北口の線路の下 (≧∇≦))。

古地図;岩倉邸と警視庁
古地図;岩倉邸警視庁(クリックで拡大)。
古写真:警視庁(明治10年頃)
古写真:警視庁(明治10年頃)。
古写真:警視庁消防出初め式
古写真:警視庁出初め式

えっえっ、出初式ってぇー?
当時、東京消防庁は独立していなくて、警視庁が治安も消防も担っていました。この古写真は警視庁出初式の模様です。

そして最大のビックリは岩倉具視邸の古写真が存在するということ!

岩倉具視邸の古写真⁈

近年、ネットオークションで岩倉具視邸の古写真発見!というビックニュースが飛び込んできました。

古写真;岩倉具視邸

ん?、これってぇ軍用電信隊じゃねっ?

以前から古写真「軍用電信隊」と紹介されていたものです。
軍用電信隊は和田倉門外にありました。

古地図:岩倉邸(赤矢印)軍用電信隊(青矢印)。
カメラ画角比較
クリックで拡大。

改めて古地図で比較してみたところ、カメラ画角から、長屋門の門構え、屋敷配置が岩倉邸とピタリと一致!。軍用電信隊とは違うようです。

岩倉公邸ノ内」と裏書のある古写真が発見され、裏書によって真実が判明したというケースです。
明治三年(1870年)〜明治十七年(1884年)まで馬場先門内にあった岩倉具視邸に間違いありません。

古写真;岩倉具視邸

しかしながら、この馬車でテロに遭遇したのかも?と思うと臨場感があります。

邸宅は、もとあった松平下総守の忍藩邸を転用、改築したもので大名屋敷の面影をよく残しています。

古地図:安政七年(1860年)大名小路神田橋内内櫻田之圖より松平下総守と馬場先門。
古地図:安政七年(1860年)大名小路神田橋内内櫻田之圖より松平下総守馬場先門

またまたビックリ!
岩倉邸が現存していた。

古写真;岩倉具視邸玄関国家機関の古写真は記録を兼ねているので、よく残っているものですが、明治の元勲の私邸は稀です。
もっと古写真は残っていないかと調べると、、、
ななっ、なんと!移築された岩倉具視邸の一部が残っているってぇ!щ(゚Д゚щ)

しかもご近所、新宿区高田馬場、玄国寺の書院です。
早速、行ってみると、ほんとだぁ、古写真の玄関エントランスの瓦屋根と同じです。

明治十七年、皇居外苑拡張のため移転。各地を転々、大正時代、麹町で取り壊されるところを、住職がもったいないと言って譲り受けたそうです。

岩倉具視邸

鬼瓦は源氏の笹リンドウ。岩倉具視は村上源氏の流れです。
加山雄三、喜多嶋舞さんも岩倉具視のご子孫です。

玄関
玄関上部。

岩倉具視邸側面

建物側面はオシャレな和洋折衷で改築した跡が見られます。庇は銅葺きのようで、明治感が漂います。

岩倉具視邸側面

岩倉具視一般的に、幕末明治をしぶとく生き残ったイメージのある岩倉具視。

五百円札は最近見ませんが、古写真も現物も残っているとは、ビックリの岩倉邸です。

喰違と紀尾井坂下

明治初期、赤坂喰違の変、紀尾井坂の変と続けて起きましたが、明治9年測量を開始し、明治17年発行のこの地図では紀尾井坂下に交番と明かり灯台が設置されています。

明治の治安は、職を失った武士(士族)を中心に守られていくことになります。

次回、書ききれなかった江戸時代のお話から、
「切絵図にみる紀尾井坂と松陰を斬った一族、首切り浅」
お楽しみに(^^*)


頼朝伝説、堀部安兵衛の鎌倉街道を行く1(新宿区編)


お江戸東京は家康入府以来、開発されていったわけで、それ以前は坂東武者が闊歩する荒野や沼地が拡がっていました。それらは開墾され、埋め立てられ、新しい道が開削されていきます。

故に、古鎌倉街道と云われている道が途切れとぎれに点在しています。新宿区の軽子坂瓢箪坂から赤城神社にかけての道も古鎌倉街道と云われています。

文京区の目白坂あたりは鎌倉海道(海沿いの道)だったと江戸名所図会に書かれていて、江戸以前の古道だとわかるのですが、目白坂周辺の「関口」という地名も古鎌倉街道(奥州街道)に由来するという説もあります。

