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胸突坂と神田川

神田川から目白台地に一気に登る急坂。キツくて胸が苦しくなるというので「胸突坂」、別名「水神坂」。
坂下に関口芭蕉庵、水神社。周囲には椿山荘、永青文庫と美しい景観が広がります。
風情だけなら、文京区でナンバーワンでしょうが、歴史を見ると色々と変遷があるようです。

胸突坂の途中の休憩スペース。
胸突坂の途中の休憩スペース。
夜はライトアップされる椿山荘
夜はライトアップされる椿山荘
坂上の永青文庫
坂上の永青文庫
古地図:江戸切絵図(嘉永七年1854年尾張屋刊江戸切絵図より)
青矢印が胸突坂(嘉永七年1854年尾張屋刊江戸切絵図より)

江戸名所図会を見ると

江戸名所図会
江戸名所図会 芭蕉庵(クリックで拡大)

水神八まん「水神八まん」とあり、トイメンは関口芭蕉庵ではなく「竜隠庵」(りゅうげあん)?
はじめから関口芭蕉庵と呼ばれていたわけではなく、神田上水の水番屋、役人の詰所だったところの跡地に芭蕉を忍ぶ人々が庵を建て「竜隠庵」と称していました。
のちに芭蕉があまりにも有名になったので、関口芭蕉庵と呼ばれるようになったようです。
思えば、松尾芭蕉(1644ー1694年)はお江戸前期に活躍した人ですから、江戸時代中にどんどん神格化されていった様子が伺えます。

古写真:戦前の関口芭蕉庵
古写真:戦前の関口芭蕉庵。胸突坂がちょこっと写っています。

芭蕉は神田上水を作った水道土木技術者のように思われがちですが、俳句だけではプータロウのように思われるので、それを嫌い、全うな職として、ここで帳簿付けをしていたようです。職に就けたのもお弟子さんの紹介らしいです。
関口芭蕉庵とは後付けの名前で、しかも戦災で失われ、今のものは戦後の再建です。

因みに関口という地名は神田上水の取水口があったので関口といいます(目白坂、目白不動と関口水車の項参照)。

はせを堂図会の右のほうに「はせを堂」「こんぴら」「五月つか」とあります。享保11年(1726年)、芭蕉の33回忌にお弟子さんたちがお堂を、寛延3年(1750年)に芭蕉真筆の短冊を埋めた塚を作ったいいます。今は関口芭蕉庵内にあります。

関口芭蕉庵
関口芭蕉庵
芭蕉堂
芭蕉堂
さみだれ塚
さみだれ塚

地形がお江戸の頃とずいぶん変わっているような気がします。
駒塚橋(駒留橋)も今より下流にあります。
それもそのはず、図会をみると神田川が物凄く蛇行しています。これは誇張ではなく事実なのです。
神田川は、よく洪水を起こすような暴れ川だったようで、逆に言えば、それが幸いし、早稲田田圃に肥沃な土地をもたらし、早稲田というぐらいの早生米をもたらすことになるのです。

明治の地図をみると

古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より
明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より

明治初期の地図をみても、やはり神田川は大きく蛇行しています。今は胸突坂下の駒塚橋も下流にあります。
青矢印が水神社の鳥居ですので、、、

ややややっ!胸突坂ではなく「闇坂or暗闇坂」に見えます(*’д’*)!
水神坂以外にも不気味な名前があったようです!
文京区を代表するような風情あふれる坂ですが暗い過去があったような?。

個人的な考えですが、坂の休憩スペースはゴミ置場だったのかと妄想してしまいます。
根拠としては、まず、人目に付きづらいこと。
また、幕府のお触れで、ゴミは深川沖まで船で持って行かねばならず、切絵図を見るとこの坂には番所が二つあり、ゴミ番を兼ねていたのではないかと想像できます。

明暦元年(1655年)正宝事禄にある町触れ

一、町中の者は川の中、その周辺にゴミを捨ててはいけない。今後は船を使って永代島へ捨てに行きなさい。ただし、夜間のゴミの持ち出しは禁止し、昼間だけにすること。

二、軽率に船を係留しておいてはいけない。船の通行を妨げないように係留しておきなさい。

三、たとえ少しであっても川を埋め立てて、河岸端を築いてはいけない。

坂上には町人地もあり、神田川の水運を利用してゴミを運搬するには絶好のシュチエーションに思うのですが、、、
ましてや神田上水の取水口の上流に位置しているので、川へのゴミ不法投棄は厳禁だったと想像できます。いかに(?_?)。

