「古写真」タグアーカイブ

市谷亀岡八幡宮の几号水準点の謎


何年か前、市谷亀岡八幡宮の境内で、この几号水準点を初めて見たとき、疑問を感じました。

市谷亀岡八幡宮境内の水屋の几号水準点の位置
市谷亀岡八幡宮境内の水屋の几号水準点の位置。
市谷亀岡八幡宮の几号水準点
水鉢の台座に几号水準点があります。
市ヶ谷亀ヶ岡八幡宮の几号水準点と銘
市ヶ谷亀ヶ岡八幡宮の几号水準点と銘。

こんな見づらい、窮屈なところに、そして見通しの効かないところに、測量のための記号を刻むのでしょうか?写真を撮るのも厳しい位置に?
そして手水鉢も新しい。昭和26年(1951)に奉納された真新しい水鉢なのです。

明治の測量遺産である几号水準点が昭和26年の水鉢にあるわけがありません。

几号水準点って何?を参照

図会と古写真

疑問を解決するために、江戸名所図会と明治東京名所図絵を見ると、手水鉢が石段下と境内にあります。

江戸名所図会より市谷亀岡八幡宮。
江戸名所図会より市谷亀岡八幡宮(クリックで拡大)。
明治東京名所図絵より市谷亀岡八幡宮。
明治東京名所図絵より市谷亀岡八幡宮(クリックで拡大)。

古写真を探して見ても、やはり、手水鉢が二つあります。
「宝暦七年奉納、越前屋吉兵衛」と「文久元年奉献、藤原正邦 敬奉」の銘のある水鉢。台座もよく映っておらずにどちらが境内にあったのか判断がつきません。

古写真:宝暦七年、越前屋吉兵衛奉納の手水鉢。
古写真:宝暦七年(1711年)、越前屋吉兵衛奉納の手水鉢。
古写真:文久元年奉献、藤原正邦 敬奉の手水鉢。
古写真:文久元年(1861年)奉献、藤原正邦 敬奉の手水鉢。
明治六年頃の市谷亀岡八幡。石段の下に水鉢と台座があります。
古写真:明治六年(1873年)頃の市谷亀岡八幡。石段の下に水鉢と台座があります。

今ある台座は石段下の水屋を移動したものなのか?それとも今の位置と同じ、境内にあったものなのか?
あれやこれやと憶測が浮かび、確かな答えが出ずにいました。

この几号水準点が
新宿区登録有形文化財に指定。

最近、ネットで検索していると、市谷亀岡八幡宮の几号水準点が新宿区登録有形文化財に指定されたという記事が目に飛び込んできました。早速行ってみると、、、。

2017年3月、桜の咲く前、ここを訪れた時、これはありませんでした。

市谷亀岡八幡宮几号水準点説明板

市谷亀岡八幡宮の几号水準点(水鉢台座)
 明治初期に、イギリスの技術を導入した内務省地理寮は、近代的な測量を開始し、東京を中心に、「不」の字に似た記号を用いた几号水準点を設置した。
 市谷亀岡八幡宮の几号水準点は、神社境内の水屋の水鉢台座の側面に刻んだもので、内務省地理寮による関八州三角測量が開始された明治八年(1875年)頃に、刻印された。
 現在台座の上には、昭和26年(1951)に八幡講によって奉納された水鉢が置かれているが、もともとは社務所前に置かれている、越前屋吉兵衛によって奉納された水鉢とセットであったと推定される。
 「江戸名所図会」(天保五・七年刊行、1834・1836年)には、現在と同じ位置に水屋が描かれており、また「東京実測図」(明治20年、1887年)に記された標高(水準点94.8尺、約28.7m)が現在とほぼ変わらないことから、水準点の位置が、設置当初から移動していないことが分かる。
 市谷亀岡八幡宮の几号水準点は、設置当初の場所の位置する希少な几号水準点で、保存状態も良好である。近代土木史上、貴重な文化財である。
 平成29年3月30日
 新宿区教育委員会

最近、設置された説明板です。
読むと、今の水鉢は越前屋吉兵衛奉納の水鉢と置き換えられたが、几号水準点が刻まれた台座は設置当時と同じ場所にあり貴重とあります。

そして、有形文化財指定の決め手となったのが「東京実測図」(明治20年、1887年)に記された位置と一致しているという事実。

明治20年(1887年)刊行の「東京実測図」が気になり、居ても立っても居られずに新宿歴史博物館で閲覧します。

古地図:明治20年(1887年)東京実測図より赤矢印、市谷亀岡八幡宮の几号水準点と青矢印、市谷御門の几号水準点。
古地図:明治20年(1887年)東京実測図より赤矢印、市谷亀岡八幡宮の几号水準点と青矢印、今は日比谷公園に移設された市谷御門の几号水準点は62.6尺(約19m)の表記(クリックで拡大)。

