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都心の新撰組(近藤勇編)

新宿区の外苑東通りの焼餅坂、市谷柳町交差点。
ここは一昔前まで渋滞のメッカで、光化学スモッグ多発地帯という、なんとも懐かしい公害の汚名が出てきます。渋滞緩和のため、一部、信号を取り除くという暴挙に出た場所です。

牛込柳町交差点
牛込柳町交差点。

外苑東通りは未だに片側二車線工事をしていて、片側一車線のところは渋滞します。

焼餅坂坂上より
焼餅坂坂上より。

焼餅坂という名は団子坂同様、付近に餅屋があったからという他愛のない命名です。
川柳にも「向かい合ひ 焼餅坂の 女房たち」と云うのがあり、そこはかとなく込み上げてくる滑稽な名です。

古地図を見ると今よりも、短く、急坂だったことがわかります。

古地図:安政四年(1857年)改 尾張屋刊江戸切絵図より焼餅坂
古地図:安政四年(1857年)改 尾張屋刊江戸切絵図より焼餅坂(赤矢印)。

近代になって、自動車・都電用の道にするため、真っ直ぐに、緩やかに、そして長くしています。

左:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図、右:古地図:昭和30-35年(1955-60年)1万分の1地形図
左:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図(青矢印が焼餅坂)、右:古地図:昭和30-35年(1955-60年)1万分の1地形図(クリックで拡大)。

この焼餅坂坂上近くに「試衛館」跡という史跡があります。

試衛館道場

奥には三百年以上前からあったという正八幡神社があり、良い雰囲気を醸し出していますが、寂しく試衛館跡の説明柱が立つのみ。

正八幡神社
試衛館跡の正八幡神社。

「試衛館」跡

この場所は江戸切絵図(青矢印)にあるようにかつての市谷甲良屋敷内で、その一角を借り、近藤勇の養父であり、天然理心流三代目宗家近藤周助が道場を開いていた場所というのが定説です。

一方、新撰組(新選組)生き残りの永倉新八は、北海道小樽新聞に掲載された回想録「新撰組永倉新八」の中で道場は小石川柳町の坂上と言っています(*’д’*)。

小石川柳町
小石川柳町商店街。

この記事は高齢の永倉新八をインタビューしたもので、高齢のための勘違いか、聞き手の聞き違い、勘違いからです。

近藤周助の文章の中に「江戸甲良屋敷西門近藤周助」とあり、甲良屋敷が試衛館跡で間違いないのですが。ではなぜ(?_?)

なぜ勘違いしたのか?

高齢のせいもあるのですが、小石川柳町から善光寺坂を経て、澤蔵司稲荷、伝統院を過ぎるとすぐ、処静院(しょじょういん)があったから勘違いしたのかもしれません。

浪士隊結成の地・処静院

処静院は新撰組の前身である浪士隊結成の地。処静院住職の琳瑞(りんずい)は浪士隊取締役の山岡鉄太郎(鉄舟)とは志を同じする懇意の仲で、浪士隊結成の趣旨に賛同し境内を貸します。

処静院は廃寺となり、この通りの奥が処静院のあった場所です。
処静院は廃寺となり、伝通院前のこの通りの奥が処静院のあった場所です。
江戸名所図会より処静院
江戸名所図会より処静院(赤矢印)クリックで拡大。
不許葷酒入門内
処静院の門前にあった「不許葷酒入門内」の碑。

文久三年(1863年)二月、清川八郎は上洛する十四代将軍家茂護衛のための浪士隊員を広く募集します。
その際、処静院に集結したのが近藤勇、永倉新八、山南敬助、沖田総司、藤堂平助、井上源三郎、水戸藩浪士の芹川鴨ら234名の面々。

