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新宿区の二つのゴミ坂と江戸市中引き回しコース(後編・五味坂、袖摺坂)

icon-arrow-circle-left新宿区の二つのゴミ坂と江戸市中引き回しコース(前編)からの続き

走ってみると、、、

市ヶ谷のゴミ坂から牛込神楽坂のゴミ坂まで走ってみると、なっ、なんと!このルートが江戸市中引き回しコースと同じだったのです。

なるべく分かりやすい道でと考え、走ると江戸市中引き回しコースとカブっているではありませんか!

古地図:江戸市中引き回しコースの一部
江戸市中引き回しコースの一部。矢印が二つのゴミ坂。

ビックリして、これはなぜかと考えてみると、、、
市中引き回しの場合、見せしめのために、多くの人々がいる町人地を通らねば意味がないということ。

分かりやすい道とは古くから開けていた道で今も広い道、決して裏路地ではないのです。
そのかわり人が多いので走りづらいのですが。

市中引き回しの行列には、多くの人々がついて回ったといいます。行列は人の多い寺社の前(例:この辺りでは市谷八幡、横寺町)を通ったり、賑やかな歓楽街(例:この辺りでは浄瑠璃坂神楽坂)を通ったりと、お江戸観光にはもってこいだったのです。
参覲交代で地方から来た人もついて回ったという話もあります。

ブラタモリでタモリは引き回し行列は浄瑠璃坂を登って、と言っているように諸説ありますが、ここでは町人地が多い長延寺坂ルートを採用しました。

浄瑠璃を演ずる小屋が多くあったという浄瑠璃坂も観客が多く、捨てがたいルートです。想像するとゴミ坂(芥坂)が雨でぬかるんでいて登れないときは階段坂であった浄瑠璃坂を登ったとも考えられます。

しかしながら、多くの見物人がついて回るとなると、心配なのが、トイレです。大江戸線牛込神楽坂駅近くのもう一つのゴミ坂には、現在、公衆トイレがあります。

牛込神楽坂の五味坂

五味坂の公衆トイレ

公衆トイレの上が五味坂、横が袖摺坂、メインストリートは弁天坂です。弁天坂もゴミ捨場の前を通るので芥坂の別名があります。

想像してみると、、、

もしもお花畑だったところに公衆トイレを作ろうとすると、住民が猛反対するでしょう。

もともと、ゴミ捨場、その近くに公衆トイレがあった場所に区が区営の公衆トイレを整備しますと言ったら、だれも反対しません。むしろ大歓迎です。

ここはお江戸の頃、ゴミ捨場と公衆トイレがあったのだろうと想像できます。

浮世絵:妻恋ごみ坂の景 歌川広重
妻恋ごみ坂の景 歌川広重

浮世絵にもゴミ坂と公衆トイレが描かれています。
衛生上、ゴミ捨場と公衆トイレは必ずまとめて近くに存在していたはずです。市中引き回しコース上に点々とゴミ坂と公衆トイレがあったはずです。

古地図:嘉永七年(1854年)江戸切絵図
嘉永七年(1854年)安政四丁巳年 (1857年)改 尾張屋刊 江戸切絵図

青矢印が五味坂です。
古地図をみると箪笥町という大きな町人地を背にしています。
大名屋敷、有力な旗本御家人は敷地内にゴミ穴を掘り、ゴミを処理していたのですが、町人はそうはいきません。

自然とゴミ捨場は必要となり、そこは人目に付かないところ、つまりは目線より下になる下った坂、ゴミを投げ捨てることができる崖が選ばれることになるのです。

この地形、面白いことにゴミ捨場を避けて通れるようなルート、袖摺坂(赤矢印)もあります。

袖摺坂
袖摺坂

狭い坂で往来の人が袖を擦り合わせるので袖摺坂といいます。
急坂ですが、こちらを通れば、ゴミ、トイレを見ずに通過できたと思われます。
しかし、切絵図をみると、この坂、今とずいぶん長さが違うように思います。

古地図:寛文10-13年(1670-73)新版江戸大絵図
寛文10-13年(1670-73)新版江戸大絵図

江戸幕府公式地図で、オランダの測量技術を使って作成されています。なのでかなり正確です。
袖摺坂は階段坂の表記で長いです。

古地図:明治初期の五味坂 明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より
明治初期の五味坂 明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より