確かに94.8(94.8尺、約28.7m)の表記が今と同じ場所、社殿の前の小さな建造物にあります。

そうです。古写真の宝暦七年奉納、越前屋吉兵衛の水鉢には、水屋(屋根)が付いていません。窮屈な柱がないのです。これなら台座に几号水準点を刻むことができます。

古写真:宝暦七年、越前屋吉兵衛奉納の手水鉢。

やっと、確かな答えが出たようです。

公的資料:地理局雑報にある記載
市ヶ谷八幡宮唐銅手水鉢臺石几号 28.7209m

この記録を測った時のそのものの位置ということです。

新宿区では神楽坂毘沙門天、几号水準点が刻まれた虎石も文化財に指定されています。


絵巻、古地図で見る桜田門外の変


三宅坂の小高い丘の憲政記念館(井伊彦根藩邸跡)から桜田門を見ると。この約550メートルの短い距離の間で「桜田門外の変」が起きたと思うと、感慨深いものがあります。

桜田門を臨む
憲政記念館中庭から桜田門を臨む。

東京で一番美しい坂、三宅坂を参照

桜田門外之変図

桜田門外の変図襲撃グループの一人、蓮田市五郎は事件後、傷を負いながらも老中脇坂中務大輔邸に趣意書を持って自訴。

その後、細川越中守邸お預けになっている間に、請われて描いたという絵巻が残っています。

「桜田門外之変図」
「桜田門外之変図」クリックで拡大。

井伊彦根藩邸から桜田門外までの事件を生々しく描いています。

井伊彦根藩邸
井伊彦根藩邸

井伊彦根藩邸

井伊彦根藩邸は今の憲政記念館、国会議事堂前庭の一部を含む広大な一等地に位置していました。

憲政記念館の時計台
憲政記念館の時計台

井伊彦根藩邸の名残り

憲政記念館に入ってすぐ、枯葉のゴミ箱かいな?と思ってしまうものがあります。これは「桜の井」の遺構。

井伊彦根藩邸時代には門前にあり、「柳の井」と並んで名水と呼ばれ、旅人の喉を潤したと云います。

歌川広重「東都名所・外桜田弁慶堀桜の井」
歌川広重「東都名所・外桜田弁慶堀桜の井」
明治5年頃桜の井
明治5年頃の桜の井の遺構。

古写真にも写っていて、道路工事の際、移設されたものだということがわかります。

憲政記念館中庭の石灯籠は?

他にも井伊彦根藩邸時代のものはないかと探すと、、、

憲政記念館の石灯籠

この石灯篭は藩邸時代の遺物なのか(?_?)
年号が入っていないので、千代田区観光協会、憲政記念館に問い合わせると、、、
昭和48年、衆議院議員宿舎で余ったものを移設」と丁寧に教えてくれました。ありがとうございました。
時代ものではなかった囧rz。

井伊彦根藩邸時代のものは「桜の井」の遺構しかないようです。

歌川広重「江都勝景 桜田外の図」
歌川広重「江都勝景 桜田外の図」

安政七年(1860年)三月三日、赤い門を出て、緩やかに下り、桜田門から登城しようとする大老井伊直弼の行列があったのです。

国会前交差点から桜田門を臨む。
国会前交差点から桜田門を臨む。

絵巻、古地図で検証

桜田門外の変の時代背景、経緯は歴史好きの皆さんの方が詳しいと思いますので、残された絵巻、古地図で検証したいと思います。

「桜田門外之変図」(クリックで拡大)。
「桜田門外之変図」(クリックで拡大)。
安政六年(1859年)外桜田絵図
安政六年(1859年)外桜田絵図。三宅坂はさいかちの木が多かったので別名、さいかち坂。地図上にサイカチ河岸と表記されています(クリックで拡大)。

通りの濠側に二つの番所(A,B)があり古地図と一致します。
桜田門の対面に二つの門(C,D)があり、古地図の屋敷区分から見ると、松平市正上屋敷の表門と松平安芸守上屋敷の裏門のようです。
絵巻、浮世絵に描かれている通り、井伊彦根藩邸の表門はE地点です。

井伊直弼の行列は、徒士20数名とお付きの従者40名ほど。対する襲撃側は18名。数で見ると井伊側有利ですが、安政七年三月三日、桃の節句(新暦1860年3月24日)は、季節外れの大雪。

