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名を残す、名を隠す幽霊坂

ゴミ溜め隠しの坂を幽霊坂と呼びます。しかしながら、過去を隠すために別名で呼んだり改名して、ほんとうは百万都市・江戸にはもっと多くあったはずのゴミ坂・ゴミ集積場としての幽霊坂は姿を隠しています。

三田の幽霊坂
三田の幽霊坂。

三田の幽霊坂は名を残していますが、坂下まで真っすぐにつづき、大通り(旧奥州街道)から坂下が丸見えでゴミ溜めの目隠しになっていませんが?。

三田の幽霊坂

三田の幽霊坂

明治の古地図を見ると……。

古地図:明治13-19年(1880-86年)第一軍管地方2万分の1迅速測図原図より。
古地図:明治13-19年(1880-86年)第一軍管地方2万分の1迅速測図原図より。

じつは昔、坂はカーブしていて、大通りから坂下は見えなかったようです。しかも坂下部の点線の意味は「徒歩でしか通れぬ小径」、明治の陸軍が行軍のために作成した地図で、馬では通行不可という意味。坂下部分は細道で鬱蒼とした森だったようです。

化粧地蔵尊

坂の中腹に玉鳳寺があり、門前には「化粧地蔵尊」が鎮座しています。

玉鳳寺
玉鳳寺。
化粧地蔵尊
化粧地蔵尊。

まさか、このお地蔵さんを幽霊と勘違いした?確かに夜見たら怖いかもしれません。よくある「化粧を落とせば、でっ、出たな化け物⁈」そんなわけはなく。
美白やりすぎ、化粧濃いのは確かです。

坂道柱の説明には……

坂の両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるため、この名がついたらしいが有礼坂の説もある。幽霊坂は東京中に多く七か所ほどもある。

森有礼有礼坂の由来は、初代文部大臣・森有礼(もり ありのり)の屋敷が近くにあったからと、苦しい言い訳。それなら森坂でいいと思うのですが……どうしても幽霊を隠したいご様子。

今も昔もゴミ問題に苦悩する行政側。ゴミ坂・幽霊坂は立派な都市システム。隠すことはありません。

ゆうれい地蔵

幽霊坂より謎が深いのが、近くの高輪光福寺の「子安地蔵」通称「ゆうれい地蔵」です。

ゆうれい地蔵

江戸のむかしむかし。飴屋に毎晩、赤ん坊を連れた若い女性が飴を買いにきます。雨でも傘をささず、不思議に思った飴屋が、ある日、親子の後をつけてみると寺の中へ。
数日後、今度は住職と後をつけていくと、地蔵の前にたどりつきます。住職がこの地蔵を毎日供養すると、不思議なことに母子は現れなくなったと……。

このお地蔵さんは品川沖から揚がったと云います。おどろおどろしい風体は風化や海水による腐食とは考えにくく、何かを削る砥石的な道具にされたのでしょうか?昔話からすると飴作りの道具として使ったのかも?摩耗なのか腐食なのか、科学的なメスが入ることを期待します。

石段になった石仏・敷石になった墓石のリサイクル。
石段になった石仏・敷石になった墓石のリサイクル。

昔は石仏・墓石のリサイクルは当たり前。東京駅ホームの礎石から石仏が出てきたという話もあります。ゆうれい地蔵もリサイクル都市・江戸の産物と思われます。

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名を隠した新宿区の幽霊坂

宝竜寺坂

宝竜寺坂またの名を幽霊坂

新宿区市谷山伏町の宝竜寺坂、またの名を幽霊坂。これも堂々と立派な階段を大通りに向けています。

明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より幽霊坂
明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より幽霊坂。

古地図では、幽霊坂と名乗り、落ち込んでいて、大通り(今の外苑東通り)はまだ無く行き止まり。通りからは見えない理想的なゴミ溜め隠しになっています。

明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図より
明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図より。

明治後期、宝竜寺は廃寺となり、外苑東通りも拡張整備され、幽霊坂と道続きになります。いまさら、宝竜寺の名を出さなくてもいいのに……。

古写真:幽霊坂
古写真:幽霊坂。
幽霊坂のゴミ
幽霊坂のゴミ。

1970年代の古写真では「幽霊坂」を名乗っています。
しかしながら、昔の慣習が抜けないのか、ゴミを堂々と放置しています。今ではこのようなことをする心ない人はいません。

田端の幽霊坂

ゴミ溜めではなく、名乗らず、誰ともなく「幽霊坂」と呼んだ坂が北区田端にあります。

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