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江戸川乱歩「D坂の殺人事件」の団子坂


団子坂エリアは菊坂と同じく文豪の香りが漂うエリア。明治の頃は菊人形興行で栄えたといいますが、江戸時代はというと、、、

嘉永六年(1853年)「小石川谷中 本郷絵図」(団子坂)
嘉永六年(1853年)江戸切絵図「小石川谷中 本郷絵図」

上のほうに「ダンコサカ」とあり、都市の郊外、耕作地といったところでしょうか。

団子坂説明板

時代とともに、住宅地へと変貌し、多くの文豪(鴎外先生、漱石先生、光太郎先生などなど)が住み、物語に団子坂を登場させています。
その中で江戸川乱歩先生にスポットをあててみます。

短編推理小説「D坂の殺人事件」の検証

D坂とは団子坂のこと。乱歩先生は大正時代、団子坂で三人書房という古本屋を営んでいました。団子坂を舞台にした「D坂の殺人事件」をここで物しています。

その三人書房の跡地はというと、、、

三人書房の跡地と乱歩先生の描いた三人書房
三人書房の跡地と乱歩先生の描いた三人書房

今はパーキングになってるし、これは団子坂というより、団子坂上近くの平地です。
D坂の殺人現場である古本屋は蕎麦屋、足袋屋、古本屋、時計屋、お菓子屋の5軒並びの真ん中。

てっきり殺人現場の古本屋は三人書房の場所がモデルかと思ったら、隣は道です。

大正期の地図でみると、、、

三人書房の位置(大正5-10年 陸地測量部2万5千分の1地形図
三人書房の位置(大正5-10年 陸地測量部2万5千分の1地形図

やはり、隣は道、しかもトイメンはお寺です。

これは小説なので妄想の街並みです。
推理小説なので街もトリック用に作り変えなきゃ話が構築できません。

小説の中のD坂の描写はというと、、、

以前菊人形の名所だった所で、狭かった通りが市区改正で取拡げられ…
明治末の地図と大正の地図
明治末の地図と大正の地図

確かに広くなってます。明治の狭い道の頃はこんな感じ、、、

新撰東京名所図会(明治40年)団子坂菊人形興行
新撰東京名所図会(明治40年)団子坂菊人形興行

これは狭い!道幅5メートルだったらしく、両脇からの幟(ノボリ)を見ると太閤記、弁慶五条の橋、八犬伝とオモロそう。

古写真:菊人形(高田の馬場の決闘)
古写真:菊人形(高田の馬場の決闘)
古写真:明治37年頃の団子坂
古写真:明治37年頃の団子坂

このくらいの狭さが見物にはちょうど良いかと思われます。
漱石先生の「三四郎」ではヒロインがこの雑踏で気分が悪くなっています。

「D坂の殺人事件」は、大正時代のお話。
菊人形も衰退し、道も広くなり、、、

主人公「私」と明智小五郎は「白梅軒」というカフェで冷しコーヒー(笑)をすすっています。

D坂の向かいの古本屋をボォーと眺めているのですが、異常を察知した二人は古本屋のおかみさんが殺されているのを発見!「私」はおかみさんの幼なじみで第一発見者である明智小五郎を犯人ではないかと疑うのですが、、、

髪の毛ボサボサの明智小五郎が初めて登場した記念すべき作品です。小説の中で古本屋並びのお店が証言を述べていますが、密室殺人の匂いが。。。

蕎麦屋旭屋、足袋屋、古本屋(殺人現場)、時計屋、お菓子屋の並びになっていて、それぞれのお店は裏口を出ると路地で繋がっている。そして路地にはアイスクリーム屋の設定。

真新しいマンションも建ち並び、当時とはまるで変わっていますが、何かこのあたりで作品の痕跡はないかと探すと、、、

巴屋
巴屋

団子坂上の通りで創業天保元年のお蕎麦屋さんを発見!
この歴史あるお蕎麦屋さんなら、都電を降りて三人書房へ帰る途中に乱歩先生は立ち寄っていたのかもしれません。。。
と、思いきや、暖簾分けでこの地に来たのは昭和5年。
こりゃ、あかん(; ̄◇ ̄)

