「幕末・明治維新」カテゴリーアーカイブ

目白坂、目白不動と幕末の関口水車、関口大砲製作所

江戸切絵図を見ると、神田川と目白坂の間に、この目白地区の名の由来になった「新長谷寺別当目白不動」があります。

新長谷寺は戦災で焼け、廃寺となり、目白不動尊は豊島区の宿坂の金乗院にお引越しなされています。

古地図:安政四年(1857年)改 尾張屋刊江戸切絵図より
安政四年(1857年)改 尾張屋刊江戸切絵図より。赤矢印に目白坂。青矢印に新長谷寺別当目白不動。

江戸名所図絵では、目白不動の伽藍とともに、目白坂が描かれています。

江戸名所図絵より目白不動堂
目白不動堂(江戸名所図絵より)クリックで拡大

料理屋、茶屋はあるものの、市ヶ谷亀ヶ岡八幡牛天神にあったような芝居小屋、楊弓場などのプレイスポットがなく、なんとなく上品な雰囲気。

なぜかというと、目白不動は三代将軍家光公の庇護を受けてからというもの、他の寺社に比べ、別格だったようです。

資料によると境内の立て札には

第一 境内に於いて鳥獣及細虫の類を害すべからず
第二 樹木を折取及び地を掘るべからず
第三 塵埃洟唾を以て寺中の浄地を 汚すべからず
第四 酒肉五辛を携帯して入るべからず
第五 日没後女入るべからす
第六 寺中に於いて吸煙を薫ずべからず
第七 歌舞戯謔及囲碁相撲を為すべからず

獣、鳥、虫さえ採ってはいけない。木を折るな。土を掘るな。ゴミを捨てるな。鼻水出すな。唾吐くな。酒、つまみ、持ち込み禁止。日が暮れたらデートするな。禁煙。見せ物・囲碁・相撲興行禁止。。。と手厳しい。

寺社はお江戸のプレイスポットだったという私の持論からすると、なんとも拍子抜けです。

ドンチャン騒ぎをしたいなら、近くの桜木町へ(大日坂の項参照)ということなのかもしれません。

このあたりは、清潔で、風光明媚な場所だったのです。この地ゆかりの松尾芭蕉が句を詠んでいます。(胸突坂と神田川の項参照)

五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋  芭蕉

橋の架かる神田川が流れ、向こうには早稲田田圃が広がっていたのは確かです。

眺めが近江の瀬田にある義仲寺に似ていたので、ここを見立てて詠んでいます。

そのような景観に恵まれて、目白不動は、心安らかに、祈りを捧げる癒しの空間だったと思われます。

目白の時の鐘また、門を入って右側に、「鐘樓」があります。
これは、時刻を告げる時の鐘「目白の鐘」として親しまれていました。

新長谷寺目白不動堂(明治東京名所図絵より)
新長谷寺目白不動堂(明治東京名所図絵より)

目白下大洗堰切絵図には、神田上水(お江戸の飲料水用水道設備)の堰を確認できます。
お江戸の最新テクノロジーとして江戸名所図絵にも描かれています。

江戸名所図絵より目白下大洗堰
目白下大洗堰。(江戸名所図絵より)クリックで拡大
大滝橋
大滝橋

神田上水が暗渠となった後も大洗堰は存在し、昭和12年(1937年)、江戸川(大洗堰からお堀までの神田川を特に江戸川と呼ぶ)の改修の際に取り壊され、かつて堰があった跡には大滝橋が架けられています。

今も江戸川公園に大洗堰の遺構を見ることができます。

この堰はこの辺りの地名「関口」の由来となっています。

神田上水取水口
今は江戸川公園内にある神田上水取水口遺構。
古写真:大正8年(1919年)の目白下大洗堰。
大正8年(1919年)の目白下大洗堰。

軍事用の水車があった?

