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湯立坂と銅御殿

東京の坂道ランキングではいつも上位にくる湯立坂。戦後の区画整備を免れたので緩やかなS字カーブを持つことで情緒が生まれています。教育の森公園の木々の緑の脇を通り、石垣も多く、坂の中腹には重要文化財の銅(あかがね)御殿、元大名屋敷の庭園、占春園もあり、雰囲気を盛り上げています。

湯立坂(切絵図)
湯立坂の表記はないが、アミホシサカと氷川社の表記があります。(嘉永七年(1854年)安政四丁巳年 (1857年)改 尾張屋刊 江戸切絵図)

坂下の千川通りは暗渠で、中世のころは海の入江だったところです。千川通りを入江と見立てると、対岸には、白山の網干坂がありますので海の入江だったことは間違いないです。また坂下のある公園の名前は窪町東公園。旧町名からしても坂下は、窪地だったことがうかがえます。

窪町東公園
窪町東公園。旧町名の窪町が使われています。

文京区には、もう一つ、牛天神の網干坂もあり、谷の部分は入江だったところが多いのです。この入江や窪地が湯立坂という名前に関係しています。

湯立坂の由来について

坂上の教育の森公園入口脇に,文京区が設置した標識があります。

湯立坂  ゆたてざか

「里人の説に 往古はこの坂の下は大河の入江にて
 氷川の明神へは河を隔てて渡ることを得ず。
 故に此所の氏子ども 此坂にて湯花を奉りしより 坂の名となれり。」
 (江戸志)
武蔵風土記には,
このあたりのことを簸川原とあり,
アユ,ウナギそしてセリなどのとれる所としている。
事実小石河(千川とも後年云う)が流れていた。

我方(わがかた)を 思ひふかめて 小石河
いづこを瀬とか こひ渡るらむ

道興准皇「廻国雑記」
(文明18年(1484年)6月より3月までの北陸,関東,奥州諸国の遊歴見記)より。

文京区 昭和48年3月

この坂下には千川があり、氷川(今は簸川)神社に渡ることができなかったので,神社の氏子は川の手前で湯花を捧げたため,この名がついたと。

簸川神社
氷川(今は簸川)神社

しかしながら、入江があったとしても、そこに流れ込む川には橋があったはずで、少し遠回りすれば向こう側へは渡れます。どうもおかしい?

一説に、むかし氷川神社の氏子衆は氏子意識が強くて、よそものは入れない。なので氏子以外はこの坂でお湯を沸かし(湯立をし)お茶を飲みながら対岸の氷川神社の桜(花)を愛でたと聞いたことがあります。

湯立湯花の話もこの説のほうがわかりやすく、しっくりきますが、地域エゴはいかんと言うことでしょうか?文京区はこの説を採用しないのが当然ですね。いまの簸川神社はだれでも参拝できるオープンな空間です。

湯花についての私論

湯花とは,湯の沸騰時に上がる泡のことで神社で巫女などがこれを笹の葉につけ,参詣人にかけ浄めたといいます。
沸騰はしてなくとも湯花らしきものは池にもあります。教育の森公園内の占春園はジャングルの様相で池の底からガスが噴き出し泡が立つことがあります。

ジャングルのような占春園
ジャングルのような占春園

占春園の池2

占春園の池
占春園の池

ひょっとすると、湿地帯であったこの辺りはそんな湯花に似た光景が多く、このことを指しているのかも、と妄想しました。清らかな渓流であったとしても落ち込みでは泡立ちます。全くの自説ですが。

占春園案内

※ジャングルのような占春園は元の守山藩主松平家の中屋敷庭園跡ですが、筑波大学が管理し、自然観察の場としているので(自然のなすがままにしているので)ジャングルなのです。決して整備が行き届いていないわけではありません。

銅(あかがね)御殿

この坂で、もう一つ忘れてないけないのが国の重要文化財である銅御殿があり、枯れた味わいを醸し出しています(年数回の公開、申し込み制)。

銅(あかがね)屋敷
銅(あかがね)御殿
湯立坂から見る銅(あかがね)屋敷
湯立坂から遠目に見る銅(あかがね)御殿
銅御殿の門
銅御殿の門

門は砂浜を模してツルツルの石の通路。そして、檜一枚板の門扉。

門の鴟尾
門の美しい鴟尾

門柱

門柱は石に嵌め込まれています。

銅御殿の門を入ると

門を入るとゴツゴツした路面。門前の砂浜イメージから、渓流のイメージに変わります。両脇の石垣は丈夫な組み方で、地震で崩れたことはないのですが、木の根が伸び、その力で崩れることがあるそうです。

銅御殿
銅御殿

大正初期の建築(大正2年(1913)竣工)、千葉の山林王、磯野敬が建てた耐震・耐火性を重視した近代和風住宅です。銅板を至るところに貼ったので、できた時は金ピカだったそうです。関東大震災、戦火も乗り越えた建築は、今でも細部まで歪みがないと云います。

車止めエントランス
車止めエントランス

車止めエントランスの柱はエンタシス。

車止めエントランスの天井
車止めエントランスの天井

エントランスの天井は寺社仏閣でもそうはない凝りようです。

銅御殿の庭石

磨くだけで何百万円もかかったという庭石。

細部まで銅貼り

細部まで銅貼り。銅御殿は文京区が誇る貴重な遺産です。

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石川啄木の八幡坂と今宮神社

八幡坂
八幡坂。左に直角に折れる階段付きの坂
八幡坂(カーブ後も長く続く)
直角カーブ後も長く続く八幡坂。

途中から直角に曲がる味のある階段付きの坂です。直角に曲がって鳩山さんのご実家だった鳩山会館の裏口へとつづく坂です。八幡坂というぐらいなので坂下の神社は八幡様だろうとおもいきや、今宮神社です。
江戸切絵図に表記されている田中八幡は近所の小日向神社にお引っ越しなされて、また近所の護国寺から今宮神社がお引っ越しされてきたらしいです。ややこしいのですが明治の神仏分離が神様の引っ越しシーズンを生み出したのでしょう。

道に石が埋まってます!

