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「江戸始図」の驚くべきこと

江戸始図は慶長12年(1607年)頃の姿と云われています。

城郭好きな方は、家康の慶長江戸城の縄張り図に目がいくと思います。二つの小天守を持つ連立式天守複合丸馬出し5連続の外桝形などの特徴を有しています。

江戸始図A:複合馬出し、B:連立天守、C:5連続の外桝形
A:複合馬出し、B:連立天守、C:5連続の外桝形

慶長年間(1596年〜1615年)は、まだ豊臣氏や西国大名の勢力が強かったころ。
家康の慶長江戸城は戦いを想定したものでした。

家康の慶長天守想像図
家康の慶長天守想像図

この慶長江戸城は秀吉の大坂城よりも一回り大きく、高さ約55メートル。眩しい白漆喰と輝く鉛葺きの瓦。豪華に見えますが、鉛の瓦はひとたび戦が起これば、銃弾に鋳直すことができます。
明らかに豊臣氏との最終決戦を意識しています。

慶長天守、元和天守、寛永天守と建て替えられ、現存する天守台は家康の時代にあった丸馬出しのところにあります。
泰平の世では軍事力・権力の象徴である天守の必要性は無くなっていきます。戦いに必要な丸馬出しも然りです。

江戸城現存天守台の位置
江戸城現存天守台の位置。
江戸城現存天守台
江戸城現存天守台。

江戸始図が描かれたのは、慶長二十年(1615年)の大坂夏の陣の前、豊臣氏滅亡以前です。
それを表すかのように、城下の武家地には豊臣氏から頂いた「羽柴」姓を名乗る大名が多くいます。
ちょうど松平姓を名乗る大名が多くいたように。

江戸始図の羽柴姓。「羽柴」姓の大名が多く見られます。
「羽柴」姓の大名が多く見られます。

江戸城外郭の発展

お江戸の街並み好きの私としては、お城だけではなく、外堀の完成度に注目してしまいます。

江戸始図の驚くべきことは、パッと見でも、外堀の田安門・清水門・雉子橋(きじ橋)・一ツ橋・神田橋・常盤橋・呉服橋・鍛冶橋がすでに完成していることです。

江戸始図の門・橋
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これらの門・橋は何代か、または数回の改修を経て、四百年前からそこにあります。

田安門

維新直後の古写真:田安門
維新直後の古写真:田安門。
現在の田安門
現在の田安門。日本武道館の入り口になっています。

清水門

維新直後の古写真:清水門
維新直後の古写真:清水門。
現在の清水門。
現在の清水門。

神田橋

維新直後の古写真:神田橋
維新直後の古写真:神田橋。
現在の神田橋
現在の神田橋。

常盤橋

維新直後の古写真:常盤橋
維新直後の古写真:常盤橋。
現在修復中の常盤橋
現在修復中の常盤橋。

家康のおもてなし

また驚くべきことは、家康が中国からの使節をもてなすためにアヒル小屋を作ったという雉子橋(キジ橋)。
北京ダックは中国人の大好物だからというわけです。
この話は伝承かと思っていましたが、江戸始図には雉子橋にアヒル小屋を作れそうなスペースがあり、一気に真実味を帯びてきます。まさに江戸の「お・も・て・な・し」です。

江戸始図より雉子橋
江戸始図より雉子橋。鳥小屋がありそうなスペース。
現在の雉子橋
現在の雉子橋。
雉子橋説明板
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内堀では、半蔵門・桜田門・二重橋・日比谷門・馬場先門・和田倉門・桔梗門・大手門・平川門・竹橋・北桔橋門(北はねあげ橋門)・西桔橋と現存する橋・門の原型が、慶長期にすでに出来上がっています。

維新直後の古写真:大手門
維新直後の古写真:大手門。
現在の大手門
現在の大手門。

このように江戸始図をみると驚くべき速さで、江戸城全体が完成に近づいていることがわかります。

しかしながら、家康が三河からやってきた当初はどうだったのでしょうか?

