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江戸人情噺「文七元結」の舞台を行く

お江戸の落語には実際の地名が数々登場します。
それらは無理なく配置され、そうすることにより臨場感が増し、作り噺ではありますが、あたかも実話であったかのような錯覚を覚えてしまいます。

泣ける人情噺として有名な「文七元結(もっとい)」もその一つです。

文七元結

本所達磨横丁(古地図Bに住む左官の長兵衛は大の博打好き。今日も細川のお屋敷(Aで中間たちが開く賭場で、すっからかんに負けて帰ってまいります。
家に帰ると女房はいるが、十八の娘「お久」がおりません。

古地図:嘉永五年(1852年)尾張屋刊本所絵図より細川のお屋敷(A)本所達磨横丁(B)は正式地名ではなく通称。古地図の番場町辺り、現在の本所1丁目。
古地図:嘉永五年(1852年)尾張屋刊本所絵図より細川のお屋敷(A)本所達磨横丁(B)は正式地名ではなく通称。古地図の番場町辺り、現在の本所1丁目(クリックで拡大)。
現在、細川能登守下屋敷跡に建つアサヒビールタワー。
現在、細川能登守下屋敷跡に建つアサヒビールタワー。
本所一丁目付近。アサヒビールタワーが見えます。
本所一丁目付近。アサヒビールタワーが見えます。

お久は借金がかさんだ家を助けるため、吉原、江戸町一丁目の大見世「佐野槌」に、五十両でその身を売ったのです。

古地図:嘉永六年(1853年)尾張屋刊今戸箕輪浅草絵図より吉原。青矢印が佐野槌があった辺り
古地図:嘉永六年(1853年)尾張屋刊今戸箕輪浅草絵図より吉原。青矢印が佐野槌があった辺り(クリックで拡大)。
嘉永元年(1848年)吉原細見より佐野槌
嘉永元年(1848年)吉原細見より「佐野槌」。

長兵衛が佐野槌を訪ねると、
佐野槌のお女将が、
お久は預かって女一通りの事は習わせてあげるけど、来年の大晦日を一日でも過ぎると見世に出して、客をとらせるよ
娘のお久が言うには、
そのお金で変な所に寄道しないで、お母さんに親切にしてよ
お女将に、
おまいさんは腕はいいんだから一生懸命働くんだよ
と念を押されます。

吾妻橋で身投げする男

長兵衛は五十両を受け取り、吉原大門を出て衣紋坂日本堤を歩いて花川戸から吾妻橋までくると、若い男が身を投げようとしていますщ(゚Д゚щ)。

吉原大門交差点。左が見返り柳。
吉原大門交差点。左が見返り柳。手前の土手通りに「日本堤」と云う土手があった。
嘉永元年(1848年)吉原細見より
嘉永元年(1848年)吉原細見より吉原大門、見返り柳、衣紋坂、日本堤。
古地図:嘉永六年(1853年)尾張屋刊今戸箕輪浅草絵図より長兵衛が歩いたルート。
古地図:嘉永六年(1853年)尾張屋刊今戸箕輪浅草絵図より長兵衛が歩いたルート。吉原から吾妻橋(別名大川橋と表記)。
浅草雷門方面から吾妻橋を望む。写真左側が花川戸。
浅草雷門方面から吾妻橋を望む。写真左側が花川戸。
吾妻橋
吾妻橋。

橋の欄干に手をかけ、今にも飛び込もうとする男に、

こんちきしょ、待ちやがれ、危ねえじゃねえか!
助けると思ってその手を放してください
欄干から手を離せ!バチン」と殴る長兵衛
なっなんで打つんですかっ、怪我するぢゃありませんかっ

わけを聞くと日本橋横山町のべっ甲問屋「近江屋」の「文七」というもので、小梅の水戸様から集金した金を枕橋ですられてしまったのだと言います。

古地図:嘉永五年(1852年)尾張屋刊本所絵図より文七が歩いたルート。
古地図:嘉永五年(1852年)尾張屋刊本所絵図より文七が歩いたルート。水戸下屋敷(小梅の水戸様)、枕橋、吾妻橋。
現在、隅田公園の水戸下屋敷(小梅の水戸様)。
現在、隅田公園の水戸下屋敷(小梅の水戸様)。
枕橋と枕橋にあるレリーフ。
枕橋と枕橋にあるレリーフ。
隅田川八景枕はし夜雨
歌川広重「隅田川八景枕はし夜雨」

で、いくらすられたんだい?
五十両でございます
死んだって金は戻らねえだろ、でもぉもうちょっと負からねえか?
分かりました、行くぞおっ
こらっ待てえ!飛び込むな! 五十両ここにあるから持ってけぇ!

