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落語「崇徳院」の舞台を行く

明治の頃、東京のお話です。熊さんは大家さんに呼ばれます。
大家の息子、若旦那が病にふせっており、医者にみせると、どうやら心の病。持っても五日と告げられます。

若旦那は仲のいい熊さんにだけ訳を話すと言います。
息も絶え絶えの若旦那。

あぁ〜うぅ〜、二十日ばかり前、上野のお山、清水様にお参りに行ったんですよ〜
おっ、そりゃいいですねえ〜、清水堂といえば眺めがいいっ、不忍池、弁天様はもちろん、湯島の天神、神田の明神、左のほうには聖天の森から待乳山まで

古地図:明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図より
古地図:明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図より清水堂(赤矢印)、不忍池の弁天様(A)、湯島天神(B)、神田明神(C)青矢印が待乳山なので、ずいぶんと遠くまで見えたようです(クリックで拡大)。
清水観音堂
清水観音堂。
不忍池弁天様
不忍池の弁天様。
明治中期の湯島天神
明治中期の湯島天神
現在の湯島天神
現在の湯島天神。
神田明神
神田明神
待乳山聖天
待乳山聖天。


お参りを済ませて、清水様の茶店で休んでいると、お供を三人ばかり連れたお嬢さん風の人に出会います。
お嬢さんが茶袱紗(ふくさ)を落としたので拾いあげ、渡してあげます。

古写真:上野清水観音堂境内。
古写真:明治後期の上野清水観音堂境内。
清水観音堂、茶屋のあった辺り。
清水観音堂、茶屋のあった辺り。

その人のお顔を見ると、水の垂れるような女、あぁ〜
えっ?、ひどいねえ、ビショビショ!グチャグチャな女だ!みかんを踏んづけたようだねぇ、たくっ
違いますよぉ熊さぁん、いい女のことを水の垂れるようなというんですよぉ、あぁ〜

そのあと、どこからともなく桜の枝に結んだ短冊が落ちてきて、それをお嬢さんから渡されます。そこには、

瀬を早み 岩に瀬かるる 滝川の

という百人一首、崇徳院の上の句があります。
下の句は「われても末に あわむとぞ思ふ」と続く恋の歌。
川の流れは岩にぶつかり左右に別れますが、岩の後方では流れがまた、元のように。
末にはまた会い、夫婦になりましょうという意味です。

小倉百人一首より崇徳院
小倉百人一首より崇徳院。

それ以来、何を見てもお嬢さんを思い出す始末。
恋わずらいです。

あの掛軸のダルマさんがお嬢さんに見える、鉄瓶がお嬢さんに見える、あぁ〜
大家さんから
熊さん、そのお嬢さんを探し出してくれたら、あなたが今住んでる三軒長屋をさしあげましょう
と言われます。

三軒長屋の大家を夢見て、同じく大家の奥さんを夢見る女房に、腰にわらじを二十足くくりつけられ、
いいかい、あんた、人の多いとこに行くんだよ、お湯屋(銭湯)とか床屋とかさぁ
女房に、そう言われて、街に繰り出します。

えぇ〜瀬を早みぃ、え〜瀬を早みぃ
おぅ、納豆屋さんっ」「納豆屋じゃないよっ、たく
子供達がぞろぞろと後をついてきます。
シッシッ!おじさんは紙芝居じゃないのよっ

混んでる床屋へ

そういえば人のたくさんいる、混んでいるお湯屋とか床屋に行けと言われたのを思い出し、床屋へ。

明治後期、神楽坂の藁店。左側に理髪師の看板。右は寄席。
明治後期、神楽坂の藁店。左側に「理髪師」の看板。右側は寄席。
明治後期、神楽坂の床屋
明治後期、神楽坂の床屋。

こんちわ、混んでますかぁ?
すぐできますよ、お客さん
さよならっ
こっちぁ訳あって人の多いところを探してるんだとブツブツ言いながら、次の店へ、
こんちわ、混んでますかぁ?
あいにく混んでまして、もう少し後に来ていただければ
お願いしますっ
変なお客と思われますが、待合で、
えぇ〜瀬を早みぃ、え〜瀬を早みぃ」と始めます。
一人のお客に
それは崇徳院様の歌ではないですか?
おっ、よくご存知で
うちの娘がね、その歌をどこかで覚えましてねえ、それにハマってますよ
えっ、娘さん水垂れてますか?
水は垂れてませんがねぇ
みかん踏んづけてますか?
最近、草餅を踏んだようですがねぇ
おいくつですか?
今年で八つになりました
(・_・)…………え〜瀬を早みぃ〜

そして、お湯屋を18件、床屋を36件、廻ってまいります。

こんちわぁ〜、混んでますかぁ〜
混んでますけどぉ、お客さん、さっきも来た人ですよねえ
ええ、もう肌は脂がぬけちゃってカピカピ、も、もう剃る毛も無いんで植えてもらえますか?
植えたことはぁありませんがねえ、まあ、そこで少し休んでらっしゃい
せ、せを、瀬を早みぃ〜、せ、せ、せを〜囧rz
お客さん、ずいぶんと元気が無くなりましたねえ

