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文豪の歩いた鼠坂


風情も歴史も勾配もありありの鼠坂は文京区でも有数の名坂で小説にも登場します。

森鴎外先生の短編小説「鼠坂」。中国戦争で悪事を働いたお金持ちが、この坂の中腹にあったお屋敷で奇怪な死を遂げるという物語。陸軍の上官を揶揄したものだと云われています。
明治期にはまだ舗装されてなく、雨でも降ればネズミくらいしか登り降りできないだろうと小説の中で言っています。

今は階段坂ですが、長いので全力坂すればかなりキツイです。
ときどき学生さんが鍛錬しています。
なんだか自動車が通れない坂って風情があります。

※森鴎外「鼠坂」より
 「小日向から音羽へ降りる鼠坂と云ふ坂がある。鼠でなくては上がり降りが出来ないと云ふ意味で附けた名ださうだ……人力車に乗って降りられないのは勿論、空車にて挽かせて降りることも出来ない。車を降りて徒歩で降りることさへ、雨上がりなんぞにはむづかしい……」
観潮楼時代の鴎外先生
観潮楼時代の鴎外先生

さて、鴎外先生と言えば、団子坂上の観潮楼(現:森鴎外記念館)に、お住まいだったので「団子坂」を素材にしても良さそうなものです。

しかしながら、鴎外先生はなぜ、この鼠坂を知っていたのか?
そこが、とても気になります。
(?_?)

観潮楼の門跡
森鴎外記念館には観潮楼の門跡が残されています。

短編小説「鼠坂」は明治45年の作品です。
その頃、鴎外先生は陸軍軍医総監・陸軍省医務局長という軍医の中ではトップの地位にありました。

明治後期の地図を見ると、、、

赤矢印が鼠坂。青ラインは音羽川。明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図より
赤矢印が鼠坂。青ラインは今は暗渠の音羽川。明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図より(クリックで拡大)。

坂上近く、今のお茶の水女子大学周辺に、兵器支廠(ししょう)とあります。兵器支廠とは兵器・弾薬・機材などの補給を担当した部署です。かなり大きな敷地です。ここで健康診断でもしたのかもぉ?と思ったのですが、軍医のトップが健康診断をするわけがありません。
「陸軍の上官を揶揄」?ということは、鴎外先生が若い時代に訪れていたのかもしれない!そう思い、

明治初期の地図を見ると、、、

八幡坂近く、今では鷺坂のある久世山に大きく「陸軍副病院」とあります。

明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より陸軍副病院
明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より陸軍副病院と、左上に鼠坂の表記。

副病院、本病院は、支店、本店のようなものです。
鼠坂の近くには、まだ、兵器支廠はありません。
鴎外先生は、陸軍副病院を訪れた可能性が非常に高いです。
音羽地区、音羽川沿いを歩きながら、または坂上から、この圧倒的な風貌の鼠坂を見て興味を抱いたのかもしれません。

鼠坂
鼠坂坂上から
古地図鼠坂
嘉永七年(1854年)安政四丁巳年 (1857年)改 尾張屋刊 江戸切絵図

お江戸の切絵図では「子ツミサカ」とあります。鼠坂は別名「水見坂」なのですが、切絵図、明治期の地図をみれば、その由来がわかります。
坂下を今は暗渠の音羽川が流れています。音羽川は江戸時代、鼠ヶ谷下水(川の下流部の意味)とも呼ばれていて、鼠坂の名の由来だという人もいます。

坂上と今の鳩山会館辺りには御賄組(おまかないぐみ)とあります。御賄とは江戸城に野菜を調達していた役人、一説には毒見役(>ω<)が組屋敷を構えていた場所です。

練馬大根グーグルマップで見ても整然とした町割が残っているのがわかります。新宿の百人町もそうですね。
場所柄、清戸街道(練馬方面)からの野菜を管理していたようです。

余談ですが、練馬大根って最近あまり見かけませんねぇ。
私の子供(昭和30年代)のころは先が太い、いかにも大根足を想像させるような練馬大根が主流でした。
今の青首大根はスラリとしていて、かえって綺麗な足のイメージ。
青首大根は収穫するときに抜きやすいので主流になったとのことで、納得!

漱石先生の大ピンチ!

松山中学時代(漱石先生28歳くらい)の写真夏目漱石先生も、大学生のころ、鼠坂を降りるとき、急にお腹が痛くなったと日記に書いています。お漏らししちゃたらしー(°Д°)
(そんなこと日記に書くなよ〜)

松山中学時代(漱石先生28歳くらい)の写真は、なかなかのイケメンですが、お腹が痛そうなお顔です。

漱石先生の年譜をみると、第一高等学校(東大)入学前は親友の左五と一緒に受験勉強のため、新福寺に下宿していたのですが、入学後の一時期、実家に戻っています。
実家は新宿区喜久井町(喜久井町は夏目家の家紋が由来)の夏目坂にありました。東大から喜久井町、鼠坂を通ると多少、遠回りのように思いますが散歩好きな漱石先生なら、、、
どこか寄り道してたのかな?。

井桁に菊
井桁に菊

【追記】鼠坂の主

FBグループの方の投稿で鼠坂の主がいるといいます。
ペイントの鼠とマスコットが、、、
興味シンシンで走っていってみると、ほんとにありました。

鼠坂のねずみたち
鼠坂のねずみたち

鼠坂のねずみいやはや、私は歴史ばかりみて現実を見ていなかったのか、もしくは走っていると見逃してしまうのか?
しかしながら、こんな小粋なセンスの持ち主にお会いしたものです。