明治初期の地図をみると、なるほど、五味坂(青矢印)脇に崖があり、袖摺坂(赤矢印)はいまより奥のほうから斜面を登る地形になっています。

調べると文化文政期の「御府内備考」に記述がありました。

坂、上り凡そ十間程、右町内(箪笥町)東の方肴町境にこれ有り。里族袖摺坂または乞食坂とも唱え申し候。袖摺坂は片側高台片側垣根にして、両脇とも至ってせまく、往来人、通り違いの父子、袖摺合わせ候。

乞食坂ってぇ!、、、ビックリ!
しかもイメージ正反対の名前たちではありませんか。

「上り凡そ十間程」、18メートルですから、今より長いです。
「片側高台片側垣根」といっていますので、垣根で目隠して、ゴミ置場は見えないようになっていたのです。
しかも「乞食坂とも唱え申し候」って理由こそ述べてはいませんが、なんとなく想像できます。

いやはや、江戸市中引き回し、ゴミ坂以上の黒歴史が意図せず、出てきてしまいました。

せっかく袖摺坂というロマンある名前を冠しているので、これ以上の詮索は止めておきます。TVドラマで恋人が肩を寄せ合って登っているような情緒ある坂なので、暗い過去は封印です(/∇\*)。

キリシタン屋敷周辺同様、ディープな変遷を持つエリアですね。気をとりなおしてディープな周辺をみてみましょう。

尾崎紅葉旧居跡

尾崎紅葉旧居跡
尾崎紅葉旧居跡
尾崎紅葉(1867~1903)が明治24年(1891)から明治36年(1903)に死去するまでの12年間居住し、代表作の「金色夜叉」など多くの作品を執筆した所である。
 紅葉は鳥居家の母屋を借り、「十千万堂」と称した。2階の8畳と6畳を書斎と応接間にし、1階には泉鏡花などが起居したこともあり、近代作家が育った重要な場所である。
 当時の家は戦災で焼失してしまったが、鳥居家には今も紅葉が襖の下張りにした俳句の遺筆が2枚保存されている。
 平成4年(1992)8月
 東京都新宿区教育委員会

建物こそ違っていますが、紅葉先生終焉の地です。神楽坂に近いので相馬屋の原稿用紙を使っていたのも納得できます。

初冬やひげそりたてのをとこぶり 十千万

はしたもののいはひ過ぎたる雑煮かな 十千万堂紅葉

これらの二句は失敗作なので襖の下張りにしてしまったのでしょうか?
ほのぼのして良いと思いますが。

芸術倶楽部跡・島村抱月終焉の地

芸術倶楽部跡・島村抱月終焉の地
芸術倶楽部跡・島村抱月終焉の地
演出家島村抱月(1871~1918)が女優松井須磨子(1886~1919)とともに、近代劇の普及のため大正2年(1913)7月に創設した芸術座の拠点芸術倶楽部の跡である。
 抱月は本名を滝太郎といい、島根県に生れ、東京専門学校(現早稲田大学)文学部を卒業した。その後同校講師となりイギリス・ドイツに留学、帰国後は評論家・演出家として活躍した。
 明治39年(1906)には、坪内逍遥の文芸協会に参加し、西欧演劇の移植に努めたが、大正2年(1913)内紛から同協会を脱会し、芸術座を組織した。その拠点芸術倶楽部は、木造2階建て、大正4年(1915)の建築であった。
 抱月は大正7年(1918)11月15日、流行性感冒から肺炎を併発し、この倶楽部の一室で死去した。享年は47歳であった。傷心の松井須磨子は翌大正8年(1919)1月5日この倶楽部で抱月のあとを追った。これにより芸術座は解散された。
 平成3年(1991)11月
 東京都新宿区教育委員会

何度も走っていたのですが、これは見逃していました。
インフルエンザで亡くなるなんて、私も気をつけよう。

現在、芸術倶楽部の建物はなく、それを示す説明板があるだけです。おばあちゃんが「カチューシャの唄」を歌っていたのを思い出します。

なんともディープなエリアでしたが、お江戸は世界的に見ても屈指の衛生都市、リサイクル都市だったと云われいます。

なにか汚い感じはしますが、生活するため、衛生を保つためにはゴミ置場、公衆トイレは必要だったのです。今では暗い過去を隠している坂が多いですが、決して恥ずべきことではないと思います。