あまり知られていない話ですが、関口には元禄13年(1700年)から水車がありました。神田上水から掛樋(木製パイプのようなもの)で水を引き水車へ落とし神田川に流す構造です。

鈴木春信画(続絵本江戸土産より)
鈴木春信画「関口村」(続絵本江戸土産より)赤矢印が掛樋。一段上の神田上水から水を引いています。

最初は米つき、製粉に使われていましたが、幕末には水力で大砲の砲身を穿つ(砲身の穴を開ける)ために使われていたことがあります。経緯はというと、、、

幕末、慌てる幕府

古地図:湯島大小砲鋳立場
幕末の切絵図では「御鉄砲鋳場」とあるが、万延2年(1861年)、組織改正で「湯島大小砲鋳立場」となります。

湯島聖堂の西隣りは始め「桜の馬場」という馬術練習場でした。

嘉永6年(1853年)、ペリーが来航してからというもの、幕府は危機を感じ、ここに「湯島大小砲鋳立場」を建て、本格的に大砲の生産に乗り出します。

青銅製の大砲の銃身を穿つ作業を外注していたのですが、キリを使い人力で正確に大砲の穴を開けてゆくなど、到底無理な話。
粗悪品の山を抱える結果となります。

そこで幕府自前で、水力(水車)を使ってキリで穴を開けることを考えます。お堀の水運を使って砲身を運べる水車といえば、神田川の関口だったのです。

フランス式山砲
フランス式山砲

文久2年(1862年)、幕臣、小栗上野介が中心となり、関口水道町に「大砲錐入り場」が開設されます。

しかし、この頃すでに欧米では、青銅製の大砲から、最新の高性能な鉄製へと主流が移ります。

元治元年(1864年)、幕府は滝野川に反射炉を作り鉄製大砲の製作へと方針変換。全く忙しい慌てぶりです。

関口の大砲製作所は割と短い年月でその役目を終えています。 関口で作られた大砲は「フランス式山砲」40門、「カノン砲」28門。「山砲」は影義隊の戦い(慶応4年1868年)で使用されたと云います。

関口大砲製作所辺り
治水工事がなされ、川幅も広がりましたが、この辺りに関口大砲製作所があったと思われます。

のどかな水車

その後、関口の水車は元の農業用へと。のどかな光景を取り戻します。

伊藤晴雨画「関口水車」(明治末頃)
伊藤晴雨画「関口水車」(明治末頃)

写真が趣味だった最後の将軍慶喜公は、明治36年から小日向新坂脇に、屋敷を構えていたので、関口までは歩いて10分足らず。
関口の風景を写真に収めています。

古写真:慶喜公が撮った関口。
古写真:慶喜公が撮った関口。赤矢印が掛樋。(明治末)

竹久夢二の最初の奥さん「岸たまき」は、関口近くの早稲田鶴巻町で絵葉書屋「つるや」を営んでいました。夢二は彼女の元へ足しげく通っていたので、この辺りは周知の場所。
この水車も描いています。

竹久夢二画「BROKENMILL AND BROKEN HEART」
竹久夢二画「BROKENMILL AND BROKEN HEART」

明治41年8月の台風で壊れた水車と壊れたハート?。ナイーブすぎます、夢二先生。

目白坂を登る

古地図:目白坂の寺社お江戸の坂道らしく、クネクネ曲がり、だんだんとキツくなってゆく目白坂。

坂道ダッシュには最適ですが、今でも江戸切絵図と同じ並びで、寺社が多くあり、寄り道してしまいます。

旧町名「関口駒井町」の案内板もあります。

目白坂入口
目白坂入口

旧関口駒井町案内板

旧関口駒井町
古くは、関口村の畑池であった。宝永元年(1704年)町家を設け、元文2年(1737年)ころ町奉行支配となった。
町名の由来は明らかではないが、「若葉梢」に次の記事がある。駒止橋(現・駒塚橋)の項目に、丸太橋であったころ、この上四ツ谷の南土手に馬多く宿して、駒込の馬市に出していた。目白不動の門前駒井町にも駒店(馬を売る)があった。
駒店があり、駒がいるから駒居ー駒井の町名が生まれたのであろう。
明治4年、新長谷寺門前、大泉寺門前および武家地を合併した。目白坂上に新長谷寺があった。「時の鐘」として有名であったが、戦災にあい廃寺となった。

坂を登ると、最初にみえてくるのが大泉寺(1600年創建)。

大泉寺
大泉寺

大泉寺のお隣が永泉寺(1634年開山)。太宰治の心中相手といわれる「山崎富栄」の墓があります。

永泉寺
永泉寺

次は、少し奥まったところに養国寺(1624年創建、1610年とも)。

養国寺
養国寺

最後は、正八幡神社(創建年不明、1606年、1611年とも)。

正八幡神社
正八幡神社

正八幡神社関口八幡宮とも呼ばれ、江戸名所図絵にも描かれています。
鳥居をくぐり、階段を登り、本殿が見えてきます。
昔と変わらない情景です。

目白坂関口八幡宮(江戸名所図絵より)
目白坂関口八幡宮(江戸名所図絵より)

目白不動の跡には、今では高級マンションが建っています。

目白台ハウス

謎の碑発見!

