「文豪の坂道」タグアーカイブ

漱石先生の御殿坂と時の鐘


小石川植物園の脇を北へと登る坂です。小石川植物園は江戸時代、「赤ひげ」で有名な御薬園、小石川療養所があったところで、それ以前は五代将軍綱吉公の徳川館林藩の御殿があったので「御殿坂」と呼ばれています。
新宿区にも御殿坂がありますが、そちらは四代将軍家綱公のものです。

江戸切絵図(東都小石川絵図)にも「コテンサカ」とあり(右上)、御殿が御薬園になっても御殿坂と呼ばれていたようです。

嘉永七年1854年尾張屋刊江戸切絵図「東都小石川絵図」より
嘉永七年1854年尾張屋刊江戸切絵図「東都小石川絵図」より(クリックで拡大)。

ひと昔前は狭くて古い佇まいの坂道だったと記憶してますが、植物園側に拡張、歩道も整備され、落ち着いた静かな坂道になっています。

御殿坂

歴史ある古い坂道で話題が尽きないのですが、坂下近くに、夏目漱石先生が若い頃、下宿した新福寺というお寺があります。

漱石先生の下宿先

新福寺
新福寺

漱石先生の若い頃、明治17年(1884年)、東京大学予備門合格を目指して、新福寺の二階に、友人、橋本左五郎氏(ニックネームは左五)といっしょに自炊しながら下宿しています。
後年、漱石先生は左五のエピソードを語っています。

東京大学予備門入学試験で、代数が難しく途方に暮れていたら、隣席の左五がそっと教えてくれて、お陰でやっと入学した。

えっ!漱石先生、それって不正行為じゃないっすか?
しかも漱石先生は合格したのですが、左五は落ちて「東大なぞくだらない」と言い、札幌農学校へ入学、畜産学者として大成しています。

裏から見た新福寺のレトロな光景。窓から漱石青年が顔を出しそうな気がします。
裏から見た新福寺のレトロな光景。窓から漱石青年が顔を出しそうな気がします。

また、この新福寺では「時の鐘」を鳴らしていたらしく、漱石先生は、小説「琴のそら音」に時の鐘のことを書いています。

盲唖学校の前から植物園の横をだらだらと下りた時、どこで撞く鐘だか夜の中に波を描いて、静かな空をうねりながら来る。十一時だなと思う。時の鐘は誰が発明したものか知らん。今までは気がつかなかったが注意して聴いて見ると妙な響である。…(略)…しまいには鐘の音にわが呼吸を合せたくなる。今夜はどうしても法学士らしくないと、足早に交番の角を曲るとき、冷たい風に誘われてポツリと大粒の雨が顔にあたる。
新福寺の時の鐘
新福寺の時の鐘

小説の中では法学士の主人公は白山御殿町に住んでいる設定で、植物園の横の御殿坂を下りる途中で時の鐘を聴き、交番の角を曲がり、、、

明治末の御殿坂

Aが新福寺、Bが御殿坂、植物園の前に交番(青矢印)があります。
植物園の角はずいぶん余裕のスペースだなと思っていたのですが、交番があったのです。

小説「琴のそら音」は明治38年(1905年)の作品。若い頃の思い出の地を懐かしく思い、散歩して書いたのでしょう。
しかしながら、明治末まで時の鐘は鳴っていたとは、庶民にとって時計はまだまだ高価だったということです。

時の鐘は有料だった?

新福寺には寛文年間(1660年代)の「鐘撞料割付覚」という時の鐘の徴収料明細が残っています。
館林様は年間銀30枚、水戸様は年間銀25枚。その他、近隣の大名屋敷が続きます。
(銀一枚で161グラム、相場にもよりますが銀一枚=約10000円と私は計算し想像しましたが、当時の物価はどのくらいだったのでしょうか?)

