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牛天神下の網干坂と堀部安兵衛の堀内道場

牛坂の項でも少し触れた牛天神下の網干坂ですが、都会の真ん中にあるのに網干坂、それはこの近くまで海の入江だったことを物語っています。
また、忠臣蔵や高田の馬場の決闘で有名な中山安兵衛(のちの堀部安兵衛)が通った直心影流の堀内源左衛門正春の剣術道場が網干坂にあったと云う伝承があります。

実はこの堀内道場、どこにあったのか、わからないのです。
牛天神下にあったのは確かなのですが、牛天神下と言っても広いのです。
安兵衛たちが活躍したのは遠い昔の元禄時代(1688〜1704年っ古っ!)。地図に道場の表記があるはずもなく、古いお話なので、いつの日にから場所が不明に。
江戸三大道場の一つにまで数えられた堀内道場は、牛天神下のどこにあったのか気になる案件です。
私はいつものように変なことに血が騒ぎます。
道場は牛天神下の水道町にあったという伝承なのですが、確認してみましょう。

網干坂の小石川金杉水道町

嘉永七年1854年尾張屋刊江戸切絵図より牛天神下
嘉永七年1854年尾張屋刊江戸切絵図より牛天神下。赤矢印が網干坂、青矢印が堀内道場があったとされる水道丁。

切絵図をみると小石川金杉水道町があります。
網干坂の西側ですね。

網干坂と町は江戸名所図絵にも描かれています。町は牛天神裏門(現在の表門)下にあります。網干坂って階段坂だったんですねえ。今でも急ですものぉ。

江戸名所図会小石川金杉水道丁
江戸名所図会。青矢印が小石川金杉水通丁、赤矢印が網干坂。

網干坂

ここは牛天神門前の傾斜地です(写真左側が旧小石川金杉水道町)。
うーん( ̄^ ̄ ;)、こんな坂で広い剣術道場は出来そうにありませんねぇ。
しかしながら、剣術に詳しい方がおしゃるには、江戸時代の道場は10〜20畳くらいのものもあり、屋敷の一室を道場にしていたという話もあるとのこと。それゆえ道場の場所特定は非常に難しくなっているようです。

所在地不明ゆえ、あそこだ、ここだと様々な説が出てきます。
もしも、小石川金杉水道町以外だとすると堀内道場はどこにあったのでしょうか?
池波正太郎先生の小説「堀部安兵衛」を読むと、、、

立慶橋(隆慶橋)近くの堀内道場

堀内道場は立慶橋の東詰、松平讃岐守下屋敷と通りをへだてた南側にあった。
 このあたりは幕臣の邸宅が多く、以前は斎藤長十郎という旗本の屋敷であったという。
 屋敷がまえは、およそ二百石ほどのもので、片番所つきの長屋門があり、敷地も約六百坪。その中にひろい道場が建てられ、主の堀内源左衛門の住居が、これに接している。

池波先生は堀内道場を神田川に架かる立慶橋近くに想定しています。
創作なのですが、まるで見てきたかのような描写にビックリ!
しかも淡々とした美文で、この想定を史実かと信じてしまうほどです。堀内道場が広かった場合、この神田川近くは平坦地で、よい想定だと思います。
この描写を古地図で検証してみましょう。

延寳8年(1680年)表紙屋江戸方角安見図鑑
延寳8年(1680年)表紙屋江戸方角安見図鑑

時代の近い「江戸方角安見図」で見ると立慶橋(りゅうけいばし)があり、、、
あれ?「堀内道場は松平讃岐守下屋敷と通りをへだてた南側にあった 」と云っているので、松平は北側のはずですが(?_?)。
松平小左近衛か?)」は通りの南側にあります。
この時代、二代松平讃岐守松平頼常、官位は従四位上
近衛権将とあるので「松平小左」が松平讃岐守下屋敷に間違いないでしょう。

池波先生、安兵衛の時代、松平讃岐守下屋敷は位置が違うようですけどぉ〜?
だからと言って池波先生の業績を汚すわけでもなく、小説という創作の世界です。私の捜索とは字が違う(≧∀≦)。