彼らは将軍警護のため京へのぼり、攘夷を優先させ江戸に帰る清川一党と袂を分かち、京へ留まり、その後の活躍はご存知の通り。

浪士隊結成数ヶ月後、清川八郎は麻布一の橋で、四年後、処静院住職の琳瑞は三百坂で暗殺されてしまいます。

幕末は足早に過ぎていきます。

「陽だまりの樹」の三百坂を参照

千代田区九段、青木(モチノキ)坂下の新徴組屯所跡の碑。
千代田区九段、冬青木(モチノキ)坂下の新徴組屯所跡の碑。

清川とともに江戸に帰った浪士組は思想の柱を失い、庄内藩お預かりの新徴組と名乗り、江戸市中の警備にあたることになります。新徴組は日々、江戸市中を巡回、「お巡りさん」の語源になったと云われています。

新撰組は鳥羽伏見の戦いで敗れてから、敗走を余儀なくされ、千葉県流山で近藤勇は捕らえられ、その時、新政府軍の陣があった中山道の板橋宿へと護送されます。

板橋宿

江戸名所図会より板橋驛
江戸名所図会より板橋驛(クリックで拡大)。

江戸から一つ目の中山道の宿場、板橋宿は、江戸から見て下宿(平尾宿)、中宿、上宿の三つの宿場町から成り立ち、近藤勇が二十日間幽閉されたのは平尾宿脇本陣。

板橋宿平尾脇本陣豊田家。碑が経つ建つだけです。
板橋宿平尾脇本陣豊田家跡。碑が建つだけです。
板橋宿平尾脇本陣豊田家
 豊田家は、板橋宿の問屋・脇本陣、平尾の名主を努めた家であり、代々市右衛門を名乗っていました。天正18年(1590)、徳川家康の関東入国に際し、三河国より移住してきたと伝えられています。苗字帯刀を許され、平尾の玄関と呼ばれていました。
 (中略)
 慶応4年(1868)4月、下総流山で新政府軍に捕らえられた近藤勇は、平尾一里塚付近で処刑されるまでの間、この豊田家に幽閉されていました。
 平成19年3月 板橋区教育委員会

近藤勇は「大久保大和」という変名を使い、難を逃れようとします。
指名手配写真など無い時代、新政府東山道軍の中に元新撰組隊士の加納鷲雄がいたため、正体が露見、簡単な裁判の後、即席で設けられた刑場の露と消えます。

近藤勇の首はすぐさま塩漬けにされ京に送られ、胴体は刑場近くの馬捨場と呼ばれる場所に捨てられます。それがここです。

馬捨場

新選組隊長近藤勇墓所

近藤勇宜昌・土方歳三義豊之墓

遺言により新選組永倉新八墓もここにあります。
遺言により新選組永倉新八墓もここにあります。

今でこそJR板橋駅東口駅前ですが、昔は宿場はずれの低い目立たない土地。

近藤勇墓所

地元ではここを馬捨場と呼んでいたようですが、またそれに加えて、行倒れの旅人、岡場所(板橋宿は品川宿、内藤新宿、千住宿と並んで幕府非公認の遊郭としても有名)の女郎、飯盛女なども簡単な供養ののちに捨てるように埋葬されたと云います。

無縁塔
無縁塔。

それを物語るかのように、永倉新八が元新撰組主治医松本良順の協力のもとに建立した「近藤勇宜昌・土方歳三義豊之墓」墓碑の脇には無縁仏供養塔が、人知れずひっそりと佇んでいます。

岡場所であった板橋には吉原同様、投げ込み寺として文殊院があり、遊女の墓なる史跡も存在し、悲しい歴史を想起させてくれます。

文殊院

遊女の墓
文殊院の遊女の墓。

板橋刑場は何処にあったのか?

即席で急遽作られた板橋刑場、近藤勇が処刑されたのはどこだったのでしょうか?