基本的に石高によって徴収料が決まったようです。
館林様とは今の小石川植物園の位置で、よく聞こえるし、納得。
館林様より石高の高い水戸様のほうが安いって(?_?)。。。

水戸様は後楽園の位置ですから、直線距離にして約2キロ。
鐘の音は聞こえたのかな?
それだけお江戸は騒音が無く静かだったということ?
少し聴きづらいのでオマケして25枚ってことなのでしょうか。
時の鐘はサービスで鳴らしているわけではないということがわかる資料です。
「君、聞いたよねぇ鐘、、、金出せ」 ってぇ、なんか脅されているような気がしないでもないです (≧∇≦)。

鐘撞料割付覚

一般の民家からも徴収したらしく、月に三文(約30円か?)と言っている資料もあります。
ここから「早起きは三文の得」って言われるようになったのかと妄想してしまいます。
鐘の音で早起きしたのだから、「三文」分、稼がなきゃならんということでしょうか?

花の雲 鐘は上野か 浅草か

芭蕉が詠んだこの句は時の鐘のことで、ほんわかと、お江戸の音風物詩が聞こえてきます。

御殿坂説明板

「御殿坂は戸崎町より白山の方へのぼる坂なり。この上に白山御殿ありし故にこの名遺れり、むかしは大坂といひしや」『改撰江戸志』
 「享保の頃、此坂の向ふに富士峰能く見えし故に、富士見坂ともいえり」『江戸志』
白山御殿は、五代将軍徳川綱吉が将軍就任以前、館林候時代の屋敷で、もと白山神社の跡であったので、白山御殿といわれ、また地名をとり小石川御殿ともいわれた。
綱吉の将軍職就任後、御殿跡は江戸幕府の薬園となった。享保七年(1722)園内に”赤ひげ”で有名な小石川養生所が設けられた。また同20年には、青木昆陽が甘藷の試作をした。
明治になってからは東京大学の付属植物園となった。

植物園の松の花さへさくものを
離れてひとり棲むよみやこに  若山牧水(1885-1928)

文京区教育委員会
昭和58年6月

ここでまた疑問が、、、
若山牧水先生が小石川植物園を詠んでいるので、調べると、、、
文京区には12年間、6箇所に住んでいます。
引越しが多い!しかも近くに(*’д’*)。

明治38年4月:小石川豊川町3番地(現・目白台2-9-8)
明治44年1月:本郷3丁目18番地(現・本郷2-39-7辺) 東雲館
明治45年4月:小石川大塚町25番地(現・大塚2-18-8)
大正2年6月:大塚窪町20番地(現・大塚3-14-4)
大正5年7月:本郷天神町1丁目29番地(現・湯島2-24-11)富士館
大正5年12月:小石川金富町53番地(現・春日2-19-12)

小石川で石川啄木先生が亡くなっていて、牧水先生は彼の最後を看取っています。啄木先生は明治45年に亡くなっているので、その頃、牧水先生は近くの大塚2丁目に住んでいたことになります。
大酒飲みで豪快な牧水先生が啄木先生の親友だったとは少し驚きました。

石川啄木終焉の地。マンションの壁にプレートがあるだけです。
石川啄木終焉の地。マンションの壁にプレートがあるだけでした。

石川啄木終焉の地説明板

【朗報】石川啄木顕彰室ができました!

石川啄木終焉の地は、プレートだけで寂しすぎるとあちこちで評判だったのですが、この度(2015年3月)、終焉の地のすぐ隣に、石碑と石川啄木顕彰室が新設されました。
FBグループの方と区議会議員さんに教えていただき、行ってきました。

石川啄木最後の二首の石碑

最期の歌二首の陶板が嵌め込まれた立派な石碑です。啄木先生の故郷、岩手の石「姫神小桜石」を使っています。渋民村に建てた第一号歌碑と同じ石だそうです。

石川啄木顕彰室

石川啄木手書き原稿レプリカ

相馬屋製の原稿用紙って、漱石先生も使ってた、あの神楽坂の文房具屋さんの相馬屋です。何かの計算も書いてあります。
手書き原稿のレプリカですが、この地で読むとジーンと泣けてきました。
啄木先生ファンの方は、ぜひ、訪れることをお勧めします。

文京区さん、よくやってくれました。
あのプレートだけの寂寥感から解放されました。
ありがとうございます!