俺はつくづく金に縁のない男だと長兵衛は思い、文七の命を助けるためにと、娘は命までは取られねえだろうと、大切な五十両を投げつけるようにくれてやります。

ところが文七が近江屋に戻ると、五十両はすでに小梅の水戸様から届いていました。すられたのではなく、お屋敷に置き忘れていたのです。

酒と肴

翌日、文七と日本橋横山町「近江屋」の主人は、達磨横丁の長兵衛の家を訪れます。

横山町
日本橋横山町

長兵衛の家では

あんたっ、どうしたんだよ、その金をさあ、どこで何したんだいっ
身投げを助けたんだって言ってるだろうが
あんたは身投げを助るふうではないよ、身投げを放り込む方だよ、たくっ

と女房と喧嘩の真っ最中。文七と近江屋の主人が現れたので、

どうでえ、ざまあみろ、証人が来た」と長兵衛。

角樽
角樽

近江屋主人は五十両を返し、長兵衛の心意気に感心したので、文七の親代わりになって、近江屋と親戚づきあいをしてほしいと言います。

この話がまとまり、めでたいので酒と肴をと、主人は角樽を差し出します。
長兵衛は肴はいらねえと、やせ我慢しますが、現れた肴を見るとそれは着飾った娘。近江屋が佐野槌から身請けした我が娘のお久です。

これ以上の肴はねえと、長兵衛一家は涙を流して喜びます。

これが縁で文七とお久は麹町六丁目に小間物屋を開き、後年「文七元結」を創り、たいそう繁盛したと云う一席でございます。

めでたしめでたし。

麹町。
千代田区麹町。
元結
元結

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都心の新撰組(近藤勇編)

新宿区の外苑東通りの焼餅坂、市谷柳町交差点。
ここは一昔前まで渋滞のメッカで、光化学スモッグ多発地帯という、なんとも懐かしい公害の汚名が出てきます。渋滞緩和のため、一部、信号を取り除くという暴挙に出た場所です。

牛込柳町交差点
牛込柳町交差点。

外苑東通りは未だに片側二車線工事をしていて、片側一車線のところは渋滞します。

焼餅坂坂上より
焼餅坂坂上より。

焼餅坂という名は団子坂同様、付近に餅屋があったからという他愛のない命名です。
川柳にも「向かい合ひ 焼餅坂の 女房たち」と云うのがあり、そこはかとなく込み上げてくる滑稽な名です。

古地図を見ると今よりも、短く、急坂だったことがわかります。

古地図:安政四年(1857年)改 尾張屋刊江戸切絵図より焼餅坂
古地図:安政四年(1857年)改 尾張屋刊江戸切絵図より焼餅坂(赤矢印)。

近代になって、自動車・都電用の道にするため、真っ直ぐに、緩やかに、そして長くしています。

左:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図、右:古地図:昭和30-35年(1955-60年)1万分の1地形図
左:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図(青矢印が焼餅坂)、右:古地図:昭和30-35年(1955-60年)1万分の1地形図(クリックで拡大)。

この焼餅坂坂上近くに「試衛館」跡という史跡があります。

試衛館道場

奥には三百年以上前からあったという正八幡神社があり、良い雰囲気を醸し出していますが、寂しく試衛館跡の説明柱が立つのみ。

正八幡神社
試衛館跡の正八幡神社。

「試衛館」跡

この場所は江戸切絵図(青矢印)にあるようにかつての市谷甲良屋敷内で、その一角を借り、近藤勇の養父であり、天然理心流三代目宗家近藤周助が道場を開いていた場所というのが定説です。

一方、新撰組(新選組)生き残りの永倉新八は、北海道小樽新聞に掲載された回想録「新撰組永倉新八」の中で道場は小石川柳町の坂上と言っています(*’д’*)。

小石川柳町
小石川柳町商店街。

この記事は高齢の永倉新八をインタビューしたもので、高齢のための勘違いか、聞き手の聞き違い、勘違いからです。

近藤周助の文章の中に「江戸甲良屋敷西門近藤周助」とあり、甲良屋敷が試衛館跡で間違いないのですが。ではなぜ(?_?)

なぜ勘違いしたのか?

高齢のせいもあるのですが、小石川柳町から善光寺坂を経て、澤蔵司稲荷、伝統院を過ぎるとすぐ、処静院(しょじょういん)があったから勘違いしたのかもしれません。

浪士隊結成の地・処静院

処静院は新撰組の前身である浪士隊結成の地。処静院住職の琳瑞(りんずい)は浪士隊取締役の山岡鉄太郎(鉄舟)とは志を同じする懇意の仲で、浪士隊結成の趣旨に賛同し境内を貸します。

処静院は廃寺となり、この通りの奥が処静院のあった場所です。
処静院は廃寺となり、伝通院前のこの通りの奥が処静院のあった場所です。
江戸名所図会より処静院
江戸名所図会より処静院(赤矢印)クリックで拡大。
不許葷酒入門内
処静院の門前にあった「不許葷酒入門内」の碑。

文久三年(1863年)二月、清川八郎は上洛する十四代将軍家茂護衛のための浪士隊員を広く募集します。
その際、処静院に集結したのが近藤勇、永倉新八、山南敬助、沖田総司、藤堂平助、井上源三郎、水戸藩浪士の芹川鴨ら234名の面々。

