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「君の名は。」のラストシーン聖地巡礼と坂道の歴史ウンチク


推測ですが。
彗星が降ってから五年後。もうあの頃のことは、皆、忘れかけています。

新宿大ガード西
新宿大ガード西交差点

五年の月日は長く、看板も少し変わっているような気が(爆)。

滝くんと三葉は青山あたりに住んでいます(推測)。

大人になった三葉は、友達のテッシー、サヤチンと東京に出てきていて、OL生活に疲れています。
心の奥底で何かを、誰かを、探していますが、思い出せません。

赤坂見附弁慶橋北詰め
赤坂見附弁慶橋北詰め。

時折、街角でキラリとしたものとすれ違いますが、今日も、自ら編んだ組紐を髪に結び、変わらぬ日々を送ろうとしています。

新都心歩道橋下交差点
二人がすれ違う新都心歩道橋下交差点。

滝くんはというと、就活に走る毎日。狙っているのは建築会社。内定が決まっている友達と比べると、焦り、今日も慣れない、似合わないスーツで電車に乗ります。

そんな日常の中、二人は、並走するJRの中で目と目が合い、訳もなく「トキメキと驚き」が交錯します。

中央線各停、次の駅「千駄ヶ谷駅」で思わず飛び降りる三葉。

現在、高架工事中の千駄ヶ谷駅。
残念ながら、現在、高速高架工事中の千駄ヶ谷駅。

現在、高架工事中の千駄ヶ谷駅。

中央線快速に乗っている滝くんは、新宿駅で下車。
滝くんは新宿駅南口から、正しい方向、四ツ谷方面へ。

新宿駅南口改札。
新宿駅南口改札。

新宿駅南口改札
新宿駅南口改札

新宿駅南口。
新宿駅南口。

バスタ新宿
新宿駅南口バスタ新宿。

三葉、道を間違えるщ(゚Д゚щ)

一方、三葉は、、、あれっ?、
信濃町駅前を青山方面に走っています。
方向が違いますよ!щ(゚Д゚щ)。

信濃町駅前
信濃町駅前。

滝くんは甲州街道・国道20号線の四ツ谷四丁目交差点を直進。

四ツ谷四丁目交差点2
四ツ谷四丁目交差点

そして、おそらく津之守坂入口を右折、円通寺坂を下り、ポストのある別れ道で迷いますが、須賀神社方向へ進みます。
ピンポン!正解!さすがは東京ネイティヴ(^^*)。

円通寺坂の分かれ道。
円通寺坂の分かれ道。

しかしながら、ここのポストは印象的です。

おそらく、今、日本一有名なポスト。
今、日本一有名なポスト。

ところで、三葉は、、、

三葉はどうやって四ツ谷まで来たのでしょうか?
おそらく記憶にうっすらとある信濃町駅前歩道橋、ドコモタワーを見て、逆方向だと悟り、外苑東通りを北上したと思われます。

信濃町駅前歩道橋
信濃町駅前歩道橋。本編では一行院の舎利塔は消されていますが、印象的なシーンはこの歩道橋で展開されます。

ドコモタワー
ドコモタワー。

三葉、また、間違えるщ(゚Д゚щ)

三葉は、やっとの思いで、四ツ谷に辿り着き、滝くんを探します。がしかし、ここでも、、、

須賀神社入口交差点
東福院坂から、須賀神社入口交差点。

東福院坂を登ろうとしています(*’д’*)、後ろに須賀神社入口と書いてありますが!щ(゚Д゚щ)。
この坂を登ってしまうと甲州街道に出てしまいます。

甲州街道から須賀神社入口へ向かうとある標識
甲州街道から須賀神社入口へ向かうとある標識。かなり望遠でアップのカット。

戸惑いながらも観音坂を下り左折し、戒行寺坂を登り、須賀神社男坂坂上で、来るとも知れないあの人を持ちます(推測)。

迷いながらも三葉はなぜ、
滝くんよりも早く着くのか?