資料には平尾一里塚とあります。中仙道、日本橋から最初の一里塚は本郷、次が平尾宿、三番目が志村。

本郷には本郷追分一里塚跡の説明板があり、志村には緑濃い一里塚がそのままの形で残っています。

志村一里塚

志村一里塚
志村一里塚

志村一里塚は幅広い国道17号線の左右にあり、一部削られたのではないかと思われがちですが、昔から左右離れていたようです。

ところが平尾宿一里塚はというと、浮世絵には美しく描かれているにもかかわらずに、標柱すらありません。

平尾一里塚
平尾一里塚。

思うに板橋刑場として使われたのを嫌い、黒歴史は語らず。ということでしょうか?
調べたところ、ある特定の場所に辿り着きましたが、住人が不快に思うので語らない方が良いかもしれません。

都心では珍しいJR埼京線の踏切手前、日本橋からみて踏切の手前とだけ言っておきます。

板橋埼京線踏切

 

桜田神社

都心中の都心、沖田総司編

「沈黙 -サイレンス-」のモデル、ジュゼッペ・キアラの供養碑がなぜ此処に。

幕末の匂いが濃かった三百坂、伝通院で「清河八郎」のお墓を探している時に目にしたこの案内板。

伝通院墓地案内図

鎖国をしていた幕府直轄の、そして、家康公生母の菩提寺、葵の御紋が眩しい「伝通院」に?。

伝通院

なぜ、宣教師の、いわゆる「転びバテレン」のジョゼフ岡本三右衛門の供養碑があるのでしょうか。
驚きとともに理解できない不思議さを感じるのでした。

 「陽だまりの樹」の三百坂を参照

ジョゼフ岡本三右衛門の供養碑
宣教師ジョゼフ岡本三右衛門神父の供養碑。

ジュゼッペ・キアラ神父、岡本三右衛門の数奇な生涯

宣教師ジュゼッペ・キアラ、またはカウロ(日本名、岡本三右衛門)は、遠藤周作、狐狸庵先生の小説「沈黙」のモデルとされ、マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙 -サイレンス-」でも知られています。映画の中ではロドリゴ司祭、岡田三右衛門と呼ばれています。

ジュゼッペ・キアラ神父は、1602年、シチリア島生まれのイエズス会宣教師。寛永二十年(1643年)、筑前国で捕らえられます。

同年、江戸に護送され、一旦は伝馬町の牢屋敷に。その後、宗門改奉行の井上政重邸(神田一ツ橋辺り、地図参照)に預けられ、井上政重下屋敷改築後の小石川、切支丹屋敷に入牢させられます。

切支丹屋敷想像図
1600年代の切支丹屋敷想像図。

切支丹屋敷幽閉者第一号でした。

古地図:元禄年間(1688-1703年)江戸大絵図より、神田一ツ橋の井上政重邸と小石川の切支丹屋敷、切支丹奉行組。
古地図:元禄年間(1688-1703年)江戸大絵図より、神田一ツ橋の井上政重邸と小石川の切支丹屋敷切支丹奉行組Aは平川門、B竹橋と非常に江戸城に近い。C今の春日通り茗荷谷駅付近(クリックで拡大)。

ジュゼッペ・キアラ神父は、すでに転びバテレンとなっていたクリストヴァン・フェレイラ神父(日本名、沢野忠庵)が協力する幕府の吟味(一説には三代将軍家光公も直接吟味)と、想像を絶する拷問を受け、浄土宗に「転び」ます。

ちょうどその頃、伝馬町で斬罪となった「岡本三右衛門」という下級武士の姓名、扶持がそのまま与えらます。
さらに、斬罪となった伊豆国三崎西町の某という亭主の後家婦人を娶ることになります。

彼は、隠れキリシタンの吟味に協力し、比較的優遇されましたが、切支丹屋敷にいること三十九年。貞享二年(1685年)没し、伝通院の北、無量院に葬られます。
齢84歳の高齢だったと云われています。