ずいぶんと話題が飛躍してしまった感がありますが、それだけ文京区には歴史があるということです。


江戸川乱歩「D坂の殺人事件」の団子坂


団子坂エリアは菊坂と同じく文豪の香りが漂うエリア。明治の頃は菊人形興行で栄えたといいますが、江戸時代はというと、、、

嘉永六年(1853年)「小石川谷中 本郷絵図」(団子坂)
嘉永六年(1853年)江戸切絵図「小石川谷中 本郷絵図」

上のほうに「ダンコサカ」とあり、都市の郊外、耕作地といったところでしょうか。

団子坂説明板

時代とともに、住宅地へと変貌し、多くの文豪(鴎外先生、漱石先生、光太郎先生などなど)が住み、物語に団子坂を登場させています。
その中で江戸川乱歩先生にスポットをあててみます。

短編推理小説「D坂の殺人事件」の検証

D坂とは団子坂のこと。乱歩先生は大正時代、団子坂で三人書房という古本屋を営んでいました。団子坂を舞台にした「D坂の殺人事件」をここで物しています。

その三人書房の跡地はというと、、、

三人書房の跡地と乱歩先生の描いた三人書房
三人書房の跡地と乱歩先生の描いた三人書房

今はパーキングになってるし、これは団子坂というより、団子坂上近くの平地です。
D坂の殺人現場である古本屋は蕎麦屋、足袋屋、古本屋、時計屋、お菓子屋の5軒並びの真ん中。

てっきり殺人現場の古本屋は三人書房の場所がモデルかと思ったら、隣は道です。

大正期の地図でみると、、、

三人書房の位置(大正5-10年 陸地測量部2万5千分の1地形図
三人書房の位置(大正5-10年 陸地測量部2万5千分の1地形図

やはり、隣は道、しかもトイメンはお寺です。

これは小説なので妄想の街並みです。
推理小説なので街もトリック用に作り変えなきゃ話が構築できません。

小説の中のD坂の描写はというと、、、

以前菊人形の名所だった所で、狭かった通りが市区改正で取拡げられ…
明治末の地図と大正の地図
明治末の地図と大正の地図

確かに広くなってます。明治の狭い道の頃はこんな感じ、、、

新撰東京名所図会(明治40年)団子坂菊人形興行
新撰東京名所図会(明治40年)団子坂菊人形興行

これは狭い!道幅5メートルだったらしく、両脇からの幟(ノボリ)を見ると太閤記、弁慶五条の橋、八犬伝とオモロそう。

古写真:菊人形(高田の馬場の決闘)
古写真:菊人形(高田の馬場の決闘)
古写真:明治37年頃の団子坂
古写真:明治37年頃の団子坂

このくらいの狭さが見物にはちょうど良いかと思われます。
漱石先生の「三四郎」ではヒロインがこの雑踏で気分が悪くなっています。

「D坂の殺人事件」は、大正時代のお話。
菊人形も衰退し、道も広くなり、、、

主人公「私」と明智小五郎は「白梅軒」というカフェで冷しコーヒー(笑)をすすっています。

D坂の向かいの古本屋をボォーと眺めているのですが、異常を察知した二人は古本屋のおかみさんが殺されているのを発見!「私」はおかみさんの幼なじみで第一発見者である明智小五郎を犯人ではないかと疑うのですが、、、

髪の毛ボサボサの明智小五郎が初めて登場した記念すべき作品です。小説の中で古本屋並びのお店が証言を述べていますが、密室殺人の匂いが。。。

蕎麦屋旭屋、足袋屋、古本屋(殺人現場)、時計屋、お菓子屋の並びになっていて、それぞれのお店は裏口を出ると路地で繋がっている。そして路地にはアイスクリーム屋の設定。

真新しいマンションも建ち並び、当時とはまるで変わっていますが、何かこのあたりで作品の痕跡はないかと探すと、、、

巴屋
巴屋

団子坂上の通りで創業天保元年のお蕎麦屋さんを発見!
この歴史あるお蕎麦屋さんなら、都電を降りて三人書房へ帰る途中に乱歩先生は立ち寄っていたのかもしれません。。。
と、思いきや、暖簾分けでこの地に来たのは昭和5年。
こりゃ、あかん(; ̄◇ ̄)