中央線快速の新宿駅で降りた滝くん。三葉は中央線各停に乗ったおかげで千駄ヶ谷駅で飛び降りました。
地理的に、千駄ヶ谷の方が、四ツ谷は近いのです。

須賀神社男坂の坂下に辿りついた滝くんは坂上を見上げます。
そこにはあの人がいます。

二人は坂を、、、

須賀神社男坂
須賀神社男坂。

えっえー!ここまで来て、また、すれ違うのかよっヽ(`Д´)ノ

須賀神社男坂
須賀神社男坂

坂を登り切った滝くんは、振り返り、おどおどしながらも話しかけます。
あのぉ、俺、君をどこかで」、、、つづく。

デートで失敗しない
「君の名は。」の坂道ウンチク

江戸切絵図を見ると、この階段(須賀神社男坂、古地図青矢印)はありません。須賀神社さえもありません。えっえーщ(゚Д゚щ)。

古地図:嘉永三年(1849年)万治元年 (1858年)改 尾張屋刊江戸切絵図より四谷
古地図:嘉永三年(1849年)万治元年 (1858年)改 尾張屋刊江戸切絵図より四谷周辺(クリックで拡大)。

この謎は東福院坂説明柱を読むとわかります。

東福院坂(天王坂)説明柱東福院坂(天王坂)
坂の途中にある阿祥山東福院に因んでこう呼ばれた。別名の天王坂は、明治以前の須賀神社が牛頭天王社と称していたため、この辺りが天王横町と呼ばれていたことによる。
新宿区教育委員会 平成十年十月

東福院(天王坂)
東福院(天王坂)。

そうです。お江戸の昔、須賀神社は天王社(古地図赤矢印)と呼ばれて崖上にありました。現在の坂上は、崖上でお隣の勝興寺の敷地だったのです。

須賀神社女坂
須賀神社女坂

天王社(須賀神社)の坂は、須賀神社女坂(古地図緑矢印)がメインだったようです。

そしていつこの階段坂(須賀神社男坂)ができたかというと、大正初期の地図に顕われます。

左:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図 右:大正5-10年(1917-21年)陸地測量部2万5千分の1地形図より青矢印が須賀神社男坂。
左:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図 右:大正5-10年(1917-21年)陸地測量部2万5千分の1地形図より青矢印が須賀神社男坂(クリックで拡大)。

坂上は歴史好きには堪らないスポットで溢れています。

須賀神社社殿
須賀神社社殿。

須賀神社には 、天保七年(1836年)大岡雲峯画、三十六歌仙の絵画、明治30年(1897年)奉納の吉田亀五郎作の鏝絵(こて絵)が戦火を逃れています。

勝興寺

須賀神社裏の勝興寺には墓地に入ってすぐ右手に、斬首執行人一族、「七代目山田浅右衛門吉利」の墓所があり、水盆は六代目浅右衛門吉昌の奉納。

勝興寺
勝興寺
吉田松陰を斬った男。七代目山田浅右衛門吉利の墓所。
六代目浅右衛門吉昌奉納の水盆。

切絵図にみる紀尾井坂と松陰を斬った一族、首切り浅を参照

彼女に「キャー怖い〜!」と言わせましょう( ̄ー+ ̄)。

観音寺坂

観音寺坂
かなりキツイ勾配の観音寺坂。
江戸城半蔵門
江戸城の半蔵門。

観音寺坂の坂上の西念寺には服部半蔵の墓所があります。

服部半蔵は地下鉄半蔵門線江戸城の半蔵門の謂れになった人物と彼女に教えてあげましょう。

服部半蔵墓所
服部半蔵墓所。

戒行寺坂

戒行寺坂
戒行寺坂

池波正太郎先生作「鬼平犯科帳」の主人公、長谷川平蔵の供養碑がある戒行寺。

戒行寺
戒行寺

彼女が時代劇好きならピッタリの名所です。
男らしい鬼平の言い回しがシビれるようで、鬼平ファンの女の子は意外と多いようです。

長谷川平蔵の供養碑
長谷川平蔵の供養碑。

須賀神社からほど近いので
縁結びのご利益がある二つのお岩稲荷もどうぞ。

闇坂と二つのお岩稲荷を参照

その後の二人

「あのぉ、俺、君をどこかで」
「わたしもぉ」

「きみの名は」

「立花滝です」
「宮水三葉です」

「初めてまして、、、じゃないよね?」
「笑」

滝くんは建築コンツェルンに入社しているはずです(推測)。

新宿警察署裏信号
新宿警察署裏信号


切絵図にみる紀尾井坂と松陰を斬った一族、首切り浅


紀尾井坂の変」が起きたのは清水谷ですが、なぜ、「清水谷の変」と呼ばないのでしょうか?

