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「陽だまりの樹」の三百坂

三百坂は、小石川伝通院の西側に位置し、なだらかで、優しげな坂です。お江戸の古い坂ですが、近くにある同じ江戸期の藤坂善光寺坂は、かなり急で厳しいイメージ。
新しい播磨坂吹上坂は、当然、自動車用なので長くタフなイメージ。それらに比べ三百坂は、坂道を走っているという感覚もあまり無く、短く、細く、そしてゆるくなだらかです。なのであまり好きになれずに気にも止めていなかったのですが、、、

しかし古地図を見ると、

まず、「三百サカ三百サカ下トヲリ三百サカ下通り」と三百坂関連の表記が多いことに気づきます。

古地図:嘉永七年(1854年)尾張屋刊江戸切絵図より
古地図:嘉永七年(1854年)尾張屋刊江戸切絵図より。(クリックで拡大)

表記が多いのは大名(松平播磨守)が江戸城登城の際、この道筋がメインストリートだったということでしょうか。古地図では大名の名の書き出しが表門なので下記の登城ルートが想像できます。

登城ルート
松平播磨守の屋敷があった播磨坂。
松平播磨守の屋敷があった播磨坂。
三百坂下通り
三百坂下通り。
三百坂
三百坂
三百坂説明板三百坂 さんびゃくざか
(三貊坂  さんみゃくざか)
『江戸志』によると、松平播磨守の屋敷から少し離れた所にある坂である。
松平家では、新しく召抱えた「徒の者(かちのもの)」を屋敷のしきたりで、早く、しかも正確に,役に立つ者かどうかをためすにこの坂を利用したという。
主君が登城のとき,玄関で目見えさせ、後 衣服を改め、この坂で供の列に加わらせた。もし坂を過ぎるまでに追いつけなかったときは,遅刻の罰金として三百文を出させた。このことから、家人たちは「三貊坂」を「三百坂」と唱え、人もこの坂名を通称とするようになった。
文京区教育委員会   昭和55年1月

遅参したら罰金!(*’д’*)、そんな無茶なぁ(*´Д`*) 〜з。
なんてえこともあったのかもしれません。

陽だまりの樹

手塚治虫先生は漫画「陽だまりの樹」の中で、その様子を描いています。

三百坂を登るシーン

誇張して急な坂のように描いています。
TV漫画ではこのように、、、

三百坂を登るシーン

三百坂を登るシーン

だまりの樹主人公の手塚良庵と伊武谷万二郎。
陽だまりの樹主人公の手塚良庵と伊武谷万二郎。

今の坂道を見ると、ずいぶんと大げさな表現です。

「陽だまりの樹」はなぜここから始まるか?

「陽だまりの樹」は三百坂の物語から始まります。
では、なぜここが舞台なのか?それは手塚治虫先生の先祖が住んでいた所だったからです。

古地図:嘉永七年(1854年)尾張屋刊江戸切絵図より「手塚良仙」
古地図:嘉永七年(1854年)尾張屋刊江戸切絵図より「手塚良仙」。

三百坂下通りの「手塚良仙」が手塚治虫先生の三代前のご先祖さまです。

古地図によると、今の竹早中学校のグランドの北西角の位置。
この辺りに内科診療所を開いていました。

手塚良仙の診療所跡
三百坂下通り、手塚良仙の診療所跡

三貊坂 ( さんみゃくざか)

三百坂の罰金三百文の話は面白い。
しかし元の名前「三貊坂」 は何なのか?とても気になります。

この坂には二つのクランクがあり、三つのパートが存在するので、「三」はわかるのですが「貊」は何か?
漢字の意味を辞書を引くと、、、

とは
 熊ににた猛獣の名(ばく)。しずか。中国北方の異民族の名。

異民族の名」というのが気になります。もう一度、古地図を見ると、

この近くの広い範囲が「タカジャウ丁」(鷹匠町)。

古地図:嘉永七年(1854年)尾張屋刊江戸切絵図より「タカジャウ丁」
古地図:嘉永七年(1854年)尾張屋刊江戸切絵図より「タカジャウ丁」。

江戸初期の地図では伝通院の東側に「えさし町(餌差町)」も存在します。

古地図:延宝八年(1680年)江戸方角安見図より「えさし町」「伝通院」青矢印が三百坂。
古地図:延宝八年(1680年)江戸方角安見図より赤矢印が「えさし町」「伝通院」青矢印が三百坂。

