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切支丹坂とも呼ばれる庚申坂と庚申塔


庚申坂(坂下から)
庚申坂(坂下から)

庚申坂、キリシタン坂、今井坂、丹下坂と別名を持っていますが、わたくし的には真のキリシタン坂と思っているこの坂、文京区教育委員会がいうように本名が「庚申坂」とした場合、坂下にあったという庚申塔はどこに行ってしまったのでしょうか?
庚申坂の近くで独自に庚申塔を探してみました。
キリシタン坂の項を参照

庚申坂説明版
庚申坂説明版
庚申(こうしん)坂
 「小日向第六天町の北、小石川同心町の界を東より西へ下る坂あり………略………この坂を切支丹坂というは誤りなり。本名 "庚申坂" 昔、坂下に庚申の碑あり………」『東京名所図会』
 庚申信仰は庚申(かのえのさる)の日(60日ごと)人が眠ると三尸(さんし)の虫が人の体から出て天にのぼり天帝にその人の罪を告げるというところから、人びとは一晩中夜明かしをした。この信仰は中国から伝わり、江戸時代に盛んになった。従ってキリシタン坂はこの坂の地下鉄ガードの向側の坂のことである。
 「………両側の藪の間を上る坂あり………これが真の切支丹坂なり」『東京名所図会』

とぼとぼと老宣教師ののぼりくる
春の暮れがたの切支丹坂(金子薫園)

文京区教育委員会

庚申信仰について

庚申信仰は庚申(かのえのさる)の日(60日ごと)人が眠ると三尸(さんし)の虫が人の体から出て天にのぼり天帝にその人の罪を告げるというところから、人びとは一晩中夜明かしをした。

仏教では、庚申の本尊を青面金剛および帝釈天に、神道では猿田彦神としている。これは、庚申の「申」が猿田彦の猿と結び付けられたものと考えられる。また、猿が庚申の使いとされ、庚申塔には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られることが多かった。山王信仰(三猿信仰)もここから生まれたとされている。

というように60日に1回徹夜しなければならない)。

ただ、みんな集まって徹夜するのも辛い、ならば宴会だ!飲め!食え!ということで60日に1回の庶民のレジャーとなっていきます。飲んで食って寝てしまった人も多いといい、ほぼ町内会の飲み会に近いですね。最初は宗教的にマジにやっていたのかもしれませんが宴会色の強いものだったと思われます。庚申講(庚申信仰の集まり)では60日に1回、3年間18回やった記念に庚申塔を建立する風習でした。明治の中頃まで各地で盛んでしたが、他に楽しみの多い今日では行われていません。その名残りの庚申塔は各地に残っています。

第一の候補、藤寺の門前の庚申塔

藤寺(藤坂の項を参照)の門前に、見ざる、言わざる、聞かざるタイプの庚申塔がありました。

「寛文十庚戌年(1670年)三月三日 奉○庚申為諸願成就也 」
(○は読めない)と碑文があり、江戸時代の記録『御府内備考』に

「庚申坂、、、享保の頃までは庚申の碑ありしゆへの名なり」

とあるので時代も一致します。
つまり、1670年作のこの碑は享保年間(1716年〜1735年)には、すでに存在していたことになり、もっともあやしい物件です。しかも門前にある!最初から門前にあったというと不自然、どこからか持ってきた感が強いので、これが一番あやしいです。

藤寺伝明寺
藤寺伝明寺

庚申塔

第二の候補、伊勢屋の十一面観音祠にある青面金剛

庚申坂に一番近いスポットで、唐突にここにある祠(ほこら)。丸の内線が通るので線路区域にあったものを移転した仏像の集合体という感じのものです。建物自体はボルトナットで施工されているのであまり古いものではないらしー。昭和期に建てられたものでしょう。「伊勢屋」の所在を調べようにも「江戸に多いもの伊勢屋、稲荷と犬のふん」というように、あまりに伊勢屋が多くて特定不可能。この仏像の集合体の中に庚申信仰のシンボルである青面金剛がいらっしゃいます。細やかな表現の高い完成度の仏像です。隠れた名作といえます。しかし、コンクリートで埋められいるので碑文が見えない。
碑文があって、条件を満たせば、庚申坂に一番近いし、あやしい。

庚申塔 青面金剛
青面金剛
伊勢屋の十一面観音祠
伊勢屋の十一面観音祠

全くの余談ですが、ここにある双体道祖神はレプリカです。初めてみたときは都会の真ん中で双体道祖神を発見かっ!と興奮しましたが、なんかこれ薄くねっ?と思い、裏にまわって上から覗くとペラペラのプラスチック製(*’д’*)。誰が、なぜ、こんななんちゃってをするのか、そっちのほうが不思議になって探りたくなる思いです。

なんちゃって道祖神(実はペラペラ)
なんちゃって道祖神(実はペラペラ)

候補とは言えないが特殊なケースの庚申塔

庚申坂からはちょっと離れていますが牛天神に奇妙なものがあるので紹介します。見ざる、言わざる、聞かざるタイプの庚申塔を使い、「道祖神」と改刻したものです。

この「道祖神」の文字、どう見ても書体が近代的すぎ、モリサワの楷書体かっ!ってぐらい。何か消した跡もあるし、石好き、歴史好きは騙されませんよー。日付も消されてます。側面の寄進者も半分消されていて判読不可能。フォーマットも初期化も失敗してリライトも失敗してます。

三猿の彫刻から、もとは庚申塔だったとわかります。改刻されたのは明治以降でしょうが、庚申坂からここまで持ってきたものをリメイクするとは考えにくいですね。

牛天神道祖神碑(庚申塔改刻バージョン)