ゴミ坂を考察した以下のページもご参照ください。

庚嶺坂は幽霊坂?
庚嶺坂(ゆれいざか)の多すぎる別名

文京区には二つの幽霊坂があります。
文京区の二つの幽霊坂についての考察

芥坂の別名を持っています。
立爪坂の別名と歌川広重、スケッチの場所

神社の裏に芥坂。
新宿区の御殿坂と筑土八幡神社

胸突坂にも疑惑が。
胸突坂と神田川

もとはもっと多くのゴミ坂が存在したはずですが本名を隠しているケースもあり、ゴミ坂探しも面白いものがあります。

 

江戸川乱歩「D坂の殺人事件」の団子坂

団子坂エリアは菊坂と同じく文豪の香りが漂うエリア。明治の頃は菊人形興行で栄えたといいますが、江戸時代はというと、、、

嘉永六年(1853年)「小石川谷中 本郷絵図」(団子坂)
嘉永六年(1853年)江戸切絵図「小石川谷中 本郷絵図」

上のほうに「ダンコサカ」とあり、都市の郊外、耕作地といったところでしょうか。

団子坂説明板

時代とともに、住宅地へと変貌し、多くの文豪(鴎外先生、漱石先生、光太郎先生などなど)が住み、物語に団子坂を登場させています。
その中で江戸川乱歩先生にスポットをあててみます。

短編推理小説「D坂の殺人事件」の検証

D坂とは団子坂のこと。乱歩先生は大正時代、団子坂で三人書房という古本屋を営んでいました。団子坂を舞台にした「D坂の殺人事件」をここで物しています。

その三人書房の跡地はというと、、、

三人書房の跡地と乱歩先生の描いた三人書房
三人書房の跡地と乱歩先生の描いた三人書房

今はパーキングになってるし、これは団子坂というより、団子坂上近くの平地です。
D坂の殺人現場である古本屋は蕎麦屋、足袋屋、古本屋、時計屋、お菓子屋の5軒並びの真ん中。

てっきり殺人現場の古本屋は三人書房の場所がモデルかと思ったら、隣は道です。

大正期の地図でみると、、、

三人書房の位置(大正5-10年 陸地測量部2万5千分の1地形図
三人書房の位置(大正5-10年 陸地測量部2万5千分の1地形図

やはり、隣は道、しかもトイメンはお寺です。

これは小説なので妄想の街並みです。
推理小説なので街もトリック用に作り変えなきゃ話が構築できません。

小説の中のD坂の描写はというと、、、

以前菊人形の名所だった所で、狭かった通りが市区改正で取拡げられ…
明治末の地図と大正の地図
明治末の地図と大正の地図

確かに広くなってます。明治の狭い道の頃はこんな感じ、、、

新撰東京名所図会(明治40年)団子坂菊人形興行
新撰東京名所図会(明治40年)団子坂菊人形興行

これは狭い!道幅5メートルだったらしく、両脇からの幟(ノボリ)を見ると太閤記、弁慶五条の橋、八犬伝とオモロそう。

古写真:菊人形(高田の馬場の決闘)
古写真:菊人形(高田の馬場の決闘)
古写真:明治37年頃の団子坂
古写真:明治37年頃の団子坂

このくらいの狭さが見物にはちょうど良いかと思われます。
漱石先生の「三四郎」ではヒロインがこの雑踏で気分が悪くなっています。

「D坂の殺人事件」は、大正時代のお話。
菊人形も衰退し、道も広くなり、、、

主人公「私」と明智小五郎は「白梅軒」というカフェで冷しコーヒー(笑)をすすっています。

D坂の向かいの古本屋をボォーと眺めているのですが、異常を察知した二人は古本屋のおかみさんが殺されているのを発見!「私」はおかみさんの幼なじみで第一発見者である明智小五郎を犯人ではないかと疑うのですが、、、

髪の毛ボサボサの明智小五郎が初めて登場した記念すべき作品です。小説の中で古本屋並びのお店が証言を述べていますが、密室殺人の匂いが。。。

蕎麦屋旭屋、足袋屋、古本屋(殺人現場)、時計屋、お菓子屋の並びになっていて、それぞれのお店は裏口を出ると路地で繋がっている。そして路地にはアイスクリーム屋の設定。

