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いだてん・金栗四三「マラソン足袋の第一歩、黎明の鐘」

黒坂辛作は明治十四年(1881年)の兵庫生まれ。足袋作りの修行をして二十一歳の時、東京で一旗揚げようと上京。明治三十五年(1902年)小石川区大塚仲町十番地に足袋店を開業。屋号は生まれ故郷からとって「播磨屋」とします。

黒坂ビル
播磨屋があった現・黒坂ビル。

翌年、店の裏手の大塚窪町に東京高等師範学校(現・筑波大学)が御茶ノ水から移転してきます。

古写真:東京高等師範学校
古写真:東京高等師範学校。
筑波大学
現・筑波大学。

東京高等師範学校では、春と秋には校内長距離走大会があるとかで、生徒たちが足袋を買いにきます。足袋は軽く、長距離を走るのに適しているらしく、自分でも思わぬところから需要があって驚きます。

大正5-10年(1917-21年)陸地測量部2万5千分の1地形図より
大正5-10年(1917-21年)陸地測量部2万5千分の1地形図より小石川区大塚仲町十番地大塚仲町停留所

さらに明治四十四年(1911年)十一月二日、東京市電が大塚辻町まで伸び、店の前に停留所が出来て、人の流れが生まれ、商売はますます繁盛します。

東京市電1型
東京市電1型。

東京市電

明治の世はまだまだ和装が中心。足袋は和装には欠かせないアイテム。その職人カタギの腕は評判を呼び、お客さんがどんどん増えていきます。

オリンピック予選会の翌日

明治四十四年(1911年)十一月二十日、前日に行われた死闘、オリンピック予選会で足袋がボロボロになり最後は裸足で走った金栗四三は、播磨屋の足袋職人・黒坂辛作に苦情を言いにいきます。最初はうなずきながら黙って聞いていた辛作ですが、いがぐり頭の学生、自分より十も若い坊主に怒り心頭、怒鳴りつけてしまいます。

飛脚それもそのはずです。
古写真を見ても、飛脚でさえ、はんだこか股引き・足袋、そのうえにワラジを履いています。
もともと足袋は地面を直に蹴るものではなく、足袋職人が怒るのも無理はありません。

オリンピック予選会後