「東京の坂道(豊島区)」カテゴリーアーカイブ

太田道灌、山吹の里の鎌倉街道を行く2(豊島区前編)


いつもはお江戸の昔を探しているわけですが、前回の新宿区の古鎌倉街道は頼朝伝説の濃い地であり、なおかつ古墳さえもあり、その歴史の深さには驚くべきものが。

何気ない小径もその歴史を知れば、あたかもタイムマシンに乗ったかのようです。

面影橋
面影橋

豊島区の鎌倉街道今回は面影橋を逆方向の北方面、豊島区へと。そして、相棒のワトソ子くんにいただいたお題。古地図のわけのわからない描写。沼の中の土地。

川にかかる赤表示は面影橋であるのだろうけれども、一体これは何なのか?

まあ、走ればわかると言うので、行ってみます。面影橋を北へ渡るといきなり、、、

太田道灌、山吹の里

橋の北詰、オリジン電気入口の前に山吹の里の碑が立っています。

山吹の里の碑
山吹の里の碑
太田道灌が鷹狩りの際、この辺りで急に雨に降られます。ある貧相な農家で「蓑を所望したいが」というと、農家の娘は何も言わずに山吹の一枝を差し出します。この娘は口も聞けず、私の言うこともわからないのかと怒ってその場を立ち去ります。その後、家来のものに、そのことを話すと、それは後拾遺和歌集にある歌「七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」の「実の」と「蓑」をかけておりますぞと。
そのことを知った道灌は、自分の歌道の暗さを恥じ、励み、一流の歌人になるのでした。

落語「道灌」でもおなじみのくだりです。

山吹の里(江戸名所図会より)
山吹の里(江戸名所図会より)クリックで拡大。

江戸名所図会の挿絵では脇に川が流れ、橋が架かり、神田川沿いのここが、あたかも、その地のように思えるのですが、「山吹の里」を名乗る地が関東地方には多々あります。

幼少の頃から鎌倉建長寺に入り学び、歌道に明るかった道灌が「山吹の歌」を知らないはずがなく、後世の作り話であることは明確です。

では、なぜ、ここに碑があるのか?

太田道灌大正時代の初め、田中光顕が数寄屋造りの草庵「一夢庵」をこの地に建てます。彼がこの碑を面影橋のたもとに置いたようです。

田中光顕は道灌愛用の品々を蒐集するほどの愛好家でしたが、大正時代末、近隣の火事の類焼で一切のものを消失。

江戸名所図会に描かれているような道灌愛用の笠もあったそうな。本物だったかどうかは眉唾ですが。

山吹の里説明板

山吹の里の碑家紋また、説明板に書かれているように、この碑はお武家の奥方の墓石のリサイクル版です。

そうと知らなくても、書体が新しすぎるし、ご婦人の墓石によく使われる如意輪観音だし、うっすらと家紋、刻字も残っているしリサイクルバレバレな碑です。

古鎌倉街道、いきなりの道灌伝説。豊島区側も興味深いものがあります。

姿見橋

姿見橋は農業用水にかかる小さな橋だったようで面影橋のことを姿見橋というケースもあります。幕末の江戸切絵図では面影橋のことを姿見橋と表記しています。

永七年(1854年)尾張屋刊江戸切絵図より牛込市ヶ谷大久保絵図
嘉永七年(1854年)尾張屋刊江戸切絵図牛込市ヶ谷大久保絵図より。
嘉永七年(1854年)尾張屋刊江戸切絵図雑司ヶ谷音羽絵図より
嘉永七年(1854年)尾張屋刊江戸切絵図雑司ヶ谷音羽絵図より。

おそらく神田川の蛇行、洪水、河川修理などで幕末には消滅した用水に架かっていたのが本来の姿見橋。

1830年代刊行の江戸名所図会では別々に描かれています。

面影橋と姿見橋(江戸名所図会より)
面影橋(傍のはし)と姿見橋(江戸名所図会より)クリックで拡大。

姿見橋の伝説はというと、

夫の友人に横恋慕されたあげくに夫を殺されてしまった悲運の美女が、その仇討を遂げ、川の流れにその姿を映して、自分の美貌を憎み、身を投げたと。

まあ、「自分の美貌を憎み」というありえない話で、伝説というものは、とかくキレイな話にしたがります。

一方、ブラックな説では、北条氏が支配した時代、近くに仕置場(処刑場)があり、罪人の後ろ姿をこの橋のたもとで見送ったと。血生臭い中世を考えると、こちらの説の方が正しいように思います。

今は無き姿見橋があったところは、江戸名所図会でいうと、左手に氷川。右手に南蔵院の手前。

氷川、南蔵院、姿見橋
氷川、南蔵院、姿見橋
氷川神社
氷川神社。正確には高田総鎮守氷川神社。平安時代、在原業平も参拝したという言い伝えがあります。
南蔵院
南蔵院
南蔵院
南蔵院本堂