文化江戸図手持ちの地図で調べてみると、1810年代の「文化江戸図」まで「マツ平」は「リュウケイバシ」の通りの南側でした。
松平讃岐守下屋敷幕末近く(嘉永6年1853年尾張屋刊江戸切絵図)になると松平讃岐守下屋敷は大きな表記になり、立慶橋の通りの北側になっています。
とりあえず現地に走る╭( ・ㅂ・)و ̑̑。

現地を捜索

堀内道場は立慶橋の東詰」と云っている立慶橋(今の表記は隆慶橋)はここです。

隆慶橋

立慶橋は今では首都高の高架下、新隆慶橋の脇で瀕死の状態です。古いタイプで風情があるのに消えゆく橋なのでしょうか?
がんばれっ!という思いからランコースとして、私はちょくちょく渡っていました。歴史あるものは残していきたいです。

池波先生の「堀部安兵衛」での描写は

小石川の水戸屋敷の北から西へかけて、江戸川が流れている。
 この川は神田上水の枝流であって、北から西へ、いくつもの橋がかけられているが、江戸川が江戸城の堀へ合流しようとするあたりに舟河原橋があり、その一つ手前の橋を立慶橋とよぶ。
 むかし、このあたりに大橋立慶という武士が住んでいたから、この名があるそうな。

物語の中の安兵衛は、この橋で同じ四十七士の奥田孫太夫と会っています。
もーこんな小説を読むとますます立慶橋を応援したくなります。
当時、納戸町に住んでいた安兵衛が立慶橋を渡り、牛天神下の道場へ通う、というルートは充分考えられます。
しかしながら、この橋見るからに古そうですね。
古写真を探すと、、、

古写真:降慶橋からみる神田川(年代不明)
古写真:降慶橋からみる神田川(年代不明)

隆慶橋橋上から

年代不明の古写真ですが、橋上から神田川をみています。
今では景色、空すらない(*’д’*)。

古写真:昭和25年の凸版印刷同タイプで、300メートル上流の凸版印刷前の橋の古写真があります。
この写真は昭和25年と云っていますので、同時期のものでしょう。

大橋立慶という武士が住んでいたから、この名があるそうな」と云います。
大橋立慶は家光公時代の側近書記官である右筆(ゆうひつ)と云われる人物です。

隆慶橋の表記家光公の上意により、正保3年(1646年)立慶橋の東詰一帯を賜っています。
龍慶町1648年の正保年中江戸絵図に「龍慶町」と云う表示がすでにあります。
また、ややこしいことに大橋立慶は大橋隆慶とも書き、彼のサインは龍慶なので、龍慶橋なんじゃねっ?、という人もいます。「龍慶町」の表記から私も龍慶橋なんじゃねっ?と思います。
今の表記は「隆慶橋」です。

舟河原橋

江戸川が江戸城の堀へ合流しようとするあたりに舟河原橋があり」と云っている舟河原橋の明治40年頃の古写真です。市電が走っていますね。

古写真:舟河原橋
古写真:舟河原橋

舟河原橋

今では、外堀通り飯田橋駅前の交差点です。橋のイメージが全くない!だって歩道橋からみると橋の長さより、幅の方がぜんぜん長いんですものぉ。

堀内道場捜索がすっかり橋の話になってしまいましたが、
もう一つだけm(_ _)m

鎌倉橋

中央区の鎌倉橋です。名前からして、すわっ、古鎌倉街道か?と思うのですが、昔、河岸に鎌倉方面からの荷が着いたので「鎌倉橋」といいます。

鎌倉橋

なんと、この橋には米軍機の機銃掃射の傷跡が残っているのです。生々しい記録が残る遺産です。これが書きたかった。

機銃掃射の跡
機銃掃射の跡

なんだか泣けてくるんですよ、坂道もいいけど、橋にも物語があるんですよね〜(T-T)。
そのうち、橋ものがたりのページを作ろっと(≧∀≦)。
橋の話ができたので、話を戻しましょう。

大名屋敷の跡地

住友不動産ビル

松平讃岐守下屋敷の跡地は幅広な道路で貫かれ、往事の地形ではありませんが、今では住友不動産の大きなビルが建っています。
大きな敷地の大名屋敷跡は、用地買収の手間が省けるので大きな建物が建ちやすいのです。
明治の地図をみると、、、