そうです。仏教でいうところの「殺生」をする職業集団です。
鷹匠は鷹を使い野鳥を殺生し、鷹の餌(食肉)をさばくのが餌差です。

近くの「氷川田んぼ」または「播磨田んぼ」(網干坂の項参照)には鶴が舞い降りたほどの、明治になっても狩場(藤坂の項参照)が存在したほどの田園地帯。
この周辺は今では想像できないほど自然豊かな野鳥の楽園だったと云います。

古地図:嘉永六年(1853年)尾張屋刊江戸切絵図より。 氷川田んぼ。松平播磨守屋敷の北側はやたらと「田」の表示が多い。
古地図:嘉永六年(1853年)尾張屋刊江戸切絵図より。
氷川田んぼ。松平播磨守屋敷の北側はやたらと「田」の表示が多い。
古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より「狩場」。
古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より「狩場」。

また、三貊坂は「三藐坂」とも書き、「陽だまりの樹」では冒頭で、「三藐坂」と言っています。

とは
 小さくてかすかなさま。 とおくまでほそぼそと続いているさま。また、とおくにあっておぼろげなさま。 小さいものと見なす。目にとめない。軽視する。

自論ですが、殺生をする職業集団を下げすまして「貊、藐」という漢字を使ったのかもしれません。

卑弥呼の「卑」のように。
決して卑しい巫女だったわけではありませんが、異民族を差別するための漢字の用法です。
攘夷の「夷狄」などはその最たるもの。

夷狄とは
 未開の民。野蛮人。えびす。外国人。

いずれにせよ、差別的な漢字は使いたくないので三百文の三百が通説になったことがうかがえます。

清河八郎

「陽だまりの樹」には幕末の志士「清河八郎」が登場し、主人公「伊武谷万二郎」と決闘します。

決闘場面

決闘に敗れた万二郎を治療するのが手塚良仙の子「手塚良庵」という設定です。
史実でも、三百坂近くの伝通院は清河八郎と関係の深い場所です。

浪士隊の処静院(しょじょういん)

徳川十四代将軍、家茂公の京都上洛を機に、清川八郎の発案により将軍警護を名目とした「浪士隊」が結成されます。

文久三年(1863年)2月、伝通院の塔頭の一つ、「処静院(しょじょういん)」に於いて浪士隊の採用試験が行われます。

古地図では「所浄院」と表記され、江戸名所図会では端のほうに描かれています。

古地図:嘉永七年(1854年)尾張屋刊江戸切絵図より「所浄院」
古地図:嘉永七年(1854年)尾張屋刊江戸切絵図より青矢印「所浄院」赤矢印が三百坂。
江戸名所図会より処静院
江戸名所図会より処静院。(クリックで拡大)

残念なことに、廃寺となり、今では伝通院前に、処静院門前にあったという「不許葷酒入門内」の石柱が遺るのみです。

伝通院
伝通院

不許葷酒入門内

しかしながら、後の新選組の近藤勇・土方歳三・沖田総司・芹沢鴨らが、ここに集合したかと思うと胸が熱くなります。

浪士隊は身分、家柄不問の募集ということで、志ある若者、武士を夢見る若者が集まったのです。

その後、清川八郎は文久三年(1863年)4月13日、幕府の刺客、佐々木只三郎(一説には坂本龍馬暗殺の首謀者とも云われている)など6名によって麻布一ノ橋に於いて暗殺されます。享年34。