真新しいマンションも建ち並び、当時とはまるで変わっていますが、何かこのあたりで作品の痕跡はないかと探すと、、、

巴屋
巴屋

団子坂上の通りで創業天保元年のお蕎麦屋さんを発見!
この歴史あるお蕎麦屋さんなら、都電を降りて三人書房へ帰る途中に乱歩先生は立ち寄っていたのかもしれません。。。
と、思いきや、暖簾分けでこの地に来たのは昭和5年。
こりゃ、あかん(; ̄◇ ̄)

喫茶店「乱歩」
喫茶店「乱歩」

不忍通りを挟んで団子坂の反対にある三崎坂途中の喫茶店「乱歩」。
散歩、D坂より308歩って、なんでも乱歩の歩がついてます。店主が乱歩ファンらしい。

菊見せんべい
菊見せんべい

おっ、これはレトロな店構えのおせんべえ屋さん。
創業明治8年、菊人形見物のお土産用におせんべいを売っていたそうです。これも三崎坂です。

時代も違うし、事件現場検証は難しいですね。
地図で気になるものを探索してみます。

明治末の地図と大正の地図
明治末の地図と大正の地図

明治、大正とも上のほうに池が描かれています。行ってみると今も公園に池がありました。

文京区HPによると、、、

須藤公園は、江戸時代の加賀藩の支藩の大聖寺藩(十万石)の屋敷跡。その後、長州出身の政治家品川弥二郎の邸宅となり、明治22年(1889年)に実業家須藤吉左衛門が買い取りました。昭和8年(1933年)に須藤家が公園用地として東京市に寄付、昭和25年(1950年)に文京区に移管されました。
須藤公園
須藤公園。カッパに注意!の看板がオモロ。

大名屋敷跡の公園には滝まであって都会に渓流が存在してます。山に行きたくなってしまいますね。

滝(須藤の滝)
滝(須藤の滝)

HPによると、滝は午前10時から午後4時まで流れているとのこと。
自然の滝ではなかったのか、囧rz
そりゃそうです、源流が無いもの。

江戸期の団子坂

「D坂の殺人事件」の現場検証はうまくいきませんでしたが、気を取り戻してお江戸の団子坂をみてみましょう。

嘉永七年(1854年)安政四丁巳年 (1857年)改 尾張屋刊 江戸切絵図「東都駒込邉絵図」
嘉永七年(1854年)安政四丁巳年 (1857年)改 尾張屋刊 江戸切絵図「東都駒込邉絵図」

この古地図ではAが団子坂ですが、坂下に「シオミサカダニ」と表記があり、「潮見坂」とも呼ばれたいたことが伺えます。
海が見えていたので、坂上の鴎外先生旧居のネーミングが「観潮楼」(現森鴎外記念館)なのも納得できます。

やたらと「御林」「植木屋多シ」の文字が多く、お江戸の郊外という雰囲気が漂います。

しかも気になるのが「四季花屋敷 紫泉亭 眺望好シ」の表記。

名所江戸百景 団子坂花屋敷 安政三年(1856年)歌川広重画
名所江戸百景 団子坂花屋敷 安政三年(1856年)歌川広重画

紫泉亭については斎藤月岑の「武功年表」にあり、

四時の花を栽盆の如く育て、崖の辺りに茶亭を設け眺望良し、諸人遊覧の所となって日毎に群衆する者多し。

団子坂花屋敷は嘉永五年(1852年)開園といい、観光リゾート地として発展途上だったようです。その勢いが、植木職人の多いこの地の団子坂菊人形に繋がるのですね。

花屋敷といえば、今では浅草ですが、浅草花屋敷、両国国技館で電気仕掛けの菊人形興行がはじまり、団子坂のそれは徐々に人気を失っていったといいます。

団子坂花屋敷はのちに一区画が、元祖「藪蕎麦」に生まれ変わり盛り返しますが、明治期、そばでつくった財産で、相場に手を出し失敗!姿を消したようです。
神田藪そばの本家が団子坂だったなんて知らなかったです。

光源寺大観音

「東都駒込邉絵図」でもう一つ、B地点の「光源寺大観音」の表記。元禄十年(1697年)造立の御丈約5mの十一面観音像。惜しいことに空襲で焼失してしまいましたが、平成5年にもっと大きく御丈6m余の御像として再建されています。こりゃ、ピカピカで立派です!

興味深い団子坂エリア、まだまだ探索不十分です。「D坂の殺人事件」の現場検証はうまくいかなかったけれど、漱石先生、鴎外先生のエピソードも探索中です。