明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より
松平讃岐守下屋敷の跡地(明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より)

あれ?しっかり民家の地域?、地図右の水戸徳川家の上屋敷は庭園(後楽園)を残して、軍事工場になってます。しかしブルーエリアは用地買収が必要だったようです(≧∀≦)。

お蕎麦屋さて、小説上の堀内道場想定地あたりはというと、、、お蕎麦屋さん?
私なら「蕎麦道場・やすべえ」ってネーミングして宣伝しますが(≧∀≦)。
小説上のお話とはいえ、妄想すれば、歴史に名を残す剣士たちの声が聞こえてきそうです。

結局のところ、安兵衛が通った堀内道場はどこにあったのか、いまでは全くわかりませんが、神田川近くも怪しいのは確かです。
みなさん、何か情報あったら教えてください。

そういえば「やすべえ」って居酒屋、意外と多いですよね。
やはり巷では、忠臣蔵や高田馬場の決闘などの講談話、大酒飲みの喧嘩安兵衛イメージが定着しているようです。
私のイメージだと新潟の新発田出身、新宿区納戸町に住み、文京区牛天神下の堀内道場に通っていた青年剣士、地元のヒーローなのです。

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中央区一石橋、迷子しらせ石の几号水準点

几号水準点界の価値あるお宝、迷子しらせ石

一石橋は江戸城にも、呉服橋、日本橋の商業地にも近く、神田と日本橋を結ぶ、相当通行量の多かった橋と思われます。そんな人通りの多い橋のたもとに江戸っ子たちは迷子尋ね人用に掲示板ならぬ掲示石を立てました。正面に美しい書で「満よひ子の志るへ」(迷子の標)、左面に「たつぬる方」(迷子を捜している人)、右側に「志らする方」(知らせる人)と刻んであります。

几号水準点って何?を参照

一石橋南たもとの迷子しらせ石
正面に「満よひ子の志るへ」

側面上部の窪みに迷子の背格好、年齢などの情報を紙に書いて貼り付けました。投稿欄とコメント。お江戸のコミニュケーションツールです。

2ちゃんねるもFBもツイッターもない時代の人情味あふれる遺物です(同じようなものは人の集まる湯島天神にもあり、そちらは奇縁氷人石といいます)。

一石橋南たもとの迷子しらせ石
左面に「たつぬる方」
一石橋南たもとの迷子しらせ石
右側に「志らする方」

深く美しい彫り

明治になって、正面下部に几号水準点も刻まれて、江戸東京博物館にレプリカが展示されているくらい、民俗学的にも測量史的にも一級の史料です。

迷子しらせ石の几号
迷子しらせ石の几号水準点。

古写真を見ると、、、

私だけが国宝級だと思っているのですが、当時から有名だったらしく古写真も残っています。

古写真:迷子しらせ石
古写真:迷子しらせ石

ずいぶんと埋まった状態です。几号水準点が刻まれたのはこの後と推測できます。

古写真:一石橋
古写真:一石橋

一石橋のたもと、人力車の横に建っています。お堀の対岸は江戸城城内で、お堀は今の外堀通りです。場所が地図とも一致し、この頃、几号水準点が刻まれたと思われます。

古地図には、几号水準点の「不」の字と9.61(9.61尺)とあります。

古地図:明治20年(1887年)東京実測図より一石橋
古地図:明治18年(1885年)東京実測図より一石橋迷子知らせ石の几号水準点(クリックで拡大)。
公的資料:地理局雑報にある記載
一石橋迷子知ルヘ石  2.9227m

五斗+五斗で一石橋?

因みに一石橋の名の由来は橋の北側の金座(今の日本銀行)の後藤庄三郎、南側の呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、橋が壊れた時二人の後藤の援助で再建されました。
後藤の読みから「五斗」、「五斗+五斗で一石」と、シャレで一石橋と名付けられた(;  ̄ェ ̄)
なんともシャレ好きな江戸っ子らしいエピソードです。

迷子しらせ石、几号水準点の位置(J
拡大すると正確な位置がわかり、クリックするとリンクがありますのでそれぞれのページに詳しい情報があります。

撤去等で年々、数が少なくなっています。撤去されていたら、ご報告ください。

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