清川八郎の墓

墓所は伝通院にあります。
ふと見るとお隣は鷺坂の命名者、ロマンチックな詩人、佐藤春夫先生(1892年(明治25年)- 1964年(昭和39年)没)の墓。

佐藤春夫墓

なんともミスマッチですが、ここ東京文京区は江戸初期から幕末、近代にかけての歴史の色濃い土地柄です。

処静院跡

今では、もとの処静院境内を貫くように三百坂から伝通院へと道が通っています。

この道の奥が処静院のあった場所。
この道の奥が処静院のあった場所。
浪士隊結成の地処静院跡浪士隊結成の地 
処静院跡(しょじょういんあと)
 浄土宗処静院は伝通院塔頭(たっちゅう)の一つであったが、明治に入り、現在の淑徳学園あたりに移り、その後廃寺となった。今は伝通院門前に「不許葷酒入門内(くんしゅもんないにはいるをゆるさず)」の文字が刻まれた、処静院の石柱を残すのみである。
 文久3年(1863)2月4日、浪士隊の結成が、ここ処静院で行われた。浪士隊は幕末、京都守護職(合図藩主松平容保)のもとで活動した新撰組の前進である。隊結成に当たり、中心となった人物は清河八郎で、幕臣の鵜殿長鋭(うどのながとし、鳩翁きゅうおう)が目付、山岡鉄太郎(鉄舟)が取締役の職に就いた。
 鉄舟の懇意であった処静院の住職琳瑞(りんずい)は結成の趣旨に賛同し結成の場所として本院を提供した。後に新撰組幹部となる試衛館道場の近藤勇土方歳三沖田総司なども参加し、総勢約250名ほどで京都に上がった。しかし、尊王攘夷をめぐって隊は分裂し、江戸にもどった清河八郎は、麻布一の橋で刺客の手で斃された。享年34歳であった。現在墓は伝通院にある。また、住職琳瑞も慶応3年(1867)小石川三百坂で刺殺された。享年38歳であった。

平成26年3月
文京区教育委員会

山岡鉄舟の住まいは今の播磨坂(松平播磨守屋敷を貫くかたちで開削された大きな坂道)辺りで、しかも同じく幕末三舟の一人、高橋泥舟のお隣。

嘉永七年1854年尾張屋刊江戸切絵図より「鉄舟、泥舟」
嘉永七年1854年尾張屋刊江戸切絵図より「鉄舟、泥舟」。

もう一人の舟は、言うまでもなく勝海舟です。
説明板には、処静院住職の琳瑞は三百坂で刺殺されたとあります。

三百坂は、なだらかで小さな坂ですが、幕末、大きく動き、急激に燃えた歴史の表舞台だったのです。

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都会に残る鎌倉街道をゆく4 ジブリの駄菓子屋、雑司ヶ谷鬼子母神編

鬼子母神参道入口鎌倉街道の関所があったという宿坂を登り、大きな目白通りの向こう側に細い古鎌倉街道は続きます。

この細さは、この道が人馬のためのものであったことを物語り、また古い街道は緩く曲がり決して真直ぐには伸びてはいない。

古鎌倉街道

そんなことを思いながら進むと、都電の踏切という懐かしい光景に遭遇します。

都電荒川線の踏切

都電と踏切のある風景

都電荒川線昨今、鉄道と交差する車道は立体交差になり、踏切は少なくなりました。
この都電荒川線は大通りが出来たせいか、この道に入ってくる車は少なく、都電の本数もまばらで、昔よく言った「開かずの踏切」では決してありません。

そして、のんびりと穏やかな情景が展開されます。
様々なカラーリングの都電が走り、鉄ちゃん、鉄子には嬉しいショットが撮れます。

都電踏切

踏切を渡り進むとY字路にあたります。
古鎌倉街道は鬼子母神の参道の方へと続きます。本来の古鎌倉街道は法明寺の脇を通るルート。

雑司ヶ谷鬼子母神の成立は室町時代と考えられ、その頃から街道が参道になっています。

古鎌倉街道のY字路

欅並木の参道

この参道は江戸時代、お土産屋、料亭(料理屋)で賑わったところです。

ちょうどY字路の角には、かつて、料亭「茗荷屋」があり江戸料理屋番付に載るほどの人気料理屋でした。

料理屋番付(雑司ヶ谷茗荷屋)
江戸の料理屋番付。クリックで拡大。

豊島区の資料によると、茗荷屋をはじめ、蝶屋、耕向亭、武蔵屋、萬屋判助、松屋、伊勢屋、常陸屋、福山、桝屋などが軒を並べ、文化文政期には文人墨客が酒宴や書画の会を楽しむ場となりました。

