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頼朝伝説、堀部安兵衛の鎌倉街道を行く1(新宿区編)


お江戸東京は家康入府以来、開発されていったわけで、それ以前は坂東武者が闊歩する荒野や沼地が拡がっていました。それらは開墾され、埋め立てられ、新しい道が開削されていきます。

故に、古鎌倉街道と云われている道が途切れとぎれに点在しています。新宿区の軽子坂瓢箪坂から赤城神社にかけての道も古鎌倉街道と云われています。

文京区の目白坂あたりは鎌倉海道(海沿いの道)だったと江戸名所図会に書かれていて、江戸以前の古道だとわかるのですが、目白坂周辺の「関口」という地名も古鎌倉街道(奥州街道)に由来するという説もあります。

江戸名所図絵より目白下大洗堰
目白下大洗堰。クリックで拡大。

「目白下大洗堰」は江戸名所図絵にも紹介されていて「関口」の由来となったというのは、もっともな説なのですが、古鎌倉街道の関所に近いためという説。

どちらも間違いではないようです。
関口を過ぎ、西にやや行くと、鎌倉街道の関所があったと言われる宿坂があるのです。

宿坂
宿坂

この古鎌倉街道、さすがに古い道だけあって、江戸名所図会に登場する名所が多いようです。

新宿区早稲田の古鎌倉街道
新宿区早稲田の古鎌倉街道

今回は、この古鎌倉街道と云われている新宿区の道を走ってみます。

面影橋から

今ではここ都電荒川線だけになってしまった都電の面影橋駅。

面影橋駅
面影橋駅

面影橋から新宿区方面、南側を見ると、細い道が見えます。

面影橋から古鎌倉街道

これが、古鎌倉街道と云われている道です。人馬のみならば、これでもメインストリートでよいと思うのですが、それにしても細い道です。

この道のすぐ東側に、名所「甘泉園」が佇みます。

甘泉園

甘泉園入口

甘泉園

甘泉園の池

都会の新宿区にこんなに静かな庭園があったとは驚きの一言です。

嘉永七年(1854年)安政四丁巳年
嘉永七年(1854年)安政四丁巳年(1857年)改 尾張屋刊 江戸切絵図より

江戸時代、清水家の江戸下屋敷の庭園だったところですが、頼朝ゆかりの地でもあります。

治承4年(1180年)8月17日、以仁王の令司により、平氏追討のため、伊豆韮山で挙兵します。その後、源頼朝軍は石橋山の戦いで敗北。真鶴岬から8月29日、安房の猟島(カガリジマ、今の千葉県勝山)へ小舟で上陸。この地から再起をかけ、鎌倉へ登る途中、最初300騎だった軍勢は関東の反平氏勢力を巻き込み、40000騎に膨れ上がるのでした。

まさに、いざ鎌倉。甘泉園のある早稲田一帯は、鎌倉へ登る途中の頼朝の軍勢が馬揃え(軍事パレード)をしたと云う伝説の地です。

甘泉園には頼朝が愛馬の足を冷やした泉があったと江戸名所図絵では語っています。

山吹の井(江戸名所図絵より)
山吹の井(江戸名所図絵より)クリックで拡大。
江戸名所図絵の記事
 相伝ふ。右大将軍頼朝卿、此の高田の地に軍兵勢揃在りし頃、此の御神を勧請せし給ふ伝々。この山岸に少し計りの甘泉あり、これを山吹の井と呼べり、土人或は三島明神の御手洗、又は頼朝卿のうまの冷やし場なりともいひ伝へたり。

この湧水は地下鉄の工事等で干上がってしまい、今は消滅していますが、甘泉園の裏手には、水稲荷神社、頼朝が勧請したとされる三島神社があります。

水稲荷神社
水稲荷神社
三島神社
三島神社

鎌倉街道よりも古いもの、古墳もあります。

富塚古墳
富塚古墳
古墳の石室利用の祠
古墳の石室利用の祠

これらは昭和38年、お隣の早稲田大学敷地内から移転されたものです。新宿区戸塚地区の由来になっている冨塚古墳。ダンプカー600台分の古墳のお引越しだったようです。

ここは神田川が削った非対称河岸段丘。目白台側は切り立った崖なのに、早稲田側はなだらかな勾配です。古代、海の入江だったからなのか、地質が違うのか、なぜ非対称なのか?明確な答えはないようです。

いずれにせよ、入江の両岸で古代人が生活し、古墳文化さえ持っていたことは、間違いのない事実です(目白坂の謎の碑の項参照)。

高田の七面堂

甘泉園を出て、古鎌倉街道を南に緩やかに登っていくとすぐ、赤い門が見えてきます。

赤門さん

江戸時代、将軍家の祈祷所だった亮朝院(りょうちょういん)。地元の方は親しみを込めて「赤門さん」と呼んでいます。門をくぐると江戸名所図絵さながらの光景が広がります。