床屋で休んでいると、近くの人が現れます。
聞けば、大店のお嬢さんが恋わずらい。上野のお山で若い男に袱紗を拾ってもらい、別れ際に崇徳院の短冊を渡したとのこと。

その男を探し出せば、大家が積樽を二十もしてくれるってんでぇ長屋中お祭り騒ぎよ、こいつぁ日本人には違いねえだろう、日本中探せってんで、おととい北海道代表が旅立ち、昨日は九州代表が、えへ、あっしが四国代表ってぇもんよ

熊さんは、三軒長屋がここにいたぁと大喜び。危うく四国に旅立つところだったと四国代表。てめえがうちの長屋へ来い、てめえがうちの長屋へと、二人がもみ合ううちに床屋の鏡を割ってしまいます。
床屋の主人に責められ、熊さんがひと言。

ご主人、心配はいらない、割れても末に買わんとぞ思う

お後がよろしいようでm(_ _)m。

「崇徳院」はもともと上方落語で、恋の舞台も高津神社。湯島出身の桂三木助は、上野のお山からの景色を美しく描いています。

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上野戦争ー残された弾痕(前編)

靖国神社の大村益次郎像は一体どこを見ているのでしょうか?
皇居でもない、靖国神社本殿でもない。
彼の視線の向こうには、そう、上野のお山があります。

江戸城富士見櫓から、遠く上野方面を双眼鏡で見、彰義隊との戦争を指揮する姿です。

靖国神社大村益次郎像

彰義隊

鳥羽伏見の戦いの後、慶応四年(1868年)2月12日、徳川慶喜公は恭順の意を表し、上野寛永寺に蟄居。彰義隊は将軍警護と江戸の治安維持のために結成され、上野のお山に集結します。

再建後の寛永寺根本中堂
再建後の寛永寺根本中堂。

慶応四年(1868年)4月11日、江戸城は無血開城され新政府軍が入城。戦禍が無かったことに江戸の市民は、ホッとひと息つきます。

「江戸開城、西郷南洲・勝海舟会見の地」の碑
田町駅近くの「江戸開城、西郷南洲・勝海舟会見の地」の碑。

しかしながら、黒船が来てからというもの、物価は高騰、幕府は崩壊し、参勤交代で地方から流入していた富も途絶えます。

旗本御家人は職を奪われ、今でいうとまるで親会社が倒産した企業城下町状態です。江戸の経済は停滞し、不平分子が現れても不思議ではありません。

幕府復権、出世を夢見る彰義隊は慶喜公が水戸へ退いても上野のお山へ居座ります。

吉原や品川の遊郭で遊ぶ新政府軍の兵士を、彰義隊士が斬るような事件が起きると、江戸っ子たちは諸手を挙げて喜んだ、などと云う話もあるぐらいで、新政府に不満を持つヒーローとして彰義隊は市民に人気があったようです。

西郷さんや勝さんにしてみれば、江戸の治安維持を頼んだはずの彰義隊が逆に暴れ出し反政府勢力になったものですから、彼らの心情はよくわかっていたものですから、人情味のある二人には手に負えずに、解散命令を出しても一向に聞き入れませんでした。

大村益次郎、江戸入り

大村益次郎新政府はこの事態に対応し、大村益次郎(文政七年(1824年)ー明治二年(1869年))を京都から呼び寄せます。なにせ幕長戦争で人的不利をものともせず連戦連勝に導いた近代戦の司令官です。
彼は徹底した合理主義の申し子と云える人物で「暑いですねぇ」と挨拶されれば「夏は暑いのが当たり前です」と答えるような有様。
大村ならやれると云う期待が新政府にはありました。

軍資金はどうするか?

大村益次郎は、数字にも強い男です。この戦争にかかる金額を算出すると、ざっと50万両。その頃、大隈重信が軍艦購入のために持っていた25万両を「横浜で軍艦を遊ばせておくおつもりか」とぶん取り、江戸城宝蔵にあった宝物を外国人に売りつけ必要額を捻出します。この時、秘宝海外流出などと云う事は考えていません。彼も無類の書画骨董好きのようでしたが、目的は戦争勝利のみと云う合理的な益次郎です。これにより最新銃などの軍備を整えます。

事前の戦略

上野の山に居座る彰義隊(一説には3000人)をいかに殲滅するか?。まずは決戦の十日ほど前、決戦の日を5月15日、場所を上野のお山と定め、江戸市中の高札場に掲げます。

古写真:明治六年(1873 年)日本橋の高札場
古写真:明治六年(1873 年)日本橋の高札場。

これは市民の避難、戦争長期化を避け、江戸中を火の海にしないためであり、また、彰義隊士にこの戦いに大義はあるのか?勝算はあるのか?と考える時間を与え、結果、勢いだけで集まった2000人近くが山を降りたと云います。