小さなお社目白坂を登りきり、もう少し行くと小さなお社があります。この境内に入り、お参りしようとすると、

えっえ〜〜щ(゚Д゚щ)!
変わった碑を発見!読めない!なんと書いてあるのか、さっぱりわかりません。しかも立入禁止って!
坂道探偵の出番です!謎の碑の解明なるか?新たなる事実も!

謎の碑

 icon-arrow-circle-right 「ビッグネームが登場⁈目白坂の謎の碑」に続く、、、

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「JIN-仁」に出てくる坂道

樹木谷坂の「樹木谷」って?

樹木谷前回のお茶の水坂の調査のときに、これを見てなんとなく気になっていたのいたのです。

樹木谷坂、、、樹木谷?。
あっ!「JIN-仁」だ!

しばらくの間、「JIN-仁」に出てくる地名、樹木谷とは架空の場所だろうと思っていたのですが、樹木谷は、過去に実際に存在したのです!
調査せねば。。。

樹木谷坂説明板

樹木谷坂  じゅもくだにざか
 地獄谷坂とも呼ばれている。この坂は,東京医科歯科大学の北側の裏門から,本郷通りを越えて,湯島1丁目7番の東横の道を北へ,新妻恋坂まで下がる坂である。そして,新妻恋坂をはさんで,横見坂に対している。
 『御府内備考』には,「樹木谷3丁目の横小路をいふ」とある。
 尭恵(ぎょうけい)法印の『北国紀行』のなかに「文明19年(1487)正月の末,武蔵野の東の界……並びに湯島といふ所あり。古松遥かにめぐりて,しめの内に武蔵のゝ遠望かけたるに,寒村の道すら野梅盛に熏ず」とある。
 天神ゆかりの梅の花が咲く湯島神社周辺のようすである。
 徳川家康が江戸入府した当時は,この坂下一帯の谷は,樹木が繁茂していた。その樹木谷に通ずる坂ということで,樹木谷坂の名が生まれた。
 地獄谷坂と呼ばれたのは,その音の訛りである。
 なお,湯島1丁目の地に,明治14年(1881)渡辺辰五郎氏(千葉県長南町出身)が 近代的女子技術教育の理想をめざし,和洋裁縫伝習所を創立した。その後,伝習所は 現東京家政大学へ発展した。
 文京区教育委員会 平成10年3月
樹木谷坂
樹木谷坂

漫画「JIN-仁」は現代の医師が幕末のお江戸にタイムスリップして活躍するストーリー。人気TVドラマにもなり、私のお江戸趣味的には、どストライク!。ハマってしまった物語です。

橘恭太郎主人公の仁がタイムスリップ直後に遭遇する事件で、その後、お世話になる橘家の当主、恭太郎が、、、
「わたしは湯島四丁目裏通り、樹木谷に住む、小笠原順三郎支配内、橘恭太郎と申します」
と言っているのです。

では、タイムスリップした時代はいつか?
おそらく樹木谷坂を駆け下り、橘家に入り、橘恭太郎の怪我の手当てを終えた、この場面で、、、

文久2年

文久2年(1862年)と言っています。これは確か情報です。

仁がタイムスリップした辺り
順天堂大学病院と医科歯科大付属病院

主人公の南方仁は過去からタイムスリップして来たと思われる人物とのもみ合いの末、病院の階段から落ち、タイムスリップしてしまうのです。

ということは、仁が勤めていたのは樹木谷坂近くの順天堂大学病院または医科歯科大付属病院?。落ちたところはその構内。

蔵前橋通り
蔵前橋通り

今の蔵前橋通り(新妻恋坂)を境に南北に坂(樹木谷坂と横見坂)が登っているので、ここが谷、かつての樹木谷です。
樹木谷と言われたこのエリアを
文久2年の前年の古地図でみると、、、

