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武家の名がつく坂ー外記坂と消えゆく朝陽館本家

お江戸は武士の名、役職名が付く坂がとても多い、、、それもそのはず、9割は武家地、残り1割が町人地だったのです。
文京区の中で私の住むエリアだと服部坂安藤坂(安藤殿坂)、荒木坂(一旦消滅、近年復活)などなど。それぞれのお武家近くの坂道なのですが、武士由来の坂名の中で特筆したいのがこの「外記(ゲキ)坂」。
なぜかって?
なっ、なんと、外記坂には名の由来になった武士の写真が残っているです。

古写真:内藤外記
古写真:内藤外記

内藤肥後守正當(まさあつ)外記(1824-94)41歳の頃
内藤新宿(今でいうところの新宿)で有名な内藤氏の親戚筋にあたります。

元治元年(1884年)幕末の凛々しいエリート。五千石以上の旗本の写真です。
外記とは役職名で、内記、外記があり、内記は、律令制において主に詔勅の起草・天皇の行動を記録した官職。
外記は、内記の著した文章の訂正、儀式の執行などをつかさどった官職です。
ですが、この内藤氏、エリートなので役職名が多数あり、代々「外記」を名乗っていたわけではないようです。

役職の一つに、定火消(今でいう消防署)の任もあり、明暦大火の翌年(1658年)から嘉永年間まで、今の御茶ノ水の順天堂大学病院辺りにあった定火消屋敷も管轄していました。
古地図:嘉永六年(1853年)尾張屋刊江戸切絵図
嘉永六年(1853年)尾張屋刊江戸切絵図

古地図:外記坂外記坂は御茶ノ水にあるのか?と思ってしまいますが、後楽園近くの本郷、内藤外記本屋敷脇にあるのです。

外記坂はキツイので「ゲキ坂」かぁ?と思うのですが、ご覧の通り、こじんまりとした階段坂でやさしい風情すらあります。そしてまたの名を新坂。
江戸時代に出来た、当時としては新しい坂という意味で、旧徳川慶喜邸脇の新坂も江戸時代の開削です。
ならば、この新坂は、いつ頃の開削なのでしょうか?

外記坂坂上から
外記坂坂上から

地図で探る

江戸初期の詳細地図である寛文10-13年(1670-73)新版江戸大絵図を見てみましょう。

古地図:寛文10-13年(1670-73)新版江戸大絵図
寛文10-13年(1670-73)新版江戸大絵図

なにせ、現地に行けばわかるのですがA地点の水戸殿(今の後楽園)に向かっての崖地で、当初は道を作るのも難儀な土地だったと想像できます。(青ラインが外記坂が出来る新道)
近くの同じ崖を登っていた旧東富坂はクランクして斜めに登るくらいの崖地なのです。

時代が少し下り、、、

古地図 左:明和江戸図(1771年)右:文化江戸図(1811年) A地点が水戸殿(今の後楽園)
左:明和江戸図(1771年)右:文化江戸図(1811年) A地点が水戸殿(今の後楽園)

左の明和江戸図(1771年)では水野越中守(青矢印)の屋敷の脇に新しい道が出来ています。この時期、崖から降りるために盛り土をし、ややなだらかな坂道を作ったことになります。

右の文化江戸図(1811年)で、やっと内藤家(赤矢印)がやや北側に現われます。
ということは当初から内藤家の脇の道ではなく、水野家の脇の坂だったということになります。長い江戸時代(約260年)の間、転居、移転は多かったようです。

幕末の地図では

古地図 上:万延二年(1861年)尾張屋刊江戸切絵図 下:嘉永三年(1850年)近吾堂版江戸切絵図より
上:万延二年(1861年)尾張屋刊江戸切絵図 下:嘉永三年(1850年)近吾堂版江戸切絵図より

幕末の地図をみると、水野家屋敷の転居で内藤家が坂の脇に土地を拝領したのでしょう。内藤家の脇が坂道になっています。
そして、内藤肥後守と「ケキサカ」の表記が現われます。
同時期の下の近吾堂版江戸切絵図では、内藤外記と「シンサカ」の表記。

新坂、外記坂の両用ですね。しかしながら「新坂」という坂は江戸時代、たくさんあったわけで混乱が生じてしまいます。住所表記としての坂名としては難儀です。
籠屋に行き先を伝えるときなどは、、、
「新坂までやってくんな」
「へえ、旦那、どちらのぉ?」
「外記殿の新坂まで」
などという会話があったと妄想しております (≧∇≦)。

