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武将の伝説、実盛坂の謎を解く(前編)


坂下に長井斎藤別当実盛の「実盛塚」や「首洗いの井戸」があったので実盛坂と云われていますが、長井斎藤別当実盛とは平家物語、源平盛衰記や保元物語に出てくる老齢の武士です。

お江戸の小さな坂道が、なぜ「実盛坂」という名を冠しているのか、とても気になります。そこでいつものように古地図を使い、推理したいと思います。

斎藤実盛は平家側につき、討ち死にするのですが、物語では60余歳、70歳とも書かれています。
戦に行く前に死を覚悟し、首を取られても恥ずかしくないようにと、最期まで若々しく戦いたいと、白髪を染めたと云います(白髪染めってそんな昔からあったのですねぇ )。

打たれて首を取られ、首実検の際、首を洗うと染めていた黒髪がみるみるうちに白くなり、命の恩人の斎藤実盛であったとわかり、木曽義仲は泣き崩れるのでした。一同、涙の名場面(泣)。

私、ペンネームを実盛にして染めようかと思ってしまうほど、魅力的な人物です。

実盛の首塚、首洗いの井戸、産湯の井戸?までもが実盛坂の坂下にあったなんて本当でしょうか?

池史実では実盛は越前の生まれ。武蔵国長井庄(現埼玉県大里郡妻沼町)を本拠としていました。戦に敗れたのは寿永2年(1183年)加賀国の篠原の戦い。

篠原古戦場近くに実盛の首を洗ったとされる池があります。この池も本当かどうかはわかりませんが。

実盛坂(坂上より)
実盛坂(坂上より)
実盛坂(さねもりざか)
 「江戸志」によれば「…湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり…」とある。また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説めいた話が「江戸砂子」や「改撰江戸志」にのっている。この実盛のいわれから、坂の名がついた。

実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現埼玉県大里郡妻沼町)を構え、平家方に味方した。寿永2年(1183年)、源氏の木曽義仲と加賀の国篠原(現・石川県加賀市)の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎光盛に討たれた。

斎藤別当実盛は出陣に際して、敵に首をとられても見苦しくないようにと、白髪を黒く染めていたという。この話は「平家物語」や「源平盛衰記」に詳しく記されている。

湯島の「実盛塚」や「首洗いの井戸」の伝説は、実盛の心意気にうたれた土地の人々が、実盛を偲び、伝承として伝えていったものと思われる。
文京区教育委員会

文中の「江戸志」は原本が残っていなくて、成立年代は不明ですが文政以前(1810年代)には、すでに存在が確認されています。

「江戸志」によれば「…湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり…」と言っていますが、長井庄=埼玉県大里郡妻沼町とも言っていて、もうチンプンカンプンです。伝説ですから仕方ありません。

また、江戸志には、別にこんな記事もあります。
湯島天神男坂下の喜見院の宝珠弁財天の項には、

江戸砂子にいう、此所の池は長井実盛(斉藤別当実盛)庭前の池と伝う。昔は余程の池なりしを近世其の形のみ少しばかり残りたり

と記され、かつては大きな池が存在していたようです。
江戸砂子とは、江戸時代中期(享保17年 (1732年)刊行)に著された江戸の地誌。
この話、なんだか匂います。調べる価値がありそうです。

天神男坂
天神男坂

しかしながら湯島天神の男坂下の喜見院 ?今は無いのですが?。
喜見院を古い地図で確認してみましょう。

寛文10-13年(1670-73))新版江戸大絵図より湯島天神周辺
寛文10-13年(1670-73))新版江戸大絵図より湯島天神周辺(クリックで拡大)。

道の表記はありませんが青ラインの位置が実盛坂、赤ラインが中坂、湯島天神の脇に「キケン院」とあります。
実はこのお寺、当時、湯島天神の別当寺で、富くじ(今でいう宝くじ)を発行していたらしく、相当な権勢を誇った大きなお寺で、江戸名所図会にも描かれています。

江戸名所図会(湯島天神)
湯島天神、江戸名所図会より。(クリックで拡大)

「別当」とあるのが喜見院です。位置的にも新版江戸大絵図と同じで正確です。

余談ですが、市ヶ谷亀ヶ岡八幡牛天神のように、「芝居」「揚弓」もあり、お江戸の寺社はテーマパークだといつも思ってしまいます。

喜見院は明治の廃仏毀釈の嵐に遭い、いったん廃寺、今は心城院となって復活、新版江戸大絵図でいうとA地点に移動しています。

なので現在、心城院の池が長井実盛(斉藤別当実盛)庭前の池ということになっていて、その事が謎の解明のネックになっていたのです。

寛文10-13年(1670-73))新版江戸大絵図より湯島天神周辺

「江戸志」の記述には「宝珠弁財天 男坂下」とあります。
同じ男坂下ですが、現在、心城院(もと喜見院)は道を隔てた北側(A)にあり、江戸時代、喜見院は男坂下の道の南側にあったのです。

心城院
心城院
心城院の池
心城院の池

長井実盛(斉藤別当実盛)庭前の池というのは、もっと大きな池で、もっと南にあったのです。
だとすると位置的に見て赤ラインの「中坂」が「実盛坂」と呼ばれてもいいはずなのですが?。

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さくらまつりの播磨坂と環三通り


茗荷谷の谷筋からお江戸の情緒が濃い藤坂を登ると、春日通りに出ます。春日通りの向こう側には幅約40メートルの播磨坂が見えてきます。江戸時代の松平播磨守の屋敷を貫く播磨坂、こんなに幅広な坂道は江戸時代から存在したはずは無く、近代の開削だということがわかります。