万延2年(1861年)改 尾張屋刊江戸切絵図
万延2年(1861年)改 尾張屋刊江戸切絵図

仁がタイムスリップしたところは「江川太郎左衛門掛 御鉄砲鋳場」(A)。
今の蔵前橋通り周辺が湯島四丁目裏通り、樹木谷(C)で南側が武家地で北側が家来衆、残念ながら、そこに橘家の表記はありません。実在したとしたら、小さな屋敷だったのでしょう。

国道17号線(本郷通り、湯島四丁目の表通り)の開通、聖橋も出来て、大きく変貌、お江戸の町割、道割ではなく、坂名表記もありませんが、B地点樹木谷坂D地点が横見坂と思われます。湯島聖堂の敷地もよほど大きかったようです。

昌平坂は三つもあった?

仁の昌平坂

相生坂(昌平坂)

この場面、主人公の南方仁は診療の帰りに神田川沿いの昌平坂を歩いているのですが、ここで辻斬りに襲われ、難を逃れます。

相生坂(昌平坂)説明板

相生坂昌平坂)
神田川対岸の駿河台の淡路坂と並ぶので相生坂という。
『東京案内』に、「元禄以来聖堂のありたる地なり、南神田川に沿いて東より西に上る坂を相生坂といい、相生坂より聖堂の東に沿いて、湯島坂に出るものを昌平坂という。昔はこれに並びてその西になお一条の坂あり、これを昌平坂といいしが、寛政中聖堂再建のとき境内に入り、遂に此の坂を昌平坂と呼ぶに至れり」とある。そして後年、相生坂も昌平坂とよばれるようになった。
昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。
 
これやこの孔子の聖堂あるからに
幾日湯島にい往きけむはや  法月歌客

文京区教育委員会 昭和53年3月

仁のセリフ昭和53年3月!
やはり、一般名、昌平坂で通っているので、文京区さんも悩んで、放置しているようです。

仁も昌平坂と言ってるし。
この坂は、昌平坂(相生坂)でいいと思うのですがぁ……。

江戸名所百景昌平橋聖堂神田川 歌川広重画
江戸名所百景昌平橋聖堂神田川 歌川広重画
聖橋下から
聖橋下から

今では、上を聖橋が通り、薄暗いところもあるけれども、辻斬りは出ません(≧∀≦)。

聖橋
聖橋

余談ですが、聖橋の名の由来は「湯島堂」と「日本ハリストス正教会復活大堂」(ニコライ堂)間に架かっているので聖橋、粋な由来、粋なデザインです。

この聖橋のお掘側下には大きな石が無造作に置かれているのです。お掘の護岸、船着場の遺構なのか?なんなんでしょう?

聖橋下の石
聖橋下の石たち。

なんだか立方体のようなものもあります。

 もう一つの昌平坂

古跡昌平坂湯島聖堂の東の脇道で、北に登る坂。
お江戸の情緒の濃い坂です。
わたし的には「古跡 昌平坂」と呼んでいる坂です。
だって石柱も立ってますし。
(≧∀≦)
古跡昌平坂

神田明神この坂もサビた雰囲気ありあり!尚且つ、ここを登って左に折れれば神田明神です。イケてます(*´∀`*)。

お茶の水坂を登って、昌平坂(相生坂)、古跡 昌平坂ルートは、神田上水懸桶、湯島聖堂、神田明神など、お江戸を楽しめるお散歩観光コースです。

昌平坂説明板

昌平坂
 湯島聖堂と、東京医科歯科大学のある一帯は、聖堂を中心とした江戸時代の儒学の本山ともいうべき「昌平坂学問所(昌平黌)」の敷地であった。
 そこで学問所周辺の三つの坂を、ひとしく「昌平坂」と呼んだ。この坂もその一つで、昌平黌を今に伝える坂の名である。
 元禄7年(1694)9月、ここを訪ねた桂昌院(徳川五代将軍綱吉の生母)は、その時のことを次の和歌に詠んでいる。