金剛寺坂坂上に住んだ当代一の文人、大田南畝も通っていたようです。幕末になると、彰義隊がその結成過程において茗荷屋で会合を持ったという話もあります。

古写真:王子の扇屋
古写真:王子の扇屋

料理屋番付王子扇屋料理屋番付の上位にある「王子の扇屋」は、幕末に、フェリーチェ・ベアト(1832年 – 1909年)が、流れる音無川と一緒に撮った古写真が残っており、「雑司ヶ谷の茗荷屋」もこのような佇まいだったかと想像します。

いくつもあった川口屋

鬼子母神門前
鬼子母神門前。赤矢印が茗荷屋。が三つの川口屋。クリックで拡大。

この豊島区の資料によると「川口屋」が三軒あります。「川口屋あめや」と「川口屋だんごや」が二軒。

江戸名所図会にも鬼子母神境内に「あめや」が数件描かれ、「川口屋」が多いとわざわざ記されています。これはいったいなぜでしょうか?

川口屋あめや(江戸名所図会より
川口屋あめや(江戸名所図会より)。クリックで拡大。
正徳の頃(1711〜1716年)、丑之助なるものが鬼子母神境内で当時は高級品だった切り飴を売り出します。近くを流れ、豊かな農耕をもたらす弦巻川(つるまきがわ)を愛でて、屋号を「川口屋」とし、家紋は弦巻川の「つる」から採って「鶴の丸」。
この川口屋は、たいそう繁盛し、それにあやかり名代を借り、川口屋を名乗る店が続出したと。

どの川口屋の系列かはっきりしないと豊島区の資料では言っていますが、今も境内には1781年(安永10年)創業の「上川口屋」が残ります。

1781年でも古いと思っていましたが、そのルーツは1710年代とは驚きです。

上川口屋
上川口屋

この店舗は現在、駄菓子屋を営んでおり、日本一古い駄菓子屋として有名です。

ジブリの映画「おもひでぽろぽろ」の駄菓子屋のモデルになっています。

おもひでぽろぽろ

ジブリの駄菓子屋は、この上川口屋そのものと言って良いくらい似ていますが、私の思い出にある昭和の駄菓子屋とは、少し違うような気がします。

それもそのはず、この店舗は明治の造りで、関東大震災も戦災も乗り越えてきた建物です。

雑司ヶ谷鬼子母神

雑司ヶ谷鬼子母神堂

雑司ヶ谷鬼子母神堂

鬼子母神の由来は以下のように伝わっています。

鬼子母神のご本尊は室町時代の永禄4年(西暦1561年)、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土(文京区目白台)の地の辺りより掘りだし、星の井(清土鬼子母神境内にある三角井戸)でお像を清め、東陽坊(後、法明寺に合併)という寺に納めたものです。
 東陽坊の一僧侶が、その霊験顕著なことを知って、ひそかにご尊像を自身の故郷に持ち帰ったところ、意に反してたちまち病気になったので、その地の人々が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したとされています。

その後、信仰はますます盛んとなり、安土桃山時代の天正6年(1578年)『稲荷の森』と呼ばれていた当地に、村の人々が堂宇を建て今日に至っています。

星の井と云う三角井戸

鬼子母神ご本尊を清めた星の井とはどんなものだったのでしょうか?