高田七面堂朝日堂
高田の七面堂、朝日堂、亮朝院(江戸名所図絵より)クリックで拡大。
朝日堂
朝日堂
七面大明神
七面大明神

石仁王江戸名所図絵にも描かれている石造りの仁王様。仁王様と言えば、普通は門の左右で睨みを利かしているものですが、誰でも触って信仰できるようにと、石造りにしたと云います。そう思うと愛着が湧いてきて、等身大の仁王様を優しく撫でています。

仁王様
仁王様

仁王様もさることながら、狛犬も特徴的です。

狛犬

頭に窪みがあり、ロウソクを立てたようです。祈祷のために必要だったのでしょうか?

高田の馬場

朱塗りの門を出て、また古鎌倉街道を南へ登ります。最後は行き止まり?。いや、江戸時代初期に、高田の馬場(馬術練習場)造成で分断されたのです。

行き止まり
行き止まりか?
高田の馬場(江戸名所図絵より)
高田の馬場(江戸名所図絵より)クリックで拡大。

古鎌倉街道は茶屋町通りに突き当たります。
高田の馬場は、見物客も多く、また、雑司ヶ谷鬼子母神への参拝客も多かったので、8軒の茶屋があったと云います。

茶屋町通り

茶屋町通り自体、鎌倉海道だったと云われており、古い道です。そうだとすると鎌倉街道と鎌倉海道が交差していたことになり、頼朝の軍勢が集結する地としては合点がいきます。

また、雑司ヶ谷鬼子母神への道ということは、ここがかつてのメインストリートだったことを匂わせます。鬼子母神へ行くために、今では、この道は通りません。

茶屋町通り
茶屋町通り

高田の馬場で有名なのが、堀部安兵衛の「高田の馬場の決闘」です。義理の叔父の喧嘩の助太刀をした堀部安兵衛を讃える碑は現在、水稲荷神社の入口近くにありますが、元は茶屋町通りにあり移設されたものです。

堀部武庸(ほりべたけつね)加功績跡の碑
堀部武庸(ほりべたけつね)加功績跡の碑
大正5-10年(1917-21年)陸地測量部2万5千分の1地形図より
大正5-10年(1917-21年)陸地測量部2万5千分の1地形図より

大正期の地図に大きく表記があります。茶屋の一つであった「甲州屋」が、この碑を建立。

講談等で誇張された安兵衛の真の姿を残すための碑だと云います。

古写真:菊人形(高田の馬場の決闘)
古写真:団子坂の菊人形(高田の馬場の決闘)

講談では八丁堀から走ってくることになっていて、あまりにも誇張され過ぎています。

当時、安兵衛は文京区にあった堀内道場に通っていて、新宿区の納戸町(市ヶ谷近く)に住んでおり、そこから徒歩の行程です(新宿区夏目坂と中山安兵衛の項参照)。

決闘が行われた地は、新宿区の資料によると、今の早稲田通りに面する「西北診療所」の辺りとされていますが、定かではありません。

西北診療所
高田馬場の決闘があった辺り。

高田の馬場の周りを一回りし、早稲田郵便局の対面、向こう側に古鎌倉街道は続きます。

古鎌倉街道

この細い道を行くと学習院女子大学に突き当たり、街道は消滅します。

鎌倉街道終点

ここは江戸時代から尾張徳川家の下屋敷の大きな敷地により、古鎌倉街道は消滅していて、近世になると陸軍戸山学校があった地です。

昭和3-11年(1928-36年)1万分の1地形図
昭和3-11年(1928-36年)1万分の1地形図より陸軍戸山学校とグリーンラインが古鎌倉街道。

中世の古道がまだ、東京の都会、新宿区に残っていて、頼朝伝説ゆえか、江戸時代から名所の多い道でした。

と、淡々、且つ、極めて真面目に書き終え、校正をワトソ子くんに頼むと、彼女からメッセが。

「坂道社長、この古地図の痕跡が豊島区の鎌倉街道に残っていますよ。探してみてください」

豊島区の鎌倉街道

「なにっこれっ?щ(゚Д゚щ)マジっすか⁈」

 icon-arrow-circle-right 豊島区の鎌倉街道をゆく(前編)へ続く。


石切橋から相生坂へ


ある秋の日、朝の坂道探偵社。
ワトソ子くんが珍しく差し入れを持って来社したのです。

「坂道社長、スコーンを焼いたのでお持ちしました」
「あっ、ありがとう。イングリッシュティーにスコーン、さいこう!だね」
と私は言いつつ、心の中では「旦那さんと二人で食べきれないほど焼いたな」と呟く、、、
「スコーンと生クリーム、ブルーベリージャム、そして香り豊かなアールグレイ。なんともいい組み合わせだね。シドニーにいたときはデボンシャーティーと言って朝のご挨拶がわりの習慣だったよ」