万世の秋もかぎらしもろともに
 もうでて祈る道ぞかしこし

 文京区教育委員会 平成5年3月

こちらの説明板は「古跡 昌平坂」としてはと思うのですが、どうなんでしょ。

万延2年(1861年)改 尾張屋刊江戸切絵図
万延2年(1861年)改 尾張屋刊江戸切絵図

仁が登っている昌平坂は神田川沿いの昌平坂(E地点)。文京区さんは相生坂(昌平坂)としていますが、お江戸の頃も今日も昌平坂と言えばこの坂でしょう。
しかしながら、現在、F地点の昌平坂(古跡 昌平坂)が文京区公認になっています。

江戸名所図絵より湯島聖堂と昌平坂
江戸名所図絵より湯島聖堂と昌平坂(古跡 昌平坂)。クリックで拡大。

江戸名所図会では右端に、聖堂の脇道(古跡 昌平坂)を昌平坂と表記しています。
こういう資料もあるので、判断が難しいわけです。

船着場余談ですが、
その近くの神田川に番所らしき建物と川への降り口が描かれています。
屋形船と荷船、大八車も。
荷物輸送用の降り口は別にあってオモロです(≧∀≦)。

神田川
昌平橋から神田川を見る。この近く右側に船着場があったはず。

神田川沿いの昌平坂は、相生坂とも呼ばれてるのですが、対を成す二つの坂を相生坂と呼ぶパターンが良くあります。

淡路坂

この場合は神田川対岸、千代田区の淡路坂と対を成しています。二つの坂両方とも相生坂と呼ぶので混乱してしまいます。

上:新宿区の相生西の坂、下:相生東の坂
上:新宿区の相生西の坂、下:相生東の坂

新宿区にも平行する相生坂があるのですが、そちらのほうは相生西の坂、相生東の坂と呼んで区別しています。

三つ目の消滅した昌平坂

三つ目の昌平坂は寛政期の湯島聖堂の拡張で聖堂の敷地に組み込まれ、完全に消滅しています。

shouheizaka
寛政新版江戸安見図(1797年)より「しやうへい坂」。

この寛政の地図では「しやうへい坂」と表記されている坂は神田明神へとまっすぐ登っていますが、聖堂が東側に拡張され、現在の昌平坂(古跡 昌平坂)が出来ることとなります。

消滅した昌平坂
湯島聖堂内。ここが消滅した昌平坂っぽい。

一時は平行して2本あったようですが、仁がタイムスリップした文久2年(1862年)には、今と同じ道割だったと思われます。

勝海舟の坂道

漫画「JIN-仁」第1巻のラスト、橘家を訪れた勝麟太郎(勝海舟)が坂道を下りて帰っていく名シーン。

勝海舟の坂道

この坂道、橘家のシュチエーション(湯島四丁目裏通り)、通りへの道割からみて、横見坂(富士山を横目で見るから)かと思われるのですが不明です。
富士山が描かれていれば間違いないのですが。
しかしながら、よく取材された物語で感心してしまいます。

横見坂
横見坂

ところで、小笠原順三郎はいたのか?

橘恭太郎ところで、最初に恭太郎が「小笠原順三郎支配内、橘恭太郎」と言っている「小笠原順三郎」が気になります。

ググると、、、
「小笠原家 小笠原順三郎 石高5,000石 領地は安房下総上総」
と出てきます。なんと!実在した人物のようです。

ウィキの千駄木の項目に
「旗本小笠原順三郎邸など、かつて坂上に徳川家康に仕えた武家の屋敷があり、お屋敷街となる。」
とあり、時代の近い古地図で探すと、、、

安政3年(1856年)根岸谷中日暮里豊島辺図より小笠原
安政3年(1856年)根岸谷中日暮里豊島辺図より小笠原。
千駄木の団子坂
千駄木の団子坂

この地図の団子坂近くに「小笠原」表記があるお屋敷街があります。
近くには「小笠原左京太夫抱屋敷」とありますが、こちらは大名屋敷です。
なので「小笠原」が小笠原順三郎の屋敷に間違いないでしょう。

橘恭太郎も彼の上司小笠原順三郎も文京区民だったのかぁ。私と同じで、そこはかとなくうれしい。

仁も文京区民だったのかもしれません(≧∀≦)。

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