藤坂を登ると桜並木が見えてきます。
藤坂を登ると桜並木が見えてきます。
春日通りと播磨坂
春日通りと幅広の播磨坂桜並木。

播磨坂は、いつからあるのか?
地図で調べてみると、、、

明治の終わりの地図
明治の終わりの地図
大正時代の地図
大正時代の地図
昭和初期の地図
昭和初期の地図
昭和30年代の地図
昭和30年代の地図で出現します。凄く幅広です。今と違い、中央分離帯がありません。
昭和の終わりの地図
昭和の終わりの地図

この頃の播磨坂に中央分離帯はありますが、ずいぶんと途切れ途切れになっています。そういえば、ひと昔前、この辺りで中央分離帯の遊歩道を歩いた記憶がありません。

今では中央分離帯に桜並木、流水施設もあり、文京区でも屈指の憩いのスポット、お花見スポットの一つとなっています。

播磨坂桜並木
桜並木
播磨坂の流水施設
播磨坂の流水施設
染井吉野
染井吉野
しだれ桜。何十年か経つとセンター取るくらい立派になりそうです。
まだ若い「しだれ桜」。
これもサクラ?どなたか教えてください。
カイドウの花も美しい。
掛井五郎作「地下水」
掛井五郎作「地下水」。いつも凄い腹筋V字だと思ってしまいます。

環三通り?

しかしなぜ、こんな幅広の坂道が作られたのか?桜並木を作るためかぁ?以前から不思議に思っていました。
調べてみると、、、

ウィキより
 1923年に発生した関東大震災後の東京市の震災復興計画での街路計画をもとに、第二次世界大戦後に東京都の戦災復興計画で計画決定された「東京都市計画道路幹線街路環状第3号線」は、資金難で一部区間のみ開通した。これら開通区間は通称として「環状3号線」と呼称されることがある。
 六本木付近では東京オリンピックを契機とする道路建設において、既存道路との交差地点にトンネルが設けられるなど、将来の開通を見越した工事が行われた。また、文京区では「播磨坂」として一部区間が開通している。

「環状第3号線」計画の一部だったのですね。そういえば以前「環三通り」なる交差点があったような気がします。

環状第3号線は資金難で頓挫したようです。
計画では今の藤坂からは高架になって茗荷谷を貫くはずだったらしいのです。ただでさえ丸ノ内線の開通で変貌してしまった茗荷谷の上を高架の道路が開通しなくて、良かったように思います。
茗荷谷には、まだたくさんのお江戸の情緒が残っています。

播磨坂は江戸時代の松平播磨守の屋敷を貫き、宗慶寺、極楽水を移転させ、お江戸、明治大正の風景を変貌させています。文京区のほうでも、歴史を残そうと説明板を設置しています。

高橋泥舟山岡鉄舟旧居跡
高橋泥舟山岡鉄舟旧居跡の説明板
泥舟は槍術の大家山岡静山の弟で、母方の実家である高橋家を継ぎ、25歳のとき幕府講武所の師範となる。鉄舟は剣術を北辰一刀流の千葉道場に通い、槍を静山に習った。鉄舟は旗本小野家の出身であるが、静山の妹英子と結婚し、山岡家を継いだ。
 二人は、文久二年(1862)12月、清河八郎の呼びかけで、近藤勇らが参加し結成された浪士隊の取締役を幕府から命ぜられ、上洛するが、清河の攘夷尊王の策謀が発覚し、江戸に帰府した。
 慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れ、官軍が江戸に迫ると、泥舟は前年に大政奉還した元十五代将軍徳川慶喜に恭順を説き、身辺警護に当たった。鉄舟は勝海舟の使者として、駿府の官軍参謀の西郷隆盛に会い、江戸城無血開城への道を開いた。
 海舟、泥舟、鉄舟を維新の三舟と呼び、維新の重要な役割を担った。
平成26年3月
文京区教育委員会
赤矢印が藤坂、青矢印が今の播磨坂(嘉永七年1854年尾張屋刊江戸切絵図より)
赤矢印が藤坂、青矢印が今の播磨坂(嘉永七年1854年尾張屋刊江戸切絵図より)

今の播磨坂は旗本御家人地、松平播磨守の大名屋敷、宗慶寺、極楽水を貫く形になっています。

歴史に名を残す偉人が住んだところです。切絵図にも「高橋連之助」「山岡紀一郎」と描かれています。(区の説明にある山岡静山=山岡紀一郎)

「高橋連之助」の養子がお隣の山岡家から来た高橋泥舟です。次男の泥舟が高橋家に養子に出た後、山岡家長男の「山岡紀一郎」は27才で早世してしまいます。しかたなく妹・英子(ふさこ)に婿をとって跡を継がせました。このお婿さんが山岡鉄舟だったのです。
非常にややこしいですが、泥舟と鉄舟とは義兄弟でお隣さんだったのですねえ(^_^)。

古写真:昭和22年の播磨坂下。焼け残った宗慶寺の納骨堂と、バラックが写っています。
古写真:昭和22年の播磨坂下あたり。中央上の白い建物、焼け残った宗慶寺の納骨堂と、手前にはバラックが写っています。

古写真を見ると、お江戸の歴史を壊して作った大きな坂道というイメージが一変します。
戦争で破壊された街を復興するための希望の坂道だったのです。

今の桜並木の賑わいは復興の一つの形であり、平和な光景だという感慨が沸いてきます。

明治の歴史も残すため、文京区さんは「石川啄木終焉の地」隣に「石川啄木顕彰室」を作ってくれました。こちらのページの最後のほうにレポートがあります。

播磨坂はお花見だけでなく、歴史も散策できるスポットですね。