神楽坂のオシャレな坂たち

神楽坂からは大小様々な坂が延びています。坂道だらけの神楽坂ですがオシャレな坂が多く、TVドラマ「拝啓、父上様」の反響も大きく観光の目玉にもなっています。

フランス坂

坂下に銭湯熱海湯があったので熱海湯坂と呼ばれていましたが、「拝啓、父上様」でヒロインの「リンゴの君」がリンゴを落としてから一躍有名になり、今風にフランス坂とか、リンゴの坂と呼ばれています。
この辺りは日仏学院が近いのでフランスの方が多く住んでいます。
日仏学院も今はアンスティチュ・フランセ東京というらしい。
すごく言いづらいっす (≧∇≦)。
フランス坂、リンゴの坂の他に、坂下に銭湯「熱海湯」あるので熱海湯階段、熱海湯坂、一番湯の路地、カラン坂(芸者さんの下駄の音orタライの中で鳴る石鹸の音)などの別名があります。

フランス坂
フランス坂
入母屋造りの銭湯「熱海湯」
入母屋造りの銭湯「熱海湯」

無名の坂

「拝啓、父上様」で、おかみさんが猫に餌をあげていた坂です。坂下は熱海湯のコインランドリーで、ここで主人公の一平君は洗濯をしていました。
無名の坂ですが、オラは勝手にコインランドリーの坂と呼んでいます。坂を登るとアグネスホテル。倉本聰氏が宿泊して、この物語を書いていたホテルです。

アグネスホテルから降りてくる無名の坂
アグネスホテルから降りてくる無名の坂

クランク坂

「拝啓、父上様」では坂下の空地に料亭の車が停めてあり、ここから築地へ通っている設定でした。写真左側のところ、今は駐車できる空地はなく、モダンなお店ができています。
神楽坂エリアは複雑な地形でどこもクランクだらけですがここだけをクランク坂といっています。

クランク坂
クランク坂

袖摺坂

「拝啓、父上様」の中で一平君と彼女が、狭そうに肩を寄せて登っています。
それもそのはず、上り下りする人の袖が摺り合うので袖摺坂
暗い過去もありそうですが、江戸時代からの古い坂です。

袖摺坂
袖摺坂

瓢箪坂

ひょうたんのシルエットのようにクネックネッと曲がっているので瓢箪坂といいますが、感覚的にそんなに曲がってないように感じます。
近辺に瓢箪がなっていたとする説のほうがシックリします。

瓢箪坂
瓢箪坂

駒坂

こんな小さな坂ですがちゃんと名前があり「駒坂」。瓢箪坂と繋がるので「ひょうたんから駒」ということで駒坂といいます。このカーブと手すりが欧米かっ、というくらいオシャレです。
これでもれっきとした区道なんです。
いつ見ても観光客と思しきご老人が降りてきますが、神楽坂観光コースでは下りるような道順になっているのでしょうか?

駒坂
駒坂
駒坂(坂上より)
駒坂(坂上より)

兵庫横丁の坂

新宿区まちなみ景観賞も受賞している情緒のある兵庫横丁
横丁内のレトロな旅館「和可菜」は、寺山修二氏、野坂昭如氏、山田洋次氏、早坂暁氏、倉本聰氏などが滞在し、数々の名作を誕生させました。
静かな場所なので、近くの出版社が、早く仕事しろとカンズメにしていたと思われます (≧∇≦)。

兵庫横丁の坂
兵庫横丁の坂
兵庫横丁(和可菜)
兵庫横丁(和可菜)

軽子坂

神楽坂と平行して登る坂で神楽坂が商業の坂なら、軽子坂は運輸の坂です。
江戸名所図会にも描かれていて、お堀端にある揚場(船荷を陸揚げする場所)から伸びています。
軽子とは軽籠持、運送人夫のことで、そういえば、神楽坂より緩く登りやすい坂です。
坂上から左(西側)に折れれば神楽坂です。神楽坂の雑踏をさけたいときはこちらを登るといいでしょう。

軽子坂

軽子坂

江戸名所図会(神楽坂と軽子坂)
江戸名所図会(神楽坂と軽子坂)

この坂は神楽坂よりもずっと古い坂で古鎌倉街道ではないかという研究者もいます。
街道監視のための牛込城の出城が筑土八幡にあったという人もいます。筑土八幡の崖を見ると納得してしまう説です。

庚嶺坂(ゆれいざか)