星の井(江戸名所図会より)
清土星の清水(江戸名所図会より)クリックで拡大。

江戸名所図絵にも鬼子母神のお像を清めた三角形の井戸が描かれています。清土鬼子母神に行ってみると、今も三角形の井戸があります。

清土鬼子母神の星の井
清土鬼子母神の星の井
鬼子母神出現の地の碑がある清土鬼子母神
鬼子母神出現の地の碑がある清土鬼子母神

清土(文京区目白台)は古代から古墳文化を持つ人々が住んだ地で、掘り出されたのは土偶か古墳の副葬品かもと、ロマンを感じつつ、想像してしまいます。(目白坂の謎の碑の項参照)

武芳稲荷

資料によると「稲荷の森」と呼ばれていた頃、鬼子母神のご本尊は境内の武芳稲荷に祀られていたようです。

江戸名所図会の「いなり」がそれで、今ではエクザイル風(鳥居が幾十にも重なる)の鳥居に彩られています。

雑司ヶ谷鬼子母神と法明寺(江戸名所図会より)
雑司ヶ谷鬼子母神と法明寺(江戸名所図会より)クリックで拡大。
現在のお堂は、本殿が寛文4年(1664年)徳川4代将軍家綱の代に加賀藩主前田利常公の息女で、安芸藩主浅野家に嫁した自昌院殿英心日妙大姉の寄進により建立され、その後現在の規模に拡張されています。

江戸の物見遊山の地

江戸の中心地を千代田区、文京区、中央区とすると、雑司ヶ谷鬼子母神は郊外にあたり、日帰りの物見遊山(Oneday trip、リクエーション、ハイキング)が盛んだだったようです。

江戸切絵図を見ても緑の深いエリアで、雑司ヶ谷八景なる名所もあったそうです。

嘉永七年(1854年)安政四丁巳年(1857年)改 尾張屋刊 雑司ヶ谷音羽図
嘉永七年(1854年)安政四丁巳年(1857年)改 尾張屋刊 雑司ヶ谷音羽図

日帰り旅行、ハイキングが盛んだったのは、鬼子母神のご利益、風光明媚だったことがあります。観光地として有名になると、次に、ご当地のお土産が生まれます。

鬼子母神名物

すすきみみずく鬼子母神は殊に子宝、子育てにご利益があったので、お土産も子供のためのおもちゃ系。中でも有名なのが、薄(すすき)みみずく。ジブリの駄菓子屋にも描かれています。

今は途絶えてしまいましたが風車が有名だったようで江戸名所図会に描かれています。

風車売り(江戸名所図会より)
鬼子母神の風車売り(江戸名所図会より)

江戸名所図絵では、みみずくのほかに「風車」「角兵衛獅子」が有名と云っています。「角兵衛獅子」とはどのようなものなのかと思い探すと、参道の観光案内所で見ることができました。

みみずくと風車
薄みみずくと風車
角兵衛獅子
藁作りの角兵衛獅子。

都会に残る古鎌倉街道の終点

江戸名所図会を見てもわかるように参道はここで直角に曲がり、鬼子母神へと続きます。

古鎌倉街道終点

法明寺
法明寺

本来の鎌倉街道は参道を真っ直ぐ伸び法明寺の脇を通り、池袋から王子へと続いていたとされます。
この先の池袋は昔は池袋村でしたが今では渋谷、新宿に並ぶ大都会。古道の痕跡はほとんど残っていません。

高田の馬場から鬼子母神は、都電荒川線同様、都会に古道が残った稀有なエリアです。都電も古鎌倉街道も長く残って欲しいものです。(完)

※このシリーズの古鎌倉街道の道筋は寛延4年(1751年)、酒井忠昌により著された「南向茶話」に寄ります。

 頼朝伝説、堀部安兵衛の
鎌倉街道を行く1(新宿区編)

❷ 太田道灌、山吹の里の
鎌倉街道を行く2(豊島区前編)

 鎌倉街道の関所があった
鎌倉街道を行く3 宿坂(豊島区後編)

 江戸情緒の濃い鬼子母神
鎌倉街道をゆく4 雑司ヶ谷鬼子母神編

古鎌倉街道道筋

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