この高齢のジュゼッペ・キアラ神父を切支丹屋敷で世話をしていたのが長助とその妻、はる。彼らは次の入牢者であるジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチ神父から洗礼を受けキリシタンとなります。

ジュゼッペ・キアラ神父が告白したキリシタンの伝道規律、キリスト教の真髄を述べた「宗門之書物」は、のちに新井白石が読み感動し、宣教師シドッチ神父を吟味する際、多いに参考にしたと云います。宝永六年(1709年)のことです。

文京区公認キリシタン坂の怪を参照

切支丹屋敷と宣教師シドッチ神父を参照

岡本三右衛門が葬られた無量院

古地図:嘉永七年(1854年)尾張屋刊江戸切絵図より伝通院裏(北側)の無量院(クリックで拡大)。

無量院は江戸の頃、大いに栄え、江戸名所図会にも紹介されています。

江戸名所図会より無量院
江戸名所図会より「祥雲寺と無量院」。古地図、江戸名所図会とも、今は暗渠の千川が描かれています(クリックで拡大)。

戒名入専浄眞信士伝通院の北に位置していた無量院は廃寺となり、昭和52年(1977年)地元有志の方々が、かつての無量院に近い伝通院に、本来の墓碑(戒名、入専浄眞信士)に似せた新しい供養碑を建立したようです。

岡本三右衛門供養碑

碑面には、イタリア大使による「安らかに眠りたまへ」の文字が刻まれています。

千姫の墓
千姫の墓

本当に無量院に近い伝通院境内北側となると「千姫の墓」の裏側になってしまうので、これではちょっとということで、西側の隅にあるのでしょうか。

だが、話はここで終わりません。

戒名「入専浄眞信士」のキアラ墓碑
戒名「入専浄眞信士」のキアラの墓碑。

ジュゼッペ・キアラ神父の生涯同様、本来の墓碑も数奇な道を歩いて行くことになります。

行方不明になった墓碑

無量院の墓地は開国後の明治初期、そこにあり、ジュゼッペ・キアラ神父の古い墓碑もそこにあったはずです。
明治42年(1909年)寺の都合か、陸軍の都合かで、墓地は雑司ヶ谷霊園に移されます。

左:明治9-17年(1876-84年)5千分の1右:東京図測量原図より明治41-42年1万分の1測図
左:明治9-17年(1876-84年)5千分の1右:東京図測量原図より明治41-42年1万分の1測図(クリックで拡大)。

そして、太平洋戦争のさなか、昭和18年(1943年)、墓碑は、雑司ヶ谷霊園から忽然と姿を消します。

無量院住職、竹中尭献(ぎょうゆう)氏が、四方八方行くえを探すと、その存在が確認されます。

なんと、カトリック信者二人が、目白警察署員立会いのもと、リヤカーに乗せ、教会へ避難させていたというのです。

双方、宗教者ということで和解が成立。今は調布市のカトリック教会サレジオ修道院の構内にあり、手厚く葬られています。

調布サレジオ修道院内の岡本三右衛門墓碑。
調布サレジオ修道院内の岡本三右衛門墓碑。宣教師の帽子の形をしています。

無量院は戦災で焼けてしまい廃寺となりますが、カトリックから浄土宗そしてまたカトリックへと「転び転び」し、大切にされています。元の鞘に収まった感のあるお話です。

それぞれの宗教については語る立場にありませんが、人間は宗教から少しばかり離れた方が良いのかもしれません。
〇〇教徒は入国拒否などという不条理なことが起きないように。

人を救うのは家族・友人はもちろん、iPS細胞だったり、介護ロボットだったりする社会がすぐそこまで来ています。

宇宙の始まりは、インフレーション、ビックバン、自然の法則に従っただけで、その時、神は必要だったのでしょうか?と、ホーキング博士は語りかけています。

宗教で救われることもあるでしょうが、宗教で争いが起きるのも事実です。
私たちは歴史から多くのことを学ばなければいけません。