喫茶店「乱歩」
喫茶店「乱歩」

不忍通りを挟んで団子坂の反対にある三崎坂途中の喫茶店「乱歩」。
散歩、D坂より308歩って、なんでも乱歩の歩がついてます。店主が乱歩ファンらしい。

菊見せんべい
菊見せんべい

おっ、これはレトロな店構えのおせんべえ屋さん。
創業明治8年、菊人形見物のお土産用におせんべいを売っていたそうです。これも三崎坂です。

時代も違うし、事件現場検証は難しいですね。
地図で気になるものを探索してみます。

明治末の地図と大正の地図
明治末の地図と大正の地図

明治、大正とも上のほうに池が描かれています。行ってみると今も公園に池がありました。

文京区HPによると、、、

須藤公園は、江戸時代の加賀藩の支藩の大聖寺藩(十万石)の屋敷跡。その後、長州出身の政治家品川弥二郎の邸宅となり、明治22年(1889年)に実業家須藤吉左衛門が買い取りました。昭和8年(1933年)に須藤家が公園用地として東京市に寄付、昭和25年(1950年)に文京区に移管されました。
須藤公園
須藤公園。カッパに注意!の看板がオモロ。

大名屋敷跡の公園には滝まであって都会に渓流が存在してます。山に行きたくなってしまいますね。

滝(須藤の滝)
滝(須藤の滝)

HPによると、滝は午前10時から午後4時まで流れているとのこと。
自然の滝ではなかったのか、囧rz
そりゃそうです、源流が無いもの。

江戸期の団子坂

「D坂の殺人事件」の現場検証はうまくいきませんでしたが、気を取り戻してお江戸の団子坂をみてみましょう。

嘉永七年(1854年)安政四丁巳年 (1857年)改 尾張屋刊 江戸切絵図「東都駒込邉絵図」
嘉永七年(1854年)安政四丁巳年 (1857年)改 尾張屋刊 江戸切絵図「東都駒込邉絵図」

この古地図ではAが団子坂ですが、坂下に「シオミサカダニ」と表記があり、「潮見坂」とも呼ばれたいたことが伺えます。
海が見えていたので、坂上の鴎外先生旧居のネーミングが「観潮楼」(現森鴎外記念館)なのも納得できます。

やたらと「御林」「植木屋多シ」の文字が多く、お江戸の郊外という雰囲気が漂います。

しかも気になるのが「四季花屋敷 紫泉亭 眺望好シ」の表記。

名所江戸百景 団子坂花屋敷 安政三年(1856年)歌川広重画
名所江戸百景 団子坂花屋敷 安政三年(1856年)歌川広重画

紫泉亭については斎藤月岑の「武功年表」にあり、

四時の花を栽盆の如く育て、崖の辺りに茶亭を設け眺望良し、諸人遊覧の所となって日毎に群衆する者多し。

団子坂花屋敷は嘉永五年(1852年)開園といい、観光リゾート地として発展途上だったようです。その勢いが、植木職人の多いこの地の団子坂菊人形に繋がるのですね。

花屋敷といえば、今では浅草ですが、浅草花屋敷、両国国技館で電気仕掛けの菊人形興行がはじまり、団子坂のそれは徐々に人気を失っていったといいます。

団子坂花屋敷はのちに一区画が、元祖「藪蕎麦」に生まれ変わり盛り返しますが、明治期、そばでつくった財産で、相場に手を出し失敗!姿を消したようです。
神田藪そばの本家が団子坂だったなんて知らなかったです。

光源寺大観音

「東都駒込邉絵図」でもう一つ、B地点の「光源寺大観音」の表記。元禄十年(1697年)造立の御丈約5mの十一面観音像。惜しいことに空襲で焼失してしまいましたが、平成5年にもっと大きく御丈6m余の御像として再建されています。こりゃ、ピカピカで立派です!

興味深い団子坂エリア、まだまだ探索不十分です。「D坂の殺人事件」の現場検証はうまくいかなかったけれど、漱石先生、鴎外先生のエピソードも探索中です。

 


神楽坂と漱石先生


夏目漱石先生は新宿区喜久井町の夏目坂の出身で、晩年の約10年間(明治40年(1907年)〜大正5年(1916年))も実家近くの新宿区弁天町に住み、「三四郎」「それから」「こころ」といった代表作を執筆しました。

晩年に住んだ家の敷地の一部が漱石公園、漱石山房として一般公開されています。
弁天町から神楽坂は一本道。弁天町の漱石山房から神楽坂は漱石先生にとっては、ちょうど良い距離の散歩コースで買物といえばもっぱら神楽坂だったようです。