喫茶店「乱歩」
喫茶店「乱歩」

不忍通りを挟んで団子坂の反対にある三崎坂途中の喫茶店「乱歩」。
散歩、D坂より308歩って、なんでも乱歩の歩がついてます。店主が乱歩ファンらしい。

菊見せんべい
菊見せんべい

おっ、これはレトロな店構えのおせんべえ屋さん。
創業明治8年、菊人形見物のお土産用におせんべいを売っていたそうです。これも三崎坂です。

時代も違うし、事件現場検証は難しいですね。
地図で気になるものを探索してみます。

明治末の地図と大正の地図
明治末の地図と大正の地図

明治、大正とも上のほうに池が描かれています。行ってみると今も公園に池がありました。

文京区HPによると、、、

須藤公園は、江戸時代の加賀藩の支藩の大聖寺藩(十万石)の屋敷跡。その後、長州出身の政治家品川弥二郎の邸宅となり、明治22年(1889年)に実業家須藤吉左衛門が買い取りました。昭和8年(1933年)に須藤家が公園用地として東京市に寄付、昭和25年(1950年)に文京区に移管されました。
須藤公園
須藤公園。カッパに注意!の看板がオモロ。

大名屋敷跡の公園には滝まであって都会に渓流が存在してます。山に行きたくなってしまいますね。

滝(須藤の滝)
滝(須藤の滝)

HPによると、滝は午前10時から午後4時まで流れているとのこと。
自然の滝ではなかったのか、囧rz
そりゃそうです、源流が無いもの。

江戸期の団子坂

「D坂の殺人事件」の現場検証はうまくいきませんでしたが、気を取り戻してお江戸の団子坂をみてみましょう。

嘉永七年(1854年)安政四丁巳年 (1857年)改 尾張屋刊 江戸切絵図「東都駒込邉絵図」
嘉永七年(1854年)安政四丁巳年 (1857年)改 尾張屋刊 江戸切絵図「東都駒込邉絵図」

この古地図ではAが団子坂ですが、坂下に「シオミサカダニ」と表記があり、「潮見坂」とも呼ばれたいたことが伺えます。
海が見えていたので、坂上の鴎外先生旧居のネーミングが「観潮楼」(現森鴎外記念館)なのも納得できます。

やたらと「御林」「植木屋多シ」の文字が多く、お江戸の郊外という雰囲気が漂います。

しかも気になるのが「四季花屋敷 紫泉亭 眺望好シ」の表記。

名所江戸百景 団子坂花屋敷 安政三年(1856年)歌川広重画
名所江戸百景 団子坂花屋敷 安政三年(1856年)歌川広重画

紫泉亭については斎藤月岑の「武功年表」にあり、

四時の花を栽盆の如く育て、崖の辺りに茶亭を設け眺望良し、諸人遊覧の所となって日毎に群衆する者多し。

団子坂花屋敷は嘉永五年(1852年)開園といい、観光リゾート地として発展途上だったようです。その勢いが、植木職人の多いこの地の団子坂菊人形に繋がるのですね。

花屋敷といえば、今では浅草ですが、浅草花屋敷、両国国技館で電気仕掛けの菊人形興行がはじまり、団子坂のそれは徐々に人気を失っていったといいます。

団子坂花屋敷はのちに一区画が、元祖「藪蕎麦」に生まれ変わり盛り返しますが、明治期、そばでつくった財産で、相場に手を出し失敗!姿を消したようです。
神田藪そばの本家が団子坂だったなんて知らなかったです。

光源寺大観音

「東都駒込邉絵図」でもう一つ、B地点の「光源寺大観音」の表記。元禄十年(1697年)造立の御丈約5mの十一面観音像。惜しいことに空襲で焼失してしまいましたが、平成5年にもっと大きく御丈6m余の御像として再建されています。こりゃ、ピカピカで立派です!

興味深い団子坂エリア、まだまだ探索不十分です。「D坂の殺人事件」の現場検証はうまくいかなかったけれど、漱石先生、鴎外先生のエピソードも探索中です。