謎多き数々のキリシタン坂


江戸時代前期、この坂を降りるとキリシタン屋敷があったのでキリシタン坂(切支丹坂)。傍に庚申塚があったので別名、庚申坂とも言います。区の坂名説明板でも庚申坂となってます。
黒歴史は隠したいものなのでだれともなく自然と名称変更したのだと思います。
そもそも、こんな崖に道を作る必要があったでしょうか。
それはキリシタン屋敷の入口があったから必要だった、ということでしょう。
江戸時代後半になると隠れキリシタン自体の存在も薄れ(幕府が隠れキリシタンの存在を黙認したとの説もある)キリシタン屋敷もその役目を終えて消えて行きます(幕末は隠れキリシタンよりも黒船、開国でたいへんだったのかも)。
キリシタン屋敷が無くなったので坂の名前も変わったのかな?とも言えます。

庚申坂看板
文京区の説明板では庚申坂となっている

古地図でみると

キリシタン屋敷(天保十四年岡田屋版)1843年キリシタン屋敷の表記があります
天保十四年(1843年)岡田屋 御江戸大絵図

1843年、キリシタン屋敷の表記があります。

古地図:嘉永七年尾張屋刊 江戸切絵図 1854年、キリシタン屋敷が無くなっている。キリシタン屋敷を守っていたという七人の役人の七軒屋敷の表記があります。
嘉永七年(1854年)尾張屋刊 安政年間改 江戸切絵図

幕末になるとキリシタンサカの表記はありますが、キリシタン屋敷が消滅しています。キリシタン屋敷を守っていたという七人の役人の七軒屋敷の表記は残っています。その他、銃練場の表記もあり、幕末の緊張が伝わってきます。
今では丸の内線が高架を走り、隧道ができ、時代とともにずいぶんと変遷のある場所です。

隧道からみたキリシタン坂
隧道からみたキリシタン坂

明治になって、この坂のことを夏目漱石は木々が生い茂り、昼間でも暗く気味が悪い坂だと言ってます。
志賀直哉はこの坂を史上初めて自転車で下り、あまりに急すぎて(当時はブレーキ無し?)、対面の民家に突っ込んだと自伝に書いています。それぞれに強烈な印象を与える坂だということは確かです。

この辺りにはキリシタン坂と呼ばれる坂は他にもあって、坂マニアの間ではどれが本当のキリシタン坂か論争になっています。他のキリシタン坂を見てみましょう。

隧道から見た文京区がいう切支丹坂
隧道から見た文京区がいう切支丹坂

文京区教育委員会がいう
キリシタン坂

文京区の説明板ではこちらが本当のキリシタン坂となっている坂。地下鉄丸の内線の隧道をくぐった向こう側の坂ですが、明治の地図を見るとこの坂はまだ無く、文京区がいう庚申坂が切支丹坂となっています。
隧道の向こう側の坂は明治以降に開削された新道ということになり、志賀直哉が降りたのは右側の坂ということになります。
まだ階段坂ではなく、急峻さがわかります。よく見ると突っ込みそうな対面の民家もあります(≧∇≦)。

その後、よく調べてみると、この坂がキリシタン屋敷への入口であったら、キリシタン坂と呼んでもいいのではないかと思うようになりました。

 icon-arrow-circle-right 文京区公認のキリシタン坂の怪をご参照ください。

古地図:切支丹坂 明治7-17年 5千分の1東京図測量原図より
切支丹坂(明治7-17年 5千分の1東京図測量原図より)

切絵図にある漢字で切支丹坂

もうひとつのキリシタン坂

嘉永七年尾張屋刊江戸切絵図「礫川牛込小日向絵図」に漢字で「切支丹坂」としっかりと書いてあります。しかも階段を表す表記になっています。
キリシタン屋敷は別名、山屋敷とも呼ばれ、小日向台地の上にあり、神田上水の流れる谷側の下町から、この坂を走っていくと確かに、キリシタン屋敷比定地に近いと体感できるのであります。
ひょっとするとこの坂はキリシタン屋敷の裏口への近道だったのでしょうか。発音は同じで、カタカナと漢字で区別していたのか?謎です。
それにしても、ここからだと登り坂が続き、かなりハアハアと息があがり、いいトレーニングになります。自転車も押して登ってますよ (≧∇≦)。

古地図:切支丹坂(嘉永七年尾張屋刊江戸切絵図「礫川牛込小日向絵図」)
漢字で切支丹坂。嘉永七年(1854年)尾張屋刊江戸切絵図より

地下鉄丸の内線車両が登ってきたキリシタン坂

丸の内線が出来たころ、キリシタン坂をトレーラーに乗せられた丸の内線の車両が登って車庫に入ってきたとメトロの資料で言っています。そのとき、この無名の坂をキリシタン坂と言っています。地下鉄車両が登ってくるなんて、すごい光景ですね。写真左の白い建物がメトロの車庫です。左の石垣は慶喜公屋敷跡です。

無名の坂(キリシタン坂)
無名の坂(キリシタン坂)

【追記】
キリシタン坂の由来になった切支丹屋敷跡からイタリア人宣教師シドッチの遺骨が発掘されました。
詳しくはこちらで。

 icon-arrow-circle-right 切支丹屋敷とシドッチ神父