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謎多き数々のキリシタン坂


江戸時代前期、この坂を降りるとキリシタン屋敷があったのでキリシタン坂(切支丹坂)。傍に庚申塚があったので別名、庚申坂とも言います。区の坂名説明板でも庚申坂となってます。
黒歴史は隠したいものなのでだれともなく自然と名称変更したのだと思います。
そもそも、こんな崖に道を作る必要があったでしょうか。
それはキリシタン屋敷の入口があったから必要だった、ということでしょう。
江戸時代後半になると隠れキリシタン自体の存在も薄れ(幕府が隠れキリシタンの存在を黙認したとの説もある)キリシタン屋敷もその役目を終えて消えて行きます(幕末は隠れキリシタンよりも黒船、開国でたいへんだったのかも)。
キリシタン屋敷が無くなったので坂の名前も変わったのかな?とも言えます。

庚申坂看板
文京区の説明板では庚申坂となっている

古地図でみると

キリシタン屋敷(天保十四年岡田屋版)1843年キリシタン屋敷の表記があります
天保十四年(1843年)岡田屋 御江戸大絵図

1843年、キリシタン屋敷の表記があります。

古地図:嘉永七年尾張屋刊 江戸切絵図 1854年、キリシタン屋敷が無くなっている。キリシタン屋敷を守っていたという七人の役人の七軒屋敷の表記があります。
嘉永七年(1854年)尾張屋刊 安政年間改 江戸切絵図

幕末になるとキリシタンサカの表記はありますが、キリシタン屋敷が消滅しています。キリシタン屋敷を守っていたという七人の役人の七軒屋敷の表記は残っています。その他、銃練場の表記もあり、幕末の緊張が伝わってきます。
今では丸の内線が高架を走り、隧道ができ、時代とともにずいぶんと変遷のある場所です。

隧道からみたキリシタン坂
隧道からみたキリシタン坂

明治になって、この坂のことを夏目漱石は木々が生い茂り、昼間でも暗く気味が悪い坂だと言ってます。
志賀直哉はこの坂を史上初めて自転車で下り、あまりに急すぎて(当時はブレーキ無し?)、対面の民家に突っ込んだと自伝に書いています。それぞれに強烈な印象を与える坂だということは確かです。

この辺りにはキリシタン坂と呼ばれる坂は他にもあって、坂マニアの間ではどれが本当のキリシタン坂か論争になっています。他のキリシタン坂を見てみましょう。

隧道から見た文京区がいう切支丹坂
隧道から見た文京区がいう切支丹坂

文京区教育委員会がいう
キリシタン坂

文京区の説明板ではこちらが本当のキリシタン坂となっている坂。地下鉄丸の内線の隧道をくぐった向こう側の坂ですが、明治の地図を見るとこの坂はまだ無く、文京区がいう庚申坂が切支丹坂となっています。
隧道の向こう側の坂は明治以降に開削された新道ということになり、志賀直哉が降りたのは右側の坂ということになります。
まだ階段坂ではなく、急峻さがわかります。よく見ると突っ込みそうな対面の民家もあります(≧∇≦)。

その後、よく調べてみると、この坂がキリシタン屋敷への入口であったら、キリシタン坂と呼んでもいいのではないかと思うようになりました。

 icon-arrow-circle-right 文京区公認のキリシタン坂の怪をご参照ください。

古地図:切支丹坂 明治7-17年 5千分の1東京図測量原図より
切支丹坂(明治7-17年 5千分の1東京図測量原図より)

切絵図にある漢字で切支丹坂

もうひとつのキリシタン坂

嘉永七年尾張屋刊江戸切絵図「礫川牛込小日向絵図」に漢字で「切支丹坂」としっかりと書いてあります。しかも階段を表す表記になっています。
キリシタン屋敷は別名、山屋敷とも呼ばれ、小日向台地の上にあり、神田上水の流れる谷側の下町から、この坂を走っていくと確かに、キリシタン屋敷比定地に近いと体感できるのであります。
ひょっとするとこの坂はキリシタン屋敷の裏口への近道だったのでしょうか。発音は同じで、カタカナと漢字で区別していたのか?謎です。
それにしても、ここからだと登り坂が続き、かなりハアハアと息があがり、いいトレーニングになります。自転車も押して登ってますよ (≧∇≦)。