そう言いながら、お茶を入れ、くつろぐことにしようと決め込んだのもつかの間、スコーンを食すと、
なんと、歯が立ちません( ゚д゚ )!かっ、硬い!
そんなことは言葉に出さずに、すばやく察知。
ワトソ子くんは失敗作を持って来たのだ。うーん、旦那さんには食べさせられない。きっと、貧しい坂道社長なら食べるだろうと思い、わざわざ持参したのだ。私の推理は100%当たっていると、妙な確信を持つことに、ためらいなどはありませんでした。
ワトソ子くんは、私の反応をいたずらな瞳で見つめ、小さく笑いながら、話を切り出しました。

相生坂(昌平坂)「坂道社長、昌平坂って、相生坂とも呼ばれていたんですよね」
「そうだよ、神田川を挟んで両側に坂があったから相生坂さ」
「それは、よくわかるのですが、新宿区の相生坂って、川の両側でもないし、ましてや、高台の両側でもないの。これってなぜなのでしょう?なぜ、平行する坂道が必要だったの?」
「え(*’д’*)!、そっ、そうだねぇ、それって疑問を解決しろっていうこと?」
「はい!そのとおりでございますわ、笑」

しばらく世間話をしたのち、ワトソ子くんはドアにおじぎをするように帰っていった。
六尺五寸の大女。長身がゆえに首を折らないとドア枠にぶつかる!。なので、おじぎをするような格好になるのです。
ああ、難問を頂いたものだと私のため息がガラス窓を曇らすのでした。

石切橋

悩んでいても始まらない。行動するのみ。
文京区の坂道探偵社から新宿区へ行くには石切橋を渡るのです。

石切橋
石切橋

寛文年間(1661〜73)の架橋といわれ、江戸川(神田川の中流域を指す)に架かる最も古い橋の一つで、このあたりに石工職人が多く住んだことに因む名です。また、江戸川大橋とも呼ばれ、幅の広い橋だったそうな。

石の数々

石という観点からみると、交差点角に石が多いし(余りの石材か?)、近所の大日坂下には石材屋さんが一軒残っています。

アンパンマンとスヌーピーアンパンマンとスヌーピーのディスプレイ(笑)。今から260年後、こんな墓石ばかりで、墓石に刻まれた「平成」の年号を、彼女がわり、パソコンがわりのアンドロイドに検索をお願いしているのかと妄想するとまた(笑)。

お江戸の歴史を考えると、寺社は多いし、斜面に武家地。墓石、平地を確保するための石垣など、大量の石材が必要だったはずです。なので自ずと石工が多くなります。

なぜ、古くからここに橋があるのか?考えなくとも地図オタならすぐわかります。

古地図:嘉永七年尾張屋刊江戸切絵図
嘉永七年(1854年)安政四丁巳年 (1857年)改尾張屋刊江戸切絵図より赤城神社、石切橋と二つの相生坂

橋を渡ると、南にまっすぐ道が延びていて赤城坂、赤城神社裏門へと続きます。赤城神社は戦国時代からそこにあり、お江戸の街並み造成の過程で、歓楽地としての赤城神社へ行く道、坂、橋は整備されてゆくのです。

五軒町

あっ、調査対象は橋ではありませんでした。相生坂です。
神田川(江戸川)沿いを下流に下り南側、目白通りの向こう側に相生坂へと、まっすぐに続く道が見えてきます。

相生西の坂
奥の方に相生西の坂が登っています。

古地図:小日向馬場お江戸の地図(嘉永七年(1854年)安政四丁巳年 (1857年)改尾張屋刊江戸切絵図)でみると、緑色の長方形と馬場(小日向馬場という)の文字が見えます。
馬場の建設をこの地の請負人五人に依頼。相生坂に、土地を拝領し住んだのでこの辺りを一帯を「五軒町」(西五軒町と東五軒町)と呼んでいます。
また、明治の地図をみると、目のつくのが池の数々。
これって何?