彼らは将軍警護のため京へのぼり、攘夷を優先させ江戸に帰る清川一党と袂を分かち、京へ留まり、その後の活躍はご存知の通り。

浪士隊結成数ヶ月後、清川八郎は麻布一の橋で、四年後、処静院住職の琳瑞は三百坂で暗殺されてしまいます。

幕末は足早に過ぎていきます。

「陽だまりの樹」の三百坂を参照

千代田区九段、青木(モチノキ)坂下の新徴組屯所跡の碑。
千代田区九段、冬青木(モチノキ)坂下の新徴組屯所跡の碑。

清川とともに江戸に帰った浪士組は思想の柱を失い、庄内藩お預かりの新徴組と名乗り、江戸市中の警備にあたることになります。新徴組は日々、江戸市中を巡回、「お巡りさん」の語源になったと云われています。

新撰組は鳥羽伏見の戦いで敗れてから、敗走を余儀なくされ、千葉県流山で近藤勇は捕らえられ、その時、新政府軍の陣があった中山道の板橋宿へと護送されます。

板橋宿

江戸名所図会より板橋驛
江戸名所図会より板橋驛(クリックで拡大)。

江戸から一つ目の中山道の宿場、板橋宿は、江戸から見て下宿(平尾宿)、中宿、上宿の三つの宿場町から成り立ち、近藤勇が二十日間幽閉されたのは平尾宿脇本陣。

板橋宿平尾脇本陣豊田家。碑が経つ建つだけです。
板橋宿平尾脇本陣豊田家跡。碑が建つだけです。
板橋宿平尾脇本陣豊田家
 豊田家は、板橋宿の問屋・脇本陣、平尾の名主を努めた家であり、代々市右衛門を名乗っていました。天正18年(1590)、徳川家康の関東入国に際し、三河国より移住してきたと伝えられています。苗字帯刀を許され、平尾の玄関と呼ばれていました。
 (中略)
 慶応4年(1868)4月、下総流山で新政府軍に捕らえられた近藤勇は、平尾一里塚付近で処刑されるまでの間、この豊田家に幽閉されていました。
 平成19年3月 板橋区教育委員会

近藤勇は「大久保大和」という変名を使い、難を逃れようとします。
指名手配写真など無い時代、新政府東山道軍の中に元新撰組隊士の加納鷲雄がいたため、正体が露見、簡単な裁判の後、即席で設けられた刑場の露と消えます。

近藤勇の首はすぐさま塩漬けにされ京に送られ、胴体は刑場近くの馬捨場と呼ばれる場所に捨てられます。それがここです。

馬捨場

新選組隊長近藤勇墓所

近藤勇宜昌・土方歳三義豊之墓

遺言により新選組永倉新八墓もここにあります。
遺言により新選組永倉新八墓もここにあります。

今でこそJR板橋駅東口駅前ですが、昔は宿場はずれの低い目立たない土地。

近藤勇墓所

地元ではここを馬捨場と呼んでいたようですが、またそれに加えて、行倒れの旅人、岡場所(板橋宿は品川宿、内藤新宿、千住宿と並んで幕府非公認の遊郭としても有名)の女郎、飯盛女なども簡単な供養ののちに捨てるように埋葬されたと云います。

無縁塔
無縁塔。

それを物語るかのように、永倉新八が元新撰組主治医松本良順の協力のもとに建立した「近藤勇宜昌・土方歳三義豊之墓」墓碑の脇には無縁仏供養塔が、人知れずひっそりと佇んでいます。

岡場所であった板橋には吉原同様、投げ込み寺として文殊院があり、遊女の墓なる史跡も存在し、悲しい歴史を想起させてくれます。

文殊院

遊女の墓
文殊院の遊女の墓。

板橋刑場は何処にあったのか?

即席で急遽作られた板橋刑場、近藤勇が処刑されたのはどこだったのでしょうか?

資料には平尾一里塚とあります。中仙道、日本橋から最初の一里塚は本郷、次が平尾宿、三番目が志村。

本郷には本郷追分一里塚跡の説明板があり、志村には緑濃い一里塚がそのままの形で残っています。

志村一里塚

志村一里塚
志村一里塚

志村一里塚は幅広い国道17号線の左右にあり、一部削られたのではないかと思われがちですが、昔から左右離れていたようです。

ところが平尾宿一里塚はというと、浮世絵には美しく描かれているにもかかわらずに、標柱すらありません。

平尾一里塚
平尾一里塚。

思うに板橋刑場として使われたのを嫌い、黒歴史は語らず。ということでしょうか?
調べたところ、ある特定の場所に辿り着きましたが、住人が不快に思うので語らない方が良いかもしれません。

都心では珍しいJR埼京線の踏切手前、日本橋からみて踏切の手前とだけ言っておきます。

板橋埼京線踏切

 

桜田神社

都心中の都心、沖田総司編

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