道祖神碑碑文
道祖神碑碑文。中途半端に消されている碑文。

結果として決定打は無し!。謎は謎のままで、わかってしまうとロマンが無くなる、妄想も膨らまないので、良しとしましょう。

ウィキより

謎多き数々のキリシタン坂


江戸時代前期、この坂を降りるとキリシタン屋敷があったのでキリシタン坂(切支丹坂)。傍に庚申塚があったので別名、庚申坂とも言います。区の坂名説明板でも庚申坂となってます。
黒歴史は隠したいものなのでだれともなく自然と名称変更したのだと思います。
そもそも、こんな崖に道を作る必要があったでしょうか。
それはキリシタン屋敷の入口があったから必要だった、ということでしょう。
江戸時代後半になると隠れキリシタン自体の存在も薄れ(幕府が隠れキリシタンの存在を黙認したとの説もある)キリシタン屋敷もその役目を終えて消えて行きます(幕末は隠れキリシタンよりも黒船、開国でたいへんだったのかも)。
キリシタン屋敷が無くなったので坂の名前も変わったのかな?とも言えます。

庚申坂看板
文京区の説明板では庚申坂となっている

古地図でみると

キリシタン屋敷(天保十四年岡田屋版)1843年キリシタン屋敷の表記があります
天保十四年(1843年)岡田屋 御江戸大絵図

1843年、キリシタン屋敷の表記があります。

古地図:嘉永七年尾張屋刊 江戸切絵図 1854年、キリシタン屋敷が無くなっている。キリシタン屋敷を守っていたという七人の役人の七軒屋敷の表記があります。
嘉永七年(1854年)尾張屋刊 安政年間改 江戸切絵図

幕末になるとキリシタンサカの表記はありますが、キリシタン屋敷が消滅しています。キリシタン屋敷を守っていたという七人の役人の七軒屋敷の表記は残っています。その他、銃練場の表記もあり、幕末の緊張が伝わってきます。
今では丸の内線が高架を走り、隧道ができ、時代とともにずいぶんと変遷のある場所です。

隧道からみたキリシタン坂
隧道からみたキリシタン坂

明治になって、この坂のことを夏目漱石は木々が生い茂り、昼間でも暗く気味が悪い坂だと言ってます。
志賀直哉はこの坂を史上初めて自転車で下り、あまりに急すぎて(当時はブレーキ無し?)、対面の民家に突っ込んだと自伝に書いています。それぞれに強烈な印象を与える坂だということは確かです。

この辺りにはキリシタン坂と呼ばれる坂は他にもあって、坂マニアの間ではどれが本当のキリシタン坂か論争になっています。他のキリシタン坂を見てみましょう。

隧道から見た文京区がいう切支丹坂
隧道から見た文京区がいう切支丹坂

文京区教育委員会がいう
キリシタン坂

文京区の説明板ではこちらが本当のキリシタン坂となっている坂。地下鉄丸の内線の隧道をくぐった向こう側の坂ですが、明治の地図を見るとこの坂はまだ無く、文京区がいう庚申坂が切支丹坂となっています。
隧道の向こう側の坂は明治以降に開削された新道ということになり、志賀直哉が降りたのは右側の坂ということになります。
まだ階段坂ではなく、急峻さがわかります。よく見ると突っ込みそうな対面の民家もあります(≧∇≦)。

その後、よく調べてみると、この坂がキリシタン屋敷への入口であったら、キリシタン坂と呼んでもいいのではないかと思うようになりました。

 icon-arrow-circle-right 文京区公認のキリシタン坂の怪をご参照ください。

古地図:切支丹坂 明治7-17年 5千分の1東京図測量原図より
切支丹坂(明治7-17年 5千分の1東京図測量原図より)

切絵図にある漢字で切支丹坂

もうひとつのキリシタン坂

嘉永七年尾張屋刊江戸切絵図「礫川牛込小日向絵図」に漢字で「切支丹坂」としっかりと書いてあります。しかも階段を表す表記になっています。
キリシタン屋敷は別名、山屋敷とも呼ばれ、小日向台地の上にあり、神田上水の流れる谷側の下町から、この坂を走っていくと確かに、キリシタン屋敷比定地に近いと体感できるのであります。
ひょっとするとこの坂はキリシタン屋敷の裏口への近道だったのでしょうか。発音は同じで、カタカナと漢字で区別していたのか?謎です。
それにしても、ここからだと登り坂が続き、かなりハアハアと息があがり、いいトレーニングになります。自転車も押して登ってますよ (≧∇≦)。

古地図:切支丹坂(嘉永七年尾張屋刊江戸切絵図「礫川牛込小日向絵図」)
漢字で切支丹坂。嘉永七年(1854年)尾張屋刊江戸切絵図より

地下鉄丸の内線車両が登ってきたキリシタン坂

丸の内線が出来たころ、キリシタン坂をトレーラーに乗せられた丸の内線の車両が登って車庫に入ってきたとメトロの資料で言っています。そのとき、この無名の坂をキリシタン坂と言っています。地下鉄車両が登ってくるなんて、すごい光景ですね。写真左の白い建物がメトロの車庫です。左の石垣は慶喜公屋敷跡です。

無名の坂(キリシタン坂)
無名の坂(キリシタン坂)

【追記】
キリシタン坂の由来になった切支丹屋敷跡からイタリア人宣教師シドッチの遺骨が発掘されました。
詳しくはこちらで。

 icon-arrow-circle-right 切支丹屋敷とシドッチ神父