江戸初期の頃この辺りに梅林があり、将軍秀忠公が中国の梅の名所「大庚嶺」に因んで命名したとか。
幽霊坂、若宮坂、行人坂、祐玄坂、祐念坂、唯念坂、新坂と、別名が多すぎ!
坂別名コンテストがあれば優勝します。
お江戸の頃は芥坂のようなゴミ坂だった可能性大ですが、坂の景観はグットです。

庚嶺坂(ゆれいざか)
庚嶺坂(ゆれいざか)

意外な歴史の神楽坂四部作

神楽坂と光照寺(牛込城跡)
神楽坂と仇討ち事件
神楽坂と漱石先生
神楽坂のオシャレな坂たち

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富士山が見える護国寺富士見坂と護国寺

富士見坂は東京23区内で少なくとも16カ所、別名で富士見坂と呼ばれるケースも含めれば24カ所以上あるといわれています。多くの富士見坂はマンション建設の影響などで富士山が見えなくなってしまいましたが、ここ護国寺の富士見坂からはいまでも富士山が拝めます。

富士山が見える。

天気、空気にもよりますがマンションの隙間から富士山の右側の中腹が見えます。
いまとなっては富士山が見れる富士見坂は稀なケースになってしまいました。
都内のどこの富士見坂か判らないのでこの辺りのマンション名も「◯◯ナンチャラ護国寺富士見坂」ってなってます。

護国寺富士見坂
雲が稜線の裏側にあるとわかりやすい富士山

江戸切絵図にも富士見坂の表記があり、この坂を下ると今は暗渠の音羽川の橋があって、また下ると大きな伽藍の護国寺です。
筑波山護持院とあるのは神田から護国寺境内に移されたものです。

護国寺(嘉永七年(1854年)尾張屋刊江戸切絵図)
嘉永七年(1854年)安政四丁巳年 (1857年)改 尾張屋刊 江戸切絵図

大正時代の富士見坂

大正時代の富士見坂

音羽川、橋の表記があります。橋がここにあるということは最下点ですので富士見坂は今よりもずっと急坂だったということです。

旧町名の東青柳町の文字が見えますが、青柳町、音羽町、桜木町はそれぞれ土地を拝領した奥女中の名前が由来といいます。桜木町は護国寺門前の入口に面し、大日坂の項に登場しています。

なぜ、こんなに奥女中が登場するのか妄想すると、土地を与えた桂昌院さま(綱吉公の生母)は、もと八百屋の娘で、大出世をしたスーパーレディです。音羽青柳桜木も庶民出身の女性だったのかもしれません。名家の出身なら土地は持っていたと思うんですが、如何に?

昭和初期の富士見坂

昭和初期の富士見坂

昭和になって都電が通り、音羽川は暗渠に、橋は廃止されています。
今の富士見坂は自動車通行、都電通行のため、昭和に入って、ゆるい勾配になったとわかります。

護国寺富士見坂へ登る道
護国寺富士見坂へ登る道

また、切絵図で気づくのは護国寺に門が二つ描かれていること。

護国寺(嘉永七年(1854年)尾張屋刊江戸切絵図)

これが今ある門なら、仁王門と惣門です。
説明板によると惣門は方丈へと続く門とのこと。なるほどぉ切絵図中のかなり広い敷地の「護国寺隠居」ってなんじゃ?と思ってたんですが僧侶の方丈(お住まい)だったんですねえ。
(おじいちゃんがいっぱいいるのかと思ってた (≧∇≦))

護国寺惣門
武家屋敷門の風格を持つ護国寺惣門
護国寺仁王門
護国寺仁王門

護国寺の仁王様

仁王門で素敵なのは彫刻です。阿行吽行の仁王様はもちろんなのですが、裏面に仏法を守る増長天、広目天がいらっしゃいます。

護国寺の増長天
増長天
護国寺の広目天
広目天

あまりよく見ない足元をみると劇画のような表情の鬼が耐えてます(*´∀`*)しかも指が二本しかない!

増長天の鬼
増長天の鬼
広目天の鬼
広目天の鬼

お宝満載の護国寺

本堂は元禄10年(1697年)建立の国の重要文化財です。月光殿は桃山時代の建築で滋賀の園城寺日光院客殿を移築したもの。
計8点もの重要文化財!、そればかりではありません。多宝塔、大仏(中仏くらいの大きさ)、鐘楼などなど、美術的価値のあるものが多々あります。

護国寺本殿
護国寺本殿
普通に使われている重要文化財の月光殿
普通に使われている重要文化財の月光殿
護国寺大仏
護国寺大仏
護国寺多宝塔
護国寺多宝塔

ため息が出るほどのお宝の数々ですが、
わたくし的には、マイナーなものに心を奪われてしまいます。

なんじゃ、これ?
水屋横の丸いやつ?