もう一枚の古写真

もう一つ、興味深いのは、内藤家の庭の写真まで残っているのです。

古写真:元治元年(1884年)幕末頃 内藤家の庭
古写真:元治元年(1884年)幕末頃 内藤家の庭

富士山を模した盛土の山、その前に大きな岩、手前には橋が見え、池か川。
この庭は昭和初期まで存在したらしく、この富士山から、後楽園一帯が一望できたといいます。

明治の地図でみると、、、

古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より
明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より 赤矢印が外記坂

地形のわかる明治初期の地図でみると、坂上に山らしきもの(緑矢印)が存在しています。現在そこは、、、

外記坂上
外記坂上

ビルが建っていて痕跡皆無です。もう一度、明治の地図をみると、坂下には大きな池(青矢印)があります。

坂下は現在、ホテルなのですが、中庭にポンプとホテル前に小さな噴水池。

ホテルの中庭
ホテルの中庭
ホテルエントランスの噴水
ホテルエントランスの噴水

これってぇ地下水を循環していると想像できます。
もともと自然の池で地下水が湧いていたのでしょう。

弓町の由来

新坂(外記坂)説明板

新坂(外記坂)
 区内には、新坂と呼ばれる坂が六つある。『東京案内』に、「壱岐坂の北にありて小石川春日町に下るを新坂といふ」とある。『江戸切絵図』(嘉永6年尾張屋 清七坂)いよると、坂上北側に内藤外記という旗本の大きな屋敷があり、ゲキサカとある。新坂というが、江戸時代からあった古い坂である。
 この坂の一帯は、もと御弓町、その後、弓町と呼ばれ、慶長・元和の頃(1600年ごろ)御弓町の与力同心六組の屋敷がおかれ、的場で弓の稽古が行われた。明治の頃、石川啄木、斎藤緑雨、内藤鳴雪などの文人が住んだ。
 文京区教育委員会
 昭和63年3月

外記坂の坂道説明板には、弓町?。
調べてみると、江戸城から見て、この辺りは鬼門の方角にあたり、毎朝、天に向かって弓を放ち、邪気を払っていたそうです。
この風習は、鬼門を守る上野寛永寺が出来るまで続き、寛永寺が出来ると御弓衆は目白に移転。移転後、武家地になるも弓町の名は残ります。そんなこと考えながら、近辺を歩くと、、、

弓壱

歩道に「弓壱」の粋なデザインのプレート、そして本郷弓一町会の看板。
旧町名を復活してくれないかなぁ、といつも思ってしまう文京区の街角ですが、古い地名を守る地元の人々の意気が感じられ、なんとなく心地良い文京区であります(^_^)v。

【追記】消えゆく朝陽館本家

外記坂を登ると正面に時代を感じる古い建物が見えてきます。朝陽館本館ではなく朝陽館本家。古すぎて創業ははっきりとしませんが、明治37年にはそこにあったとのことで、関東大震災や大東亜戦争をくぐり抜け、生き残ってきた旅館です。今年(2016年)3月、補修を施す大工さんも見当たらないことから、維持が難しく、閉館するそうです。

朝陽館本家

温泉街にあるような旅館が東京のど真ん中、文京区本郷で、数々の人間ドラマを支えてきたかと思うと惜しい限りです。

この度、機会があり、旅館内部をチラ見させていただきました。ここに記憶に刻む意味で追記させていただきます。

朝陽館本家玄関
朝陽館本家玄関
朝陽館本家玄関広場
朝陽館本家玄関広場。
朝陽館本家ヒサシ
部屋入口にはヒサシ、飾り柱が付いていてオシャレ。
朝陽館本家玄関ラウンジ
朝陽館本家玄関ラウンジ
朝陽館本家大時計
朝陽館本家大時計、「出入商人一同」が時代を感じさせてくれます。
朝陽館本家廊下
朝陽館本家廊下
朝陽館本家階段
朝陽館本家階段。かなり危なっかしい。
朝陽館本家洗面台
朝陽館本家洗面台。キレイに整頓されています。窓のデザインがグッド。

修学旅行宿泊の定番。私の友人、クマさんは中学の修学旅行で泊まり、他校の生徒とケンカしたといいます (≧∇≦)。
高校サッカー、スター選手の「追っかけ」でここを訪れたという方もいます。人それぞれの思い出が詰まった場所です。
広島カープの対ジャイアンツ戦宿泊先、手塚治虫先生がカン詰めにされたなど、数々の逸話が残っています。
おつかれさまでしたm(_ _)m。

武家由来の坂道は他にも多々あります。

武家の名がつく坂2ー忠弥坂はあったのか?
武家の名がつく坂3ー壱岐坂
文京区服部坂のメジャーじゃないけどオモロなポイント
安藤坂の大きなカーブはなぜ?

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