胸突坂2

確かに舗装もなく木々に覆われていたら不気味な、危険な感じすらします。たとえゴミ坂だったとしても暗い過去は言わぬが花(^_^)。今では周囲の景観に合わせてキレイに整備され、坂道マニアにはたまらない坂です。

水神社

古写真:水神社(昭和初期と思われる写真)
古写真:水神社(昭和初期と思われる写真)

水神社は大木の間に参道があり今と変わっていなくてホッ。
神田上水を引く時に守護神として祀ったのが始まりといいます。創建不明といいますが家康公のころからあるのでしょうか?
江戸名所図会には大木が描かれていないのが気になりますが、お江戸のころに植えたものなのでしょうか?

水神社
水神社
水神社大木の参道
水神社大木の参道

いずれにせよ、この辺りの変遷は神田川に因るところが大きいようです。古写真をみてみましょう。

神田川、古写真による変遷

古写真(明治末):早稲田田圃から椿山荘(山縣有朋邸)のほうを見る
古写真:早稲田田圃から椿山荘(山縣有朋邸)のほうを見る

明治初期

凄っ!今は都会の住宅地になっている早稲田田圃に水車があり、江戸名所図会のように神田川土手があります。

明治初期の駒塚橋

明治初期の地図でも早稲田田圃が広がっています。

明治末

古写真(明治末):神田川と早稲田東電変電所
古写真(明治末):神田川と早稲田東電変電所。おじさんが神田川で釣りをしていてのどかです。
だいたい同じ位置から現在
だいたい同じ位置から現在。駒塚橋がだいぶ上流に移動しました。

明治末の駒塚橋

明治の末になるとだんだんと文明の香りがしてきます。地図では配電所とあります。

大正期

古写真:大正時代の駒塚橋

これは上流から椿山荘(大正期は藤田邸)のほうをみています。駒塚橋が今よりやや下流です。

だいたい同じ位置から現在
だいたい同じ位置から現在。神田川のカーブが違っています。

大正時代の駒塚橋

大正期になると変電所の隣に都電の車庫ができています。早稲田田圃の宅地化が進んでいます。

いやはや、いつものブログ記事だと、地形が変わっていませんねえって締めくくれるのですが、川に関しては変わり過ぎです。しかしながら変わらないものもあります。区境です。

昭和の区界
昭和の区境
現在の区界
現在の区境

この辺りは豊島区と新宿区境界が元の神田川の蛇行を基準にしているので、記事を書く時、軽くイラっとします。しかも椿山荘あたりは文京区で3区が入り混じっている複雑なエリアでした (≧∇≦)。

文豪の歩いた鼠坂

風情も歴史も勾配もありありの鼠坂は文京区でも有数の名坂で小説にも登場します。

森鴎外先生の短編小説「鼠坂」。中国戦争で悪事を働いたお金持ちが、この坂の中腹にあったお屋敷で奇怪な死を遂げるという物語。陸軍の上官を揶揄したものだと云われています。
明治期にはまだ舗装されてなく、雨でも降ればネズミくらいしか登り降りできないだろうと小説の中で言っています。

今は階段坂ですが、長いので全力坂すればかなりキツイです。
ときどき学生さんが鍛錬しています。
なんだか自動車が通れない坂って風情があります。

※森鴎外「鼠坂」より
 「小日向から音羽へ降りる鼠坂と云ふ坂がある。鼠でなくては上がり降りが出来ないと云ふ意味で附けた名ださうだ……人力車に乗って降りられないのは勿論、空車にて挽かせて降りることも出来ない。車を降りて徒歩で降りることさへ、雨上がりなんぞにはむづかしい……」
観潮楼時代の鴎外先生
観潮楼時代の鴎外先生

さて、鴎外先生と言えば、団子坂上の観潮楼(現:森鴎外記念館)に、お住まいだったので「団子坂」を素材にしても良さそうなものです。

しかしながら、鴎外先生はなぜ、この鼠坂を知っていたのか?
そこが、とても気になります。
(?_?)