清らかな水の湧く谷「清水谷」。この地名は全国いたるところにあり、混乱を招く恐れがあります。

一方、「紀尾井坂」は、彦根藩の中屋敷に囲まれていた稀有な環境の坂道。日本広しと云えども「紀尾井坂」はここだけです。「紀尾井坂の変」と言えば、間違いなくこの辺りを指すことになるです。

古地図で辿る大久保利通、最期のルート「紀尾井坂の変」と参照。

古地図:嘉永三年(1849年)万治元年 (1858年)改 尾張屋刊江戸切絵図より紀尾井坂
古地図:嘉永三年(1849年)万治元年 (1858年)改 尾張屋刊江戸切絵図より紀尾井坂

州中屋敷跡は現・東京ガーデンテラス紀尾井町、清水谷公園。

東京ガーデンテラス紀尾井町
東京ガーデンテラス紀尾井町
清水谷公園
清水谷公園

張中屋敷跡は現・上智大学。

上智大学
上智大学

伊中屋敷跡は現・ホテルニューオオタニ。

ホテルニューオオタニ
ホテルニューオオタニ

また切絵図で面白いのは現・清水谷公園のあるところ(赤矢印)にではなく、現・上智大学の裏の通りを「シミズダニ」と表記しています。

シミズダニ

この上智大学の裏通りをまっすぐ行くと、なるほど、この坂道から清水谷は始まっているのだとわかります。

清水谷の始まり

紀尾井坂と同じように三つの家からとった名前の坂道が近くにあります。

三べ坂

紀尾井坂に対抗したのか、安・岡・渡で「三辺坂」。

古地図:嘉永三年(1849年)万治元年 (1858年)改 尾張屋刊江戸切絵図より三べ坂
古地図:嘉永三年(1849年)万治元年 (1858年)改 尾張屋刊江戸切絵図より筑前守・安摂津守・渡丹後守屋敷に囲まれた三辺坂。

江戸っ子らしい洒落たネーミングですが、「三辺坂」では「部」はどうなるヽ(`Д´)ノ 。
部部辺坂のほうが良かったような?
でもぉ、それでは言いずらいし、今では「三べ坂」とカナで表記しています。

三べ坂
三べ坂

山田浅右衛門がポッツンと?

また、幕末の切絵図をみていると、おもしろいことに気づきます。紀尾井坂を下り、清水谷坂を登り、まっすぐいくと町人地が続くのですが、町人地である平川町にポッツンと一軒のお武家が、、、

古地図:嘉永三年(1849年)万治元年 (1858年)改 尾張屋刊江戸切絵図より紀尾井坂と山田浅右衛門
古地図:嘉永三年(1849年)万治元年 (1858年)改 尾張屋刊江戸切絵図より紀尾井坂と山田浅右衛門(クリックで拡大)

山田浅右衛門」の一軒だけが、四方を町人地で囲まれ真ん中に。なぜこんなことになっているのでしょうか?

山田浅右衛門とこの切絵図の版元「金燐堂」も宣伝よりしくチャッカリ表記されています。
山田浅右衛門とこの切絵図の版元「金燐堂」も宣伝よろしくチャッカリ表記されています(^^*)。
平川町の山田浅右衛門邸のあったあたり
平川町の山田浅右衛門邸のあったあたり。

徳川家刀剣類御様御用

山田浅右衛門(または山田朝右衛門)は、特別な家柄で、主君を持たない、どこにも組しない、いわゆる浪人の身分です。
がしかし、代々、役職があり、それは、将軍家の刀剣試し切り役、正規の役職「徳川家刀剣類御様(おためし)御用」。

どう試すのかって?
そうです!斬首の執行人なのですщ(゚Д゚щ)。

初代 山田浅右衛門貞武
二代 山田浅右衛門吉時
三代 山田浅右衛門吉継
四代 山田浅右衛門吉寛
五代 山田浅右衛門吉睦
六代 山田浅右衛門吉昌
七代 山田浅右衛門吉利
八代 山田浅右衛門吉豊
九代 山田浅右衛門吉亮

元禄のころから、この役に就いていたと云う一族です。
かといって、もらえる「試し切り料」は微々たるもの。
幕府から家禄をもらっていないわけで、何が収入源だったのでしょうか?