古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より
明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より。石切橋相生坂、そしてたくさんの池が点々と、、、

江戸川の文京区側にはウナギの名店があります。

うなぎの名店
うなぎの名店、「石ばし」と「はし本」。

そーです。明治の地図の新宿区側、たくさんの池はウナギの養殖場だったのです。
今ではウナギの養殖といえば浜松ですが、物流が進化するまでは、ウナギの養殖といえば、この辺りだったそうです。

相生坂

五軒町を南に進み、いよいよ相生坂です。いつか書いたように二本平行してある相生坂は区別するため、地元では相生東の坂、相生西の坂と呼んでいます。

上:相生西の坂、下:相生東の坂
上:相生西の坂、下:相生東の坂

坂道説明柱には

「続江戸砂子」によると「相生坂、小日向馬場のうえ五軒町の坂なり。二つ並びたるゆえの名也という」とある。また「新撰江戸誌」では鼓坂とみえ「二つありてつづみのごとし」とある。
一方「御府内備考」「東京府志料」では坂名の由来は、神田上水の対岸の小日向新坂(現文京区)と南北に相対するためであると記されている。

後半の青色部分、文京区側の小日向新坂と対を成すと言っていますが、ここから600メートルも北にある坂と相対って、それりゃそうだけどかなり遠い。
江戸時代なら相生坂の上から川向こうの、神田上水向こうの小日向新坂は見えたはずで、これはこれで一理あります。
お江戸の人はずいぶんと壮大なことを考えたものですが、見通しの良いところだったと伺え、景色を想像するとお江戸にタイムスリップしてみたくなります。文京区側の緑の小日向台地に、クッキリと映える坂道。さぞかし印象深かったのでしょう。

古地図:寛文10-13年(1670-73))新版江戸大絵図
寛文10-13年(1670-73))新版江戸大絵図

小日向新坂

新版江戸大絵図で、黄緑が小日向馬場。俗称キリシタン坂(緑ライン)、小日向新坂(青ライン、寛文年間にはまだ出来ていない、左の写真)と、相生東の坂、相生西の坂(赤ライン)。
今回、ここでは「鼓坂」とも呼ばれた二つの平行する相生坂を考えてみます。

相生西の坂坂上より実は坂道社長、この相生西の坂を時々、走っていました。
なぜかって?うーん、上部へ行くほど傾斜がキツくなっているのです。鍛えるには、神楽坂へ行くには、近道であり、鍛錬できる、ちょうど良い坂なのです(かなりゼエゼエしますが)。相生東の坂はどうかというと、西の坂よりはなだらかな印象です。

平行する二本の坂はなぜあるのか?

さて、ワトソ子くんに頂いた難題です。
なぜ、二本平行してあるのか?
坂道探偵が妄想するに、馬場と関係がありそうです。

古地図:寛文10-13年(1670-73)新版江戸大絵図より
寛文10-13年(1670-73)新版江戸大絵図より

このお江戸の成立期の地図でみると二つの相生坂(赤ライン)は階段坂です。坂の脇にある町が本来の五軒町(青矢印)。そして西の坂の坂上には車だまり、Parking poolならぬ、馬だまりなのか?広い場所(緑矢印)があります。この広場があることで今よりもずっと傾斜のキツイ坂だったということになります。

階段と馬場、階段と馬でピーンとくるのが、愛宕神社の階段を馬で駆け上った曲垣平九郎(まがき・へいくろう)のお話。

寛永11年(1634年)、徳川秀忠の三回忌として増上寺参拝の帰り、徳川家光が山上にある梅が咲いているのを見て、「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と言ったところ、讃岐丸亀藩の家臣、曲垣平九郎が、お見事!馬で駆け上がって枝を取ってくることに成功し、馬術の名人として全国にその名を轟かせた。

曲垣平九郎「出世の階段」階段を駆け上がって出世した武士がいると、真似したくなるのが常です(≧∀≦)。
そして五軒町の位置(青矢印)。町はまさに相生西の坂に面しています。馬場を造成した五軒町の人々は、当然、馬場の管理も任されたはずです。一大武家地である神楽坂から、馬場へ行くにはこの坂を通ります。馬術練習のため、坂を駆け下りる、駆け上る、そんなことをする武士も現れます。

「いっそのこと、この坂はおいらたちが管理して、お馬様専用にしねえかいっ、熊さん」
「おお!ええじゃねっか!いい傾斜だしよのぉ」
「もひとつ、人様用に坂作れば、安心安全ってもんだぁ」

そんな考えが浮かんだのかもしれません( ̄ー+ ̄)ニヤリ…。
人様用のほうがゆるやか。車道、歩道のような関係です。
馬のように?走って妄想した坂の成立過程です。

「ワトソ子くん、謎は解けたよ、私の仮説だけどね」とメッセ。リプライがすぐ返って来ます。
「坂道社長、すぐ行きますわ、スコーンをお持ちしまーす(笑)」
最後の(笑)は笑えないかもしれない。。。
私の頭のなかにスコーーーンと鹿威しの響きが(〃´Д`)。
お後がよろしいようでm(_ _)m。