江戸名所図絵より目白下大洗堰
目白下大洗堰。クリックで拡大。

「目白下大洗堰」は江戸名所図絵にも紹介されていて「関口」の由来となったというのは、もっともな説なのですが、古鎌倉街道の関所に近いためという説。

どちらも間違いではないようです。
関口を過ぎ、西にやや行くと、鎌倉街道の関所があったと言われる宿坂があるのです。

宿坂
宿坂

この古鎌倉街道、さすがに古い道だけあって、江戸名所図会に登場する名所が多いようです。

新宿区早稲田の古鎌倉街道
新宿区早稲田の古鎌倉街道

今回は、この古鎌倉街道と云われている新宿区の道を走ってみます。

面影橋から

今ではここ都電荒川線だけになってしまった都電の面影橋駅。

面影橋駅
面影橋駅

面影橋から新宿区方面、南側を見ると、細い道が見えます。

面影橋から古鎌倉街道

これが、古鎌倉街道と云われている道です。人馬のみならば、これでもメインストリートでよいと思うのですが、それにしても細い道です。

この道のすぐ東側に、名所「甘泉園」が佇みます。

甘泉園

甘泉園入口

甘泉園

甘泉園の池

都会の新宿区にこんなに静かな庭園があったとは驚きの一言です。

嘉永七年(1854年)安政四丁巳年
嘉永七年(1854年)安政四丁巳年(1857年)改 尾張屋刊 江戸切絵図より

江戸時代、清水家の江戸下屋敷の庭園だったところですが、頼朝ゆかりの地でもあります。

治承4年(1180年)8月17日、以仁王の令司により、平氏追討のため、伊豆韮山で挙兵します。その後、源頼朝軍は石橋山の戦いで敗北。真鶴岬から8月29日、安房の猟島(カガリジマ、今の千葉県勝山)へ小舟で上陸。この地から再起をかけ、鎌倉へ登る途中、最初300騎だった軍勢は関東の反平氏勢力を巻き込み、40000騎に膨れ上がるのでした。

まさに、いざ鎌倉。甘泉園のある早稲田一帯は、鎌倉へ登る途中の頼朝の軍勢が馬揃え(軍事パレード)をしたと云う伝説の地です。

甘泉園には頼朝が愛馬の足を冷やした泉があったと江戸名所図絵では語っています。

山吹の井(江戸名所図絵より)
山吹の井(江戸名所図絵より)クリックで拡大。
江戸名所図絵の記事
 相伝ふ。右大将軍頼朝卿、此の高田の地に軍兵勢揃在りし頃、此の御神を勧請せし給ふ伝々。この山岸に少し計りの甘泉あり、これを山吹の井と呼べり、土人或は三島明神の御手洗、又は頼朝卿のうまの冷やし場なりともいひ伝へたり。

この湧水は地下鉄の工事等で干上がってしまい、今は消滅していますが、甘泉園の裏手には、水稲荷神社、頼朝が勧請したとされる三島神社があります。

水稲荷神社
水稲荷神社
三島神社
三島神社

鎌倉街道よりも古いもの、古墳もあります。

富塚古墳
富塚古墳
古墳の石室利用の祠
古墳の石室利用の祠

これらは昭和38年、お隣の早稲田大学敷地内から移転されたものです。新宿区戸塚地区の由来になっている冨塚古墳。ダンプカー600台分の古墳のお引越しだったようです。

ここは神田川が削った非対称河岸段丘。目白台側は切り立った崖なのに、早稲田側はなだらかな勾配です。古代、海の入江だったからなのか、地質が違うのか、なぜ非対称なのか?明確な答えはないようです。

いずれにせよ、入江の両岸で古代人が生活し、古墳文化さえ持っていたことは、間違いのない事実です(目白坂の謎の碑の項参照)。

高田の七面堂

甘泉園を出て、古鎌倉街道を南に緩やかに登っていくとすぐ、赤い門が見えてきます。

赤門さん

江戸時代、将軍家の祈祷所だった亮朝院(りょうちょういん)。地元の方は親しみを込めて「赤門さん」と呼んでいます。門をくぐると江戸名所図絵さながらの光景が広がります。