えっえーーーщ(゚Д゚щ)!漢方薬⁈
執行後の遺体は彼のものとなり、各部位を漢方薬にして売っていたようです。
労咳(結核)に効くとされた「浅山丸」は有名でした。
「熊の胆」とかいうけど人間の部位が材料のものもあったのですねぇ。てっ、ちょー怖っ((((; ゚Д゚)))

大悪人のものとなると「肝が据わってるっ!」と高値で取引されたそうな。マジかいな?(^^*)
でもなんだか効きそうに思えてくる畏怖の作用。

また、町道場も開いていて、勝海舟のお父さん、勝小吉が通っていたという話もあります。七代目吉利の頃のようです。

松陰を斬った七代目山田浅右衛門吉利

七代目の吉利は小伝馬町牢獄で、吉田松陰を斬っています。

小伝馬町牢獄跡
小伝馬町牢獄刑場跡(大安楽寺)

松陰は、死の間際でも落ち着きはらい、役人に「ご苦労様です。」と挨拶までして、毅然としていたと、のちに語っています。山田浅右衛門には辞世の句を理解できるよう文学の素養も必要とされていたようです。

松陰先生終焉の地
刑場跡の大安楽寺の向かい・十思公園に立つ「松陰先生終焉の地」の碑。
松陰辞世の句
 身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
松陰辞世の句の碑
松陰辞世の句の碑。「二十一回猛士」は松陰のペンネーム。

維新後の九代目山田浅右衛門吉亮

明治5年(1872年)牢獄は市ヶ谷に移ります。市ヶ谷監獄署の刑場があった場所に青峰観音というお地蔵さんが建っています。

青峰観音
青峰観音

現在地図と見比べると、青矢印が刑場のようです。

古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より市ヶ谷監獄。
古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より市ヶ谷監獄。
新宿区台町坂の南側(写真右)に市ヶ谷監獄署がありました。
新宿区台町坂一帯に市ヶ谷監獄署がありました。

維新後も変わらず、斬首は行われていて、最後の首切り役人・九代目吉亮は「紀尾井坂の変」「赤坂喰違の変」の犯人も斬っています。
「赤坂喰違の変」の犯人九名は、1日で斬ったと云い、さすがに疲れると見え、刑のあった日は門人と呑み明かしたと云います(尋常な気持ちでいれるわけがありません)。

岩倉具視暗殺未遂事件「赤坂喰違の変」と、生き残った岩倉邸を参照。

高橋お伝

日本で最後に斬首に処せられたのは「毒婦・高橋お伝」と云われています。

講談話等では、あまりの色香漂ううなじに、浅右衛門の手許が狂い、仕損じてしまいます。それを恥じてこの職を辞めたと云うことになっていますが、実際には、明治13年(1880年)刑法により、残忍な斬首は廃止され絞首刑となっています。

谷中霊園にある戯作者・仮名垣魯文により建立された墓碑「高橋お伝の墓」。
九代目山田浅右衛門吉亮と高橋お伝
九代目山田浅右衛門吉亮と高橋お伝
墓碑説明板より「高橋お伝」
「高橋お伝」の墓碑説明板より。
高橋 お伝 1850~1879
嘉永3年、上野国前橋に生まれる。明治初期の稀代の悪婦として知られる。最初の夫、浪之助が悪病にかかり身体の自由を失ったのでこれを毒殺し、他の男のもとに走り、その後、各地を放浪しながら悪事を重ねた。明治9年、浅草蔵前の旅館丸竹で、古着屋後藤吉蔵をだまして殺害、所持金200両を持って逃走、京橋新富町で捕らえられ、同12年、30歳で死刑に処せられる。毒婦お伝の名は都下の新聞、仮名垣魯文のお伝一代記『高橋阿伝夜叉譚』などで有名になる。しかし、彼女は貧困と差別のうちに男に利用された気の毒な存在と見る見方も強まっている。碑は物語で利を得た魯文が世話人となって作られた。

小伝馬町、市ヶ谷、谷中霊園を訪ね、最後に、松陰を斬った七代目吉利の墓がある四谷の勝興寺に。

七代目吉利

「第七世 浅右衛門吉年」となっています。明治17年( 1884年)没。仕事とはいえ松陰を斬った男。複雑な感情が芽生えてきます。

勝興寺すぐ近くに須賀神社があり、脇には最近、超有名になった坂があります。

須賀神社

「君の名は。」の坂道

「紀尾井坂の変」「赤坂喰違の変」「首切り浅」と重いお話が続きましたが、次はか〜るく(^^*)

「君の名は。」のラストシーン聖地巡礼と坂道の歴史ウンチク

へと続く。