刀に柄袋をつけています。
刀に柄袋をつけています。

絵巻でわかるように、井伊側は大名行列の規則でスネを出し、足袋も履かずに裸足。
雨合羽を着、刀には雪除けの柄袋をつけています。身動きが不自由な上、かじかんだ指で刀の柄袋を解くことも難しい状況です。

井伊彦根藩邸に逃げ帰る
井伊彦根藩邸に逃げ帰る者たち。
桜田門外之変図
襲撃側はしっかり足袋を履いています。
桜田通り方面に逃げる
桜田通り方面に逃げる者たち。

井伊藩邸に逃げ帰る者、今の桜田通り方面に逃げる者も描かれていますが、柄袋をつけたまま、刀の鞘で応戦した者もいたと云います。

桜田門の門番は門を閉ざし、江戸城への敵の侵入を防ぐのが役目。門外で起きている事件は傍観するだけです。
今でも時々「桜田門」が桜田門を守っています (≧∇≦)。

桜田門が桜田門を守ってる

拳銃を構える男

約三分間の死闘の末、襲撃側が井伊直弼の首級を挙げます。

定説では、拳銃を持っていたのは、リーダーの関鉄之介、直訴状を持ち、籠訴を行った森五六郎の二人。森五六郎が撃った銃弾が井伊直弼に命中したことになっています。

しかし、蓮田市五郎の残した絵巻では、森山繁之介が拳銃を構えています。えっえーっ(*’д’*)!

拳銃を持つ森山繁之介
拳銃を持つ森山繁之介。

一説には水戸藩の武器製造工場「神勢館」で、ペリーがもたらしたリバルバー拳銃「コルト51アーミー」の完コピを造っていたと。

襲撃グループは元水戸藩士。拳銃を手に入れることが出来、5丁用意していたと云います。

命中した銃弾は誰が撃ったのでしょうか?
拳銃を提供したのは誰なのでしょうか?
謎です。

古地図で見る逃走経路

「桜田外の図」部分

襲撃後、それぞれに逃走。見届け役として戦闘に参加せず立ち去る者、老中脇坂中務大輔邸(古地図F)、細川越中守邸(G)に自訴する者など。

その中で、井伊直弼の首級を挙げた元薩摩藩士、有村次左衛門の逃走経路を見てみます。

安政七年(1860年)大名小路神田橋内内櫻田之圖
安政七年(1860年)大名小路神田橋内内櫻田之圖(クリックで拡大)。

有村次左衛門は重症を負いながらも、井伊直弼の首を持ち、桜田門外(A)から今の日比谷公園方向に進み、日比谷御門(B)を抜け、濠沿い(今の日比谷通り)に、馬場先門(C)、和田倉門(D)が閉門しているのを横目で見、辰ノ口の遠藤但馬守邸の辻番所前(E)で力尽きます。

日比谷公園入口に残る日比谷御門跡
日比谷公園入口に残る日比谷御門跡。
和田倉門
和田倉門。背後のビルとビルの間に辻番所があったようです。

井伊直弼の首は遠藤但馬守邸で預かります。数時間後、井伊彦根藩邸から使者が首を引き取りに来ます。
その時、使者は、「井伊家家臣、加田九郎太の首を受け取りに」と偽っています!щ(゚Д゚щ)。
もうすでに事件の揉み消しが始まっていました。

江戸城伏見櫓
江戸城伏見櫓

将軍のお膝元で、大老が襲われ、首をとられるという事件。

今で言えば、国会議事堂前でテロ集団に襲われ、内閣総理大臣が暗殺されるようなものです。

ゴルゴかゴエモンかよっ!ヽ(`Д´)ノ というぐらいのありえない事件でした。

彦根城
国宝彦根城

お家取り潰しになってしまう井伊彦根藩にも、権力の失墜を露呈してまう幕府にとっても、この事件は無かった事にしたかったのです。

ゆえに今になっても、井伊直弼の遺骨はどこにあるのか?事件の黒幕は?などという謎が付きまとっています。

「天下の大悪人」と水戸藩主、徳川斉昭からも非難された18人の内、明治まで生き残ったのは二人だけ。
その内の一人、海後磋磯之介(かいごさきのすけ)は「菊池剛蔵」と改名、本名を隠し、警視庁・水戸県警察本部に勤務。明治36年(1903年)没します。

海後磋磯之介が残した事件覚書には、文差しに直訴状をつけ、籠訴に走る森五六郎が描かれています。

籠訴する森五六郎
籠訴する森五六郎