漱石公園
漱石公園
再現された漱石山房
再現された漱石山房のベランダ
ベランダでくつろぐ漱石先生
ベランダでくつろぐ漱石先生の写真が窓に貼ってあります。

漱石山房にて

藁店の「和良店亭」

漱石先生は神楽坂、地蔵坂の藁店(わらだな)にある寄席「和良店亭」に通って、落語を楽しんでいたといいます。

地蔵坂(藁店)
神楽坂のメインストリートから登っていく地蔵坂

藁店という地名は藁を売っていたお店(燃料店)があったのでそう呼ばれ、藁店にある寄席「和良店亭」って全部「笑う」の「わら」に掛かっていてイキです。(笑)
当時、神楽坂には寄席が5店もあったといいます。

神楽坂から藁店に入るところに文房具店「相馬屋」があり、漱石先生はいつもここで原稿用紙などを買っていて、お得意さんだったようです。尾崎紅葉先生も贔屓にしていたとのこと。

相馬屋
相馬屋

小説「それから」のヒロイン、三千代とは?

漱石先生の旧居、漱石山房から神楽坂へ行く途中に宗柏寺というお寺があります。

宗柏寺
明治の面影はないが近代美のある宗柏寺

明治の頃、このお寺の隣に鰹節屋があり、その鰹節屋のおかみさんが漱石先生のお気に入りだったと。。。
日記に度々、このおかみさんが登場します。

明治42年3月14日(日)
 今日も曇。きのふ鰹節屋の御神さんが新らしい半襟と新らしい羽織を着てゐた。派手に見えた。歌麿のかいた女はくすんだ色をして居る方が感じが好い。

歌麿が出てくる感想にセンスを感じます。。。

4月2日(金)
 散歩の時鰹節屋の御神さんの後ろ姿を久振に見る。

どうも気になるご様子。。。

4月3日(土)
 鈴木禎次曰く。夏目は鰹節屋に惚れる位だから屹度長生をすると。長生をしなくても惚れたものは惚れたのである。

鈴木氏は夏目家の親戚で漱石先生の健康を気遣ってこう言ったのでしょうか。
「惚れたものは惚れた」と開放的ですらあります。

そして鈴木氏宛の書簡にも、、、

今日散歩の帰りに鰹節屋を見たら亭主と覚しきもの妙なる顔をして小生を眺め居候。果たして然らば甚だ気の毒の感を起こし候。其顔に何だか憐れ有之候。定めて女房に惚れてゐる事と存じ是からは御神さんを余り見ぬ事に取極め申候。

手紙に書くほど気になるご様子。。。

いつも遠くから見ているだけだったが、旦那に睨まれ、おかみさんを余り見ないことにしたと。
「余り見ぬ」というところが漱石先生らしい。チラッとは見たいらしい。

漱石先生のエピソードにはいつも気負いが無く、天才なのに人間味があってホッとします。

古地図:明治後期の地図(漱石山房)と宗柏寺
明治後期の地図(矢印が漱石山房)と右上に宗柏寺。鰹節屋がどこだったかは、今となってわかりませんが。

小説「それから」は、親友の妻に恋してしまい、親友との仲も切れてしまうという問題作。

日記の内容からして、「それから」のヒロイン、三千代のモデルは、鰹節屋のおかみさんではないかと言われています。
並外れた妄想力に脱帽してしまいます。
鰹節屋の亭主はたいへんな役回りを背負わされてしまったということでしょうか 。

「それから」の三千代の描写はというと、、、

色の白い割に髪の黒い、細面に眉毛のはっきり映る女である。一寸見ると何所となく寂しい感じの起こる所が、古版の浮世絵に似ている
三千代は美しい線を綺麗に重ねた鮮やかな二重瞼をもってゐる。眼の格好は細長い方であるが、瞳を据えて凝と物を見るときに、それが何かの具合で大変大きく見える。

やはり、「浮世絵に似ている」でバレてますね。
さぞかし鰹節屋のおかみさんはキレイな方だったのでしょうね。

漱石先生は出不精だったようで、遠くまで行って取材するということはありませんでした。
なので私のランニングコースと漱石先生の行動範囲は、かぶることが多く、近所の坂道、橋など作品の中に、頻繁に登場させてくれます。
それにしても明治の人はよく歩いたものだと思うこともあります。「都電に乗って」という描写が出てくると付いていけませんが。

漱石先生は私にコースを教えてくれるランの先生でもありますわ (*’ヮ’*)。

古写真:明治の神楽坂
古写真:明治の神楽坂
漱石の散歩道
漱石公園にあった漱石散歩道コース

意外な歴史の神楽坂四部作

神楽坂と光照寺(牛込城跡)
神楽坂と仇討ち事件
神楽坂と漱石先生
神楽坂のオシャレな坂たち