傘谷坂近くの謎のお像 (前編)

傘谷坂の謎のお像忠弥坂を調査している時に偶然出くわしたFB友、通称ガンダム女史(プロフ写真がガンダムだけと可愛いらしい方)。芸術、美にも造詣が深く、ムーミンに出てくる「ミィ」のように辛口な彼女です。そんな彼女から見せられた数枚の写真。
「このお像は何よ?あんた坂道探偵でしょ!行ってきなさい!」
傘谷坂の謎の徳利いつぞや、呑んでいて平手打ちをくらった思い出が蘇り、
「はっ、はいっ」
とクリアな返答しかできず、仔細を聞くと傘谷坂(からかさだに坂)近くの石垣の隙間に祀られていて、そばに丸八印の一輪挿しor徳利?があるという。そして石垣の写真も見せられ、

傘谷坂の石垣

「この石垣の上には何があったのかしらねぇ?」
「はっ、はいっ!調べます!」
坂道以外の問題じゃねっ?専門外ですよ、と心の中でつぶやくも、決して口には出せない私。
punch「あんたの幸せは坂道に転がっているんだから。転げ落ちるも駆け上るも、あんた次第よ!」と、ドラマならボブディランの「ライク・ア・ローリングストーン」がバックに流れるであろう、なんとも含蓄ある「ミィ」のような物言い。
本当のことを言われ、心をチクチク刺され、挙句の果てには殴られて怪我をしたくはない!
早速、まじランで帰り調べることに、、、

下調べ、情報収集

見たことのないお像、丸八印、そして石垣。難問です。
信頼すべき助手のワトソ子くん、出番だ!と早速メッセすると、
「わたし、旦那と一緒に実家の青森に帰っていまーす。お土産にせんべいお持ちしますわ。せんべい汁さいこう!ですよん」
はあ(ノ゚⊿゚)ノ?
私がおせんべいを嫌いなことは知っている筈。しかも、せんべえ汁ぅ〜ってぇなぬ(?ω?)
また何かいたずらを企んでいるのかワトソ子くん囧rz。
まあ、いいや、仕方ない、単独調査開始です。

まずはお江戸の地図を見ることに、

嘉永七年(1854年)古地図:尾張屋刊江戸切絵図より
嘉永七年(1854年)尾張屋刊江戸切絵図より 写真のEXIFデータから推測してグリーンのエリアの石垣青矢印は御霊八所大明神。

ややや、この辺りは「三組丁」をはじめとするお武家の家来衆(御中間、御小人、御駕籠者)が住んだ町です(実盛坂立爪坂の項参照)

そして発見!「御霊八所大明神」。丸八印のかぁ(?ω?)
近世のことも調べると、「御霊八所大明神」は「湯島御霊社」となって存続しています。怪しい( ̄ー+ ̄)ニヤリ…。

古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より八幡社
明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より八幡社

明治の地図の表記は「八幡社」となっています。
」に絡まる疑惑が、だんだんと明るさを増し、氷解していきます。

傘谷坂の謎のお像しかしながら、見たこともない烏帽子をかぶったお猿さん、烏天狗のようなお像。ワトソ子くんがいない今回、どう解決する(?ω?)
そっ、そうだ!
ここはひとつ、祠のFBグループ、歴史のFBグループの方々に質問を投げてみることにしましょう。
すると、グループの博識な方々から、たくさんの回答をいただきました。
教えていただいたことは、
日枝神社のお猿さんにそっくりだということ。
魔除けの意味がある「神猿(まさる)人形」。「まさるー魔が去る」ということです。

傘谷坂の謎の徳利また、丸八マークは八幡様からくる家内安全を願う魔除けだということ。

FBグループの皆様、ご協力ありがとうございました。大変、感謝しております。
つぅことは、うわぁっw、ほぼ事件解決ではないかい?
でも誰が石垣の割れ目に神猿人形を置いたのでしょうねぇ(?ω?)疑問が残ります。

石垣の上には何があったか?

傘谷坂の石垣ガンダム女史に頂いた超難問。今は駐車場になっている石垣の上には何があったのでしょう?
近世のことを掘り進めていくと文京区本郷は「医療機器の町」ですとな(?ω?)。これ、初めて知りましたが、東大、順天堂も近いので納得。第一次世界大戦でドイツからの機器供給が途絶えたのを契機に発展したとあります。なんか、これも気になりますねぇ。
そうこう探すうち、昭和の地図の中に文京区医療機器産業地図なるものを発見!

古地図:昭和32年文京区医療機器産業地図。斜線が医療機器メーカー。
昭和32年文京区医療機器産業地図。斜線が医療機器メーカー。

うーん、石垣の位置(赤丸)には何もないようです。
ガンダム女史の写真は大谷石の石垣。大谷石は、ほぼ昭和のものです。なのでこの地図と何らかの関係があるかもしれません。
しかしながら、目に付くのは「サンヨー?」、あぁ、今の日本サッカー協会、サッカーミュージアムのあるところですね。それに旧町名の金助町新花町がありウキウキです(^_^)。

ちょっと横道に反れて、旧町名を調べると

金助町の由来
 元和4年(1618)幕府御小人(使い走りの用をする)頭牧野金助に、土地を給された。
 後に、牧野家は屋敷地以外の大部分の土地を返納した。その後、元禄9年(1696)町屋が開かれ、
 牧野氏のゆかりで本郷金助町と称した。
古地図:左:寛文10-13年(1670-73)新版江戸大絵図、右:嘉永七年(1854年)江戸切絵図より「牧野金助」
左:寛文10-13年(1670-73)新版江戸大絵図「牧野金助

なるほどぉ、お江戸初期の正保年中(1645-1648年)江戸絵図にも、後期の嘉永七年(1854年)の江戸切絵図にも「牧野金助」の表記はあります。代々、「牧野金助」を名乗っていたようです。

新花町はというとちょっとややこしい、、、
宝永7年(1710年)、上野寛永寺の宮様(輪王寺宮)の隠居所(御隠殿)を作るために、ここに場所を確保しましたが宮は移ってくる前に亡くなり、大根畑、御花畑にしていたようです。
その後、新しく町屋が作られます。宮は亡くなったのですが「御霊八所大明神」だけは上野から移転してきました。
明治5年、町名を、町屋の新、御畑の花からとり新花町としたようです。

古地図:左:明和江戸図(1771年)より「上野御用地」右:天保十四年(1843年)岡田屋 御江戸大絵図より「日光御門跡」
左:明和江戸図(1771年)より「上野御用地」右:天保十四年(1843年)岡田屋 御江戸大絵図より「日光御門跡」(上野東照宮を意味すると思われます)

古地図:嘉永七年(1854年)尾張屋刊江戸切絵図より新町屋嘉永七年(1854年)尾張屋刊江戸切絵図で見ると町屋になったのは江戸時代後期ですね。

よし!下調べは完了。
「事件は現場で起きているんですよ!」
ということで、次回は現場検証です。
石垣の上には何があったのか?
お像を置いた人物は?謎が明らかになるのか⁈。
坂道探偵は走る。。。タタタッ。ヘ(; ・・)ノ

 icon-arrow-circle-right 後編へとつづく

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