高田七面堂朝日堂
高田の七面堂、朝日堂、亮朝院(江戸名所図絵より)クリックで拡大。
朝日堂
朝日堂
七面大明神
七面大明神

石仁王江戸名所図絵にも描かれている石造りの仁王様。仁王様と言えば、普通は門の左右で睨みを利かしているものですが、誰でも触って信仰できるようにと、石造りにしたと云います。そう思うと愛着が湧いてきて、等身大の仁王様を優しく撫でています。

仁王様
仁王様

仁王様もさることながら、狛犬も特徴的です。

狛犬

頭に窪みがあり、ロウソクを立てたようです。祈祷のために必要だったのでしょうか?

高田の馬場

朱塗りの門を出て、また古鎌倉街道を南へ登ります。最後は行き止まり?。いや、江戸時代初期に、高田の馬場(馬術練習場)造成で分断されたのです。

行き止まり
行き止まりか?
高田の馬場(江戸名所図絵より)
高田の馬場(江戸名所図絵より)クリックで拡大。

古鎌倉街道は茶屋町通りに突き当たります。
高田の馬場は、見物客も多く、また、雑司ヶ谷鬼子母神への参拝客も多かったので、8軒の茶屋があったと云います。

茶屋町通り

茶屋町通り自体、鎌倉海道だったと云われており、古い道です。そうだとすると鎌倉街道と鎌倉海道が交差していたことになり、頼朝の軍勢が集結する地としては合点がいきます。

また、雑司ヶ谷鬼子母神への道ということは、ここがかつてのメインストリートだったことを匂わせます。鬼子母神へ行くために、今では、この道は通りません。

茶屋町通り
茶屋町通り

高田の馬場で有名なのが、堀部安兵衛の「高田の馬場の決闘」です。義理の叔父の喧嘩の助太刀をした堀部安兵衛を讃える碑は現在、水稲荷神社の入口近くにありますが、元は茶屋町通りにあり移設されたものです。

堀部武庸(ほりべたけつね)加功績跡の碑
堀部武庸(ほりべたけつね)加功績跡の碑
大正5-10年(1917-21年)陸地測量部2万5千分の1地形図より
大正5-10年(1917-21年)陸地測量部2万5千分の1地形図より

大正期の地図に大きく表記があります。茶屋の一つであった「甲州屋」が、この碑を建立。

講談等で誇張された安兵衛の真の姿を残すための碑だと云います。

古写真:菊人形(高田の馬場の決闘)
古写真:団子坂の菊人形(高田の馬場の決闘)

講談では八丁堀から走ってくることになっていて、あまりにも誇張され過ぎています。

当時、安兵衛は文京区にあった堀内道場に通っていて、新宿区の納戸町(市ヶ谷近く)に住んでおり、そこから徒歩の行程です(新宿区夏目坂と中山安兵衛の項参照)。

決闘が行われた地は、新宿区の資料によると、今の早稲田通りに面する「西北診療所」の辺りとされていますが、定かではありません。

西北診療所
高田馬場の決闘があった辺り。

高田の馬場の周りを一回りし、早稲田郵便局の対面、向こう側に古鎌倉街道は続きます。

古鎌倉街道

この細い道を行くと学習院女子大学に突き当たり、街道は消滅します。

鎌倉街道終点

ここは江戸時代から尾張徳川家の下屋敷の大きな敷地により、古鎌倉街道は消滅していて、近世になると陸軍戸山学校があった地です。

昭和3-11年(1928-36年)1万分の1地形図
昭和3-11年(1928-36年)1万分の1地形図より陸軍戸山学校とグリーンラインが古鎌倉街道。

中世の古道がまだ、東京の都会、新宿区に残っていて、頼朝伝説ゆえか、江戸時代から名所の多い道でした。

と、淡々、且つ、極めて真面目に書き終え、校正をワトソ子くんに頼むと、彼女からメッセが。

「坂道社長、この古地図の痕跡が豊島区の鎌倉街道に残っていますよ。探してみてください」

豊島区の鎌倉街道

「なにっこれっ?щ(゚Д゚щ)マジっすか⁈」

 icon-arrow-circle-right 豊島区の鎌倉街道をゆく(前編)へ続く。