氷川神社、南蔵院位置関係

奥に変則十字路。あれっ?何かに似ている?
ワトソ子くんのお題の地?航空写真で見てみてもそっくりです。

航空写真

正保年中(1645-1648年)江戸絵図より
正保年中(1645-1648年)江戸絵図より。この地図ではこげ茶色が沼地。沼地の中に土地がある。

早速、ワトソ子くんにメッセ。返信は、、、

「そうです、坂道社長。そのようですわ。この大雑把な地図は江戸の初めの開発期のものです。鎌倉街道がクランクしています。

南蔵院には、鎌倉時代「鏡が池」という大きな池があったので大鏡山南蔵院と号しています。
大きな池があったので自然と街道はクランクしたのでしょうが、片側にも沼地があり、その中心に今は氷川神社があります。

想像すると宿坂の関所を突破した敵を左右から撃退するための天然の要害、砦だったように思われます」

「そっ、そうだね。この地図を見ると、まるで堀で囲まれたお城のようだね」

ここは中世、軍事施設だったような気がします。寺社は軍隊が集結するのに都合の良い地です。クランクで敵の勢いを弱め、左右から攻撃できる。今となっては中世のことはわかりませんが、坂道探偵にはそのように思えてなりません。

中世の頃、出城だった赤城神社、砦だった筑土八幡などの例を見ると怪しい地形です。

戦いを繰り返していたであろう中世。豊島氏、太田氏、後北条氏と支配者が入れ替わり、主要な街道であるこの道に砦、敵を迎え撃つ軍事施設はいくつもあったはずです。今となっては遠い昔で、知るすべはありません。

ともあれ、江戸期には名所の一つに数えられています。

高田南蔵院、氷川社など(江戸名所図会より)
高田南蔵院、氷川社など(江戸名所図会より)クリックで拡大
古鎌倉街道クランク部
古鎌倉街道のクランク部。ここに右橋、高札場、茶屋があった。

高札場、茶屋クランクしたところに「右橋」があり、有事の際はこの橋を落とせば、、、などとまた軍事的なことを考えてしまいますが、立証する資料がないのでこの辺で止めておきます。

また、高札場、茶屋も描かれていて、古くは交通の要衝だったことを物語ります。
なんとも、面白い地形です。
南蔵院の六地蔵 また、江戸名所図会を注意深く見ると、南蔵院境内に六地蔵が描かれていて、今も健在です。
昔は屋根が付いていたようですが。

六地蔵

クランクして古鎌倉街道を進むと、やっとのことで鎌倉街道の関所があったという宿坂に辿り着きます。

宿坂
鎌倉時代、関所があったという宿坂。

ここも見るからに、歴史が深そな予感が。

 icon-arrow-circle-right 鎌倉街道を行く3 宿坂(豊島区後編)へ続く。


本妙寺坂と遠山の金さん


本妙寺坂と
巣鴨にある遠山の金さんのお墓の関係

本妙寺は、もともと文京区本郷丸山にあり、1657年、振袖火事の出火元として有名です。一説には本郷の幕府有力者が真の火元で、隣接する本妙寺が身代わりになった、とも言われております。
そりゃそうです、火元になって取り潰しにもならず、現在まで残っているのだから。

明治44年、巣鴨に寺、墓所とも移転。文京区本郷には本妙寺坂と坂名だけに名残りが残ることになったのです。
お寺がないので何の変哲もない坂ですが、本妙寺坂は菊坂エリアの一部です。見所は菊坂エリアをご参照ください。

しかしながら、移転先の本妙寺が気になって、走って行ってみました。

移転先、巣鴨の本妙寺

本妙寺が、なんで巣鴨に移転?と疑問に思ったんですが、走っててわかりました。この辺り一帯は都営の染井霊園。静かで立派な一大墓所パークが広がっています。染井は桜のソメイヨシノでも有名です。

染井霊園
染井霊園
遠山の金さんのお墓
遠山の金さんのお墓

さて、遠山の金さんのお墓も移転してきました。金さんのお墓の脇には「天保十三年 遠山氏先栄の碑 遠山景元建」と描かれた碑があり、金さんの揮毫と思われます。「この碑が見えねえかっ!」と一括された気がしました。

天保十三年 遠山氏先栄の碑 遠山景元建
天保十三年 遠山氏先栄の碑 遠山景元建

そのほか、鷺坂上にあった大名家、久世大和守代々の大規模な墓など、墓所も移転って相当な大工事だったのでしょう。

久世大和守代々の墓
大規模な久世大和守代々の墓の数々