すわっ、五重塔の礎石じゃねっ?!礎石発見かっ!と一瞬、こころトキめいたが、塔の礎石にしては舎利器を入れる穴がなーい。江戸名所図会にも塔は描かれていませーん。でも水屋は描かれています。なんだろう?

手洗水盤水屋台座

護国寺(江戸名所図会)
護国寺(江戸名所図会)。塔は描かれていません。
手洗水盤(拡大)
手洗水盤(拡大)

説明板によると今の水屋の手洗水盤は将軍綱吉公の生母桂昌院が寄進したものの復刻版であるとのこと。
その情報から、元の水盤はここに置かれていたと想像できます。

なんじゃ、これ?
境内に左江戸道の道しるべ?

水屋の手前に、古くて崩れ堕ちそうな標石があります。
正面に「左江戸道」、右側面に「右◯◯◯」、左側面に「庚申供養塔」?。

左江戸道
左江戸道
左側面庚申供養塔
左側面庚申供養塔

この標石のあるところから右を見ると、
富士塚があるではありませんかぁ!
普通に護国寺をお参りすると、なかなか気づかないんですが、ここには富士塚(一般的に音羽富士塚という)があるんですよ。
なので右側面に書いてあるのは「右富士道」でしょう。

音羽富士塚富士道
音羽富士塚富士道

左側面の「庚申供養塔」を調べると、庚申塔を道しるべとして建立することもよくあったとのこと。庚申信仰の証しと実用的な道路サインを兼ねたということです。

そりゃあそうですよ、庚申信仰のお約束では3年に一度は庚申塔を建立することになるので、何十年かすると庚申塔だらけになってしまいます。

実用的な道しるべを兼ねていれば、たくさんあっても交通インフラとして役立ちます。良い知恵ですね。

音羽富士塚頂上
音羽富士塚頂上
音羽富士号目石
音羽富士号目石。文化十四年(1817年)の銘あり。

富士塚について

富士山は信仰の山で登るには、歩いて行かなければならないし、ダウンジャケットも無い時代だから、命がけです。しかも昔は女人禁制の山でした。なので誰でも簡単に登れるような小さな富士山ジオラマ(富士塚)を造り、登り、お参りをしました。

ひょっとすると、ここに登ると本物の富士山も見えたのかもしれません。妄想するとワクワクです。

庚申信仰と富士信仰(庚申講と富士講)は結びついていたと思われ、門前町の町人の活気が感じられます(庚申塔、庚申信仰については庚申坂の項をご参照ください)。

石好きにはたまらない!音羽講中庚申塔

護国寺薬師堂
護国寺薬師堂

護国寺薬師堂の裏にめずらしい庚申塔があります。音羽講中庚申塔といって門前町の音羽町の方の建立です。
庚申坂の項で勉強した庚申塔ですが、こんなタイプのものは見たことがありません。
高さ210cm!アンドレ・ザ・ジャイアントより低いですが、大きい(*’д’*)立派です!
天明五年(1785年)の銘があります。

音羽講中庚申塔
音羽講中庚申塔

三猿が塔を支えているなんて、地球を持ち上げているヘラクレス、ギリシャ神話的です。

音羽講中庚申塔(部分)

「見ざる、聞かざる、言わざる」のはずですが、どうも辛いタスクに文句を言っているように見えます。

まだまだある庚申塔

庚申信仰を続けていくと、庚申塔だらけになってしまう、という私の予想は的中しています。
ここ護国寺にはたくさんの庚申塔が残っています。

護国寺太子堂
護国寺太子堂

境内の太子堂北面の崖に石仏とともに数々の庚申塔が祀られています。

庚申塔 青面金剛、元禄二年(1689)銘
青面金剛、元禄二年(1689)銘
庚申塔、正徳六年(1716)銘
庚申塔、正徳六年(1716)銘
庚申塔、延宝八年(1680)銘
庚申塔、延宝八年(1680)銘
こんなところにも青面金剛が
こんなところにも青面金剛が。。。

やはり庚申塔だらけです。
大きな門前町があり町人が多かったからですね。
探せばまだあるかもしれません。
石好きにはたまらない護国寺でした。

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