部隊配置

実戦部隊は二つ。正面攻撃、主戦場となる広小路黒門前軍(薩摩兵中心)と搦手(裏門)の団子坂下軍(長州兵中心)。(軍隊名は所在地で表記)。

上野戦争主力配置図
クリックで拡大。

広小路黒門前軍(A)
薩摩藩兵100名・砲兵隊(四斤山砲など7門)
熊本藩兵100名・砲兵隊(砲数不明)
鳥取藩兵100名・砲兵隊(砲数不明)
広島藩兵200名

団子坂下軍(B)
長州藩兵200名
佐賀藩兵100名
大村藩兵50名
佐土原藩兵80名・砲兵隊(臼砲1門)
尾張藩砲兵隊(仏製、おそらく四斤山砲2門)

不忍池対岸の砲撃部隊として

本郷富山藩上屋敷軍(C)
佐賀藩砲兵隊(アームストロング砲2門)
本郷水戸中屋敷軍(D)
岡山藩砲兵隊(臼砲3門・米製砲2門)
津藩砲兵隊(臼砲2門)

この配置を見て、西郷さんは
薩摩兵を皆殺しにするおつもりか」と問い、
益次郎は「そのとおり」と。

西郷さんは沈黙し座を辞したという話は有名ですが、その時のことを書記官は、
「大村ハ、靜カニ扇子ヲ開閉シ、天ヲ仰ギテ言ナシ。スデニシテ曰ク。然リ、ト」「貴殿ヲモ殺スツモリデゴザル」
と書いています。

その後、西郷さんは部下に
大村さんに自分を一番難しいところへやってくれと頼んでおいた」と言ったと云い、それで薩摩兵の士気が一気に高まったというので、西郷さんの器が大きいのか、益次郎が頭がいいのかわからない。いや、両方なのでしょう。

また、いったん山を降りた彰義隊士が市中で決起、放火する恐れもあるので警戒部隊として

一橋より水道橋方面:徳島藩兵
和泉橋・昌平橋津藩兵
水道橋より水戸上屋敷方面:尾張藩兵
神田橋、湯島聖堂付近:新発田藩兵
本郷追分:岡山藩兵
吾妻橋:紀州藩兵
両国橋:久留米藩兵

王子宿場:福岡藩兵・芸州藩兵・津藩兵
戸田宿場:岡山藩兵、
川口宿場:幕臣大久保氏の手勢
川越藩監視:福岡藩兵
忍藩監視:芸州藩兵
古河藩監視:佐賀藩兵

実際、湯島天神付近で起こった放火を、折からの雨もあって消し止めた記録があります。なんとなく、決戦の日を梅雨に持ってきたのも益次郎の策だったような気がし、天も味方したようです。

上野戦争包囲網(クリックで拡大)。
上野戦争包囲網(クリックで拡大)。

という具合に上野のお山を二重にとり囲み用意万全。
地図を見ると上野のお山の北東方面には部隊を配置していませんが(?_?)。

これは彰義隊の敗走路を設けることで戦闘を短時間で終わらせる狙いがあるのと、この方角には彰義隊の拠点の一つ、浅草本願寺、旧幕府軍の野戦病院となる称名寺があります。益次郎は市中に密偵を放ち、称名寺のことも知っていたのかもしれません。
村医者上がりの益次郎ならありえることです。

上野のお山ばかり語られることが多く、あまり知られていませんが、市中でも小競り合いがあったようです。

後楽園でのチャンバラ

池波正太郎先生はエッセイの中で上野戦争当時、水戸上屋敷(現・小石川後楽園)に仕えていた母方の曽祖母の実話として、「チャンバラ映画を見ていると、曽祖母はいつも、ちがうちがうと言う」と書いています。

「塚原卜全のような名人ならともかく、普通の侍の斬り合いはあんなもんじゃない。よく覚えておおき」
上野戦争の時(略)
「私たちは、みんな薙刀を掻い込み、鉢巻を占めて、殿さまをおまもりしたんだよ」と、曽祖母は、カビが生えた梅干しみたいな顔に血をのぼせて、
「そのとき、彰義隊が一人、御屋敷の御庭へ逃げ込んできた。官軍が一人、これを追いかけて来てね、御庭の築山のところで、一騎打ちがはじまった」
それを目撃したのである。

特別史跡・特別名勝「小石川後楽園」
小石川後楽園

二人は刀を構え、長い間、睨み合ったまま、うごかなくなってしまった。それは気が遠くなるほどに長い、長い時間だったそうな。
そのうちに、二人がちょっと動いたかとおもったら、官軍の方が、 「大きな口を開けたかとおもったら」 うつぶせに倒れてしまった。

 
官軍は配置から見ると尾張藩士だったようです。こんな話を読むと近所だけに生々しくに感じられます。池波先生母方の寺は後楽園近く、富坂の西岸寺だとも書いています。

西岸寺
西岸寺

決戦の5月15日は、新暦でいうと7月4日。まだ梅雨の雨が降っています。

上野戦争

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