江戸御討入

江戸御討入り天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻め。この戦いに勝利し、その後、主力として活躍した徳川家康は北条氏の領地であった関東八ヶ国に領地替えを命じられます。
その年の七月、家康は江戸に向かいます。なにせ、未知の未開地「江戸」に行くのですから、まるで戦いにでも行くような風体です。今で言えば、フル装備でアマゾンの奥地にのぞむようなもの。
このときのことは、そのあまりの物々しさから「江戸御討入」と呼ばれています。

太田道灌の江戸城想像図
太田道灌時代の江戸城想像図。
本多正信
本多正信

天正十八年(1590年)八月一日、江戸に着いた一行は、眼下に広がる葦の湿地帯を見て愕然とします。
小山の上の戦乱で荒れ果てた江戸城。その目の前(今の日比谷)まで海の入江が入り込んでいます。家臣たちは空いた口がふさがりません( ゚д゚ )。

このような状態で、まず、家康が取り組んだのが、運河・道三堀の開削でした。重臣・本多正信を先頭に朝の四時から家臣総出で鍬を持って働きます。

道三堀

江戸始図より道三堀
江戸始図より道三堀。

苦労の末、和田倉門外から道三堀・日本橋川を経て、千葉・行徳方面からの塩を確保します。
日本橋川には日本橋が架けられ、五街道の出発点、そして町人文化の中心地として花開いてゆきます。

天下普請

関ヶ原の戦いに勝利し、慶長八年(1603年)、家康は征夷大将軍に任ぜられ、全国の大名に号令。江戸の町造りは国家プロジェクト・天下普請として本格的に加速していきます。

神田山を切り崩し、浅瀬が続き大きな船が入ることができなかった日比谷入江・新橋辺りまでを埋立てます。埋立地は家臣たちが住む武家地となります。

日比谷入江と道三堀と神田山

神田山とは今の駿河台辺りです。駿河台の裾野は駿河台下・今の神保町。そこには、江戸時代といえども富士山は全く見えなかったであろうと思える小さく緩やかな「富士見坂」があります。
おそらくここは神田山を切り崩す前は崖っぷちで、富士山がよく見えたのだと想像できます。

駿河台下の富士見坂
駿河台下の富士見坂。

さすがは天下人家康です。山をも動かしてしまいます。

天下普請には全国から三万人もの労働力が集まったと云います。
そして慶長12~14年(1607~1609年)頃までには、江戸始図に見ることができるような江戸城の内堀・外堀の整備が進みます。

江戸始図の門・橋
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今では外堀通りの交差点に名前のみ残る橋々、呉服橋・鍛冶橋も確認できます。

維新直後の古写真:呉服橋
維新直後の古写真:呉服橋。
呉服橋交差点
呉服橋交差点。
維新直後の古写真:鍛冶橋
維新直後の古写真:鍛冶橋。
鍛冶橋交差点
鍛冶橋交差点。

しかしながら、江戸始図でA地点にあるべき数寄屋橋がまだできていないようです。

江戸始図の数寄屋橋のあるべき位置

数寄屋橋は時代が少し下り、寛永六年(1629年)石垣・桝形門が完成します。

維新直後の古写真:数寄屋橋
維新直後の古写真:数寄屋橋。
数寄屋橋交差点
数寄屋橋交差点。

その後、飯田橋・市ヶ谷・四谷・赤坂・溜池・虎ノ門までの外郭、御茶ノ水辺りの仙台堀が完成し、世界一大きいと云われる江戸城の外郭が完成します。また、神田上水、溜池で飲料水を確保し、江戸は住みやすい町へと整備されてゆきます。

正保年中(1645〜1648年)江戸絵図には、その壮大な江戸城の全貌が描かれています。

正保年中(1645〜1648年)江戸絵図
正保年中(1645〜1648年)江戸絵図。クリックで拡大。

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