今宮神社
鳥居の前の道に石橋の跡?

この今宮神社の社殿前の道に、なにやら石橋らしきものが埋まってます。初めて見たときからあやしいと思っていたんですが、この道、実は音羽川の暗渠なのです。明治の中頃まで音羽川(水窪川)が流れており、川の水を利用して紙漉き業が盛んだったそうです。
「失われた川」は緩やかに傾斜、緩やかにカーブしてて走るのが好きです。ときどき、ガードレールではなく橋の欄干とかが残っているとたまりません。

久世山沿いの音羽川の暗渠の道
かつて久世山(写真右手)に沿って川の流れがありました。
音羽川暗渠の出口
江戸川橋から見えるトンネル。音羽川暗渠の出口?

神(紙)様のありがたいご利益

今宮神社境内にある末社に、天日鷲(アメノヒワシ)神社があります。この神様、紙祖神で明治9年、紙漉き業者一同が商売の発展を願い、この地に勧請したとのことです。神様でなく紙様?失礼しました。 私は髪様にお願い。またまた失礼しましたm(_ _)m。

今宮神社内の天日鷲(アメノヒワシ)神社
紙祖神であらせらるる天日鷲(アメノヒワシ)神社

どおりで近所に出版、印刷業が多いわけです。私のランエリアの中で講談社、凸版印刷、共同印刷とビックネームが。少し足を伸ばせば市ヶ谷の大日本印刷も。中小を合わせれば数限りない。東京都の方針で、というものが強いと思いますが、神(紙)様のスーパーパワーが結びつけたご縁とも言えます。

ふと思ったこと。

私は信心深いわけでないけれども、風邪を引きそうなとき、温かい風呂に入って、くだものを食べて、あとは心の中で神様にお願いする自分がいる。自分ではどうしようもないとき、神様に頼っている。
神様の存在を信じないと言っている人でもなんらかの形で神様と関係を持っているのだと。また神様に助けられているんだと。

神(紙)様のスーパーパワーはあるのかもしれません。

なんとなく匂うゴミ坂臭?

この八幡坂、風貌、地形からして江戸時代はゴミ坂(ゴミ集積場)だったんじゃないかな?と思い、切絵図を見ると、御賄組(幕府の食料管理役)の区画への入口で木戸があり、妄想だけに終わりました。ここには木戸があったのです。
御賄組は幕府へ供給する野菜の管理、一説には毒味をしていたので衛生面からしてもゴミ坂はないでしょう。疑うなら御賄組の区画の北側の鼠坂の方が名前からしてあやしいです。

八幡坂入口(なんとなくゴミ坂っぽい)
木戸があった辺りの八幡坂の入口。なんとなくゴミ坂っぽい?閉ざされた雰囲気が妄想を誘う。


ゴミ坂関連のページ

古地図:八幡坂周辺(嘉永七年(1854年)尾張屋刊 江戸切絵図)
八幡坂周辺 嘉永七年(1854年)安政四丁巳年 (1857年)改 尾張屋刊 江戸切絵図。田中八幡、八幡坂の木戸、ほそーい音羽川に注目。

このあたりは歴史ロマン溢れる名坂揃いです。鷺坂鼠坂大日坂は情緒も勾配もあって、ランして鍛えるのにも最適な坂のあるエリアです。

八幡坂案内板
八幡坂
八幡坂は小日向台三丁目より屈折して、今宮神社の傍に下る坂をいふ。安政四年(1857)の切絵図にも八幡坂とあり。』と東京名所図会にある。
 明治時代のはじめまで、現在の今宮神社の地に田中八幡宮があったので、八幡坂とよばれた。坂上の高台一帯は「久世山」といわれ、かつて下総関宿藩主久世氏の屋敷があった所である。
 文京区教育委員会
 平成5年3月

4度目のランで発見!啄木の足跡。

坂の頂上近くに石川啄木、初の上京下宿跡のプレートがあります。走ってると見逃してしまいます。実際、4度目のランで発見しました。これパッと見、大きい表札か会社の看板にしか見えません。大館光(みつ)さんの家がこの辺りにあったということになります。この八幡坂を啄木もトボトボと歩いたと思うと、ますますこの坂を好きになってしまいます。ロマンがあります。

啄木の下宿跡プレート
わかりずらい啄木の下宿跡プレート。

啄木下宿跡案内

石川啄木初の上京下宿跡
盛岡中学校を卒業直前にして退学した啄木は、文学で身を立てるため、明治35年(1902)単身上京した。そして、中学の先輩で金田一京助と同級の細越夏村の旧小日向台町にあった下宿を訪ねた。明治35年11月1日のことである。
その翌日、近くの大館光(みつ)方に下宿先を移した。
啄木日記には「室は床の間つきの七畳。南と西に橡(えん)あり。眺望大に良し。」とある。
与謝野鉄幹・晶子らに会い、文学に燃焼した日々を過ごしたが、生活難と病苦のため翌年2月、帰郷せざるを得なかった。
文京区教育委員会
平成18年3月

狛犬(宝暦甲戌四年)

今宮神社の狛犬は宝暦四年(1754年)八丁堀の石工、小右エ門さんの作です。中央区八丁堀から、音羽の護国寺、今はここへと来たんですかねえ?よく歩く立派な狛犬さんです。
台座に宝暦甲戌四年とあります。

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