観潮楼の門跡
森鴎外記念館には観潮楼の門跡が残されています。

短編小説「鼠坂」は明治45年の作品です。
その頃、鴎外先生は陸軍軍医総監・陸軍省医務局長という軍医の中ではトップの地位にありました。

明治後期の地図を見ると、、、

赤矢印が鼠坂。青ラインは音羽川。明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図より
赤矢印が鼠坂。青ラインは今は暗渠の音羽川。明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図より(クリックで拡大)。

坂上近く、今のお茶の水女子大学周辺に、兵器支廠(ししょう)とあります。兵器支廠とは兵器・弾薬・機材などの補給を担当した部署です。かなり大きな敷地です。ここで健康診断でもしたのかもぉ?と思ったのですが、軍医のトップが健康診断をするわけがありません。
「陸軍の上官を揶揄」?ということは、鴎外先生が若い時代に訪れていたのかもしれない!そう思い、

明治初期の地図を見ると、、、

八幡坂近く、今では鷺坂のある久世山に大きく「陸軍副病院」とあります。

明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より陸軍副病院
明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より陸軍副病院と、左上に鼠坂の表記。

副病院、本病院は、支店、本店のようなものです。
鼠坂の近くには、まだ、兵器支廠はありません。
鴎外先生は、陸軍副病院を訪れた可能性が非常に高いです。
音羽地区、音羽川沿いを歩きながら、または坂上から、この圧倒的な風貌の鼠坂を見て興味を抱いたのかもしれません。

鼠坂
鼠坂坂上から
古地図鼠坂
嘉永七年(1854年)安政四丁巳年 (1857年)改 尾張屋刊 江戸切絵図

お江戸の切絵図では「子ツミサカ」とあります。鼠坂は別名「水見坂」なのですが、切絵図、明治期の地図をみれば、その由来がわかります。
坂下を今は暗渠の音羽川が流れています。音羽川は江戸時代、鼠ヶ谷下水(川の下流部の意味)とも呼ばれていて、鼠坂の名の由来だという人もいます。

坂上と今の鳩山会館辺りには御賄組(おまかないぐみ)とあります。御賄とは江戸城に野菜を調達していた役人、一説には毒見役(>ω<)が組屋敷を構えていた場所です。

練馬大根グーグルマップで見ても整然とした町割が残っているのがわかります。新宿の百人町もそうですね。
場所柄、清戸街道(練馬方面)からの野菜を管理していたようです。

余談ですが、練馬大根って最近あまり見かけませんねぇ。
私の子供(昭和30年代)のころは先が太い、いかにも大根足を想像させるような練馬大根が主流でした。
今の青首大根はスラリとしていて、かえって綺麗な足のイメージ。
青首大根は収穫するときに抜きやすいので主流になったとのことで、納得!

漱石先生の大ピンチ!

松山中学時代(漱石先生28歳くらい)の写真夏目漱石先生も、大学生のころ、鼠坂を降りるとき、急にお腹が痛くなったと日記に書いています。お漏らししちゃたらしー(°Д°)
(そんなこと日記に書くなよ〜)

松山中学時代(漱石先生28歳くらい)の写真は、なかなかのイケメンですが、お腹が痛そうなお顔です。

漱石先生の年譜をみると、第一高等学校(東大)入学前は親友の左五と一緒に受験勉強のため、新福寺に下宿していたのですが、入学後の一時期、実家に戻っています。
実家は新宿区喜久井町(喜久井町は夏目家の家紋が由来)の夏目坂にありました。東大から喜久井町、鼠坂を通ると多少、遠回りのように思いますが散歩好きな漱石先生なら、、、
どこか寄り道してたのかな?。

井桁に菊
井桁に菊

【追記】鼠坂の主

FBグループの方の投稿で鼠坂の主がいるといいます。
ペイントの鼠とマスコットが、、、
興味シンシンで走っていってみると、ほんとにありました。

鼠坂のねずみたち
鼠坂のねずみたち

鼠坂のねずみいやはや、私は歴史ばかりみて現実を見ていなかったのか、もしくは走っていると見逃してしまうのか?
しかしながら、こんな小粋なセンスの持ち主にお会いしたものです。