古地図:切支丹坂(嘉永七年尾張屋刊江戸切絵図「礫川牛込小日向絵図」)
漢字で切支丹坂。嘉永七年(1854年)尾張屋刊江戸切絵図より

地下鉄丸の内線車両が登ってきたキリシタン坂

丸の内線が出来たころ、キリシタン坂をトレーラーに乗せられた丸の内線の車両が登って車庫に入ってきたとメトロの資料で言っています。そのとき、この無名の坂をキリシタン坂と言っています。地下鉄車両が登ってくるなんて、すごい光景ですね。写真左の白い建物がメトロの車庫です。左の石垣は慶喜公屋敷跡です。

無名の坂(キリシタン坂)
無名の坂(キリシタン坂)

【追記】
キリシタン坂の由来になった切支丹屋敷跡からイタリア人宣教師シドッチの遺骨が発掘されました。
詳しくはこちらで。

 icon-arrow-circle-right 切支丹屋敷とシドッチ神父

 


浄瑠璃坂と堀部安兵衛


江戸三大仇討ちの一つ、浄瑠璃坂の仇討ち

江戸三大仇討ちの一つ、「浄瑠璃坂の仇討ち」は、少しばかりマイナーです。

寛文十二年(1672年)、浄瑠璃坂上、仇敵をかくまう鷹匠屋敷に夜分、火事装束の40数名が討ち入る事件が発生します。

宇都宮藩を脱藩した奥平源八が徒党を組み、父の仇である同藩の元藩士奥平隼人を討ったという事件です。

浄瑠璃坂事の起こりは、数年前の宇都宮藩の法要での些細な口論からの刃傷事件。

一族の内輪喧嘩のように見えるし、浄瑠璃坂では本懐を遂げることができずに、帰る途中、神楽坂下、牛込御門付近まで追ってきた仇敵を討ちとるなど、話が複雑なことがイマイチマイナーな原因です。

がしかし、30年後の赤穂浪士討ち入り事件のお手本になったとされています。
夜間、火事装束、40数名、討ち取り後に幕府に出頭など、多くの点が酷似しています。

高田馬場の決闘で名を馳せ、時代劇、講談等で「喧嘩安兵衛」として有名な赤穂四十八士の一員、堀部安兵衛(当時は中山安兵衛)は浄瑠璃坂上、鷹匠町近くの納戸町に住み、牛天神下網干坂の堀内道場に通っていました。
彼は近くで起きたこの事件のことをよく知っていて、参考にしたと想像できます。
また、高田馬場の決闘では着物の帯を切られ難渋したので、本所での討ち入りの際は帯ではなく鎖を巻いていたと云います。

講談では八丁堀から神楽坂比丘尼坂、矢来下、馬場下まで駆け抜ける壮絶なランナーとして描かれています(^^*)。

夏目坂と漱石先生と堀部安兵衛を参照

牛天神下の網干坂と堀部安兵衛の堀内道場を参照

新宿区矢来町の比丘尼坂の比丘尼とは?を参照

古い町名が残るこの辺り

この辺りは納戸町払方町鷹匠町と江戸時代から町名が変わらない地域です。
太平洋戦争中、空襲を受けたとき、地元の方々が尽力、消火活動のおかげでこの辺りは焼けずにすみ、その恩恵で古い地名がそのまま残ったといいます。

古地図を見ると

今の鷹匠町のところに「タカ」「タカイ」「タカムロ」と鷹に関連する苗字が多いのがおもしく、ハラヒカタ丁、ヲナンド丁と現在も町名が変わっていません。

古地図:天保十四年(1843年)岡田屋版 御江戸大絵図より浄瑠璃坂
天保十四年(1843年)岡田屋版 御江戸大絵図

江戸時代の坂道番付をみると「小結」。

江戸の坂道、橋番付(クリックで拡大)

大関「神楽坂」、関脇「九段坂」と納得のラインアップですが、小結 「市ヶ谷浄瑠璃坂」とあります。

いまではあまりメジャーではありませんが、当時は、人形浄瑠璃を上演する小屋が何件もあったと云い、有名な坂でした(余談ですが、私の大好きな切支丹坂が張り出しています)。

浄瑠璃坂は江戸黒歴史の一つ、江戸市中引き回しコースの一部になっており(ごみ坂経由説もあります)、浄瑠璃小屋の見物などで、かなりの通行量があったと思われますが、今は住んでみたいような閑静な住宅地となっています。

新宿区の二つのゴミ坂と江戸市中引き回しコースを参照

古写真:浄瑠璃坂
古写真:浄瑠璃坂

明治の古写真をみても、この頃から閑静な住宅地という趣が感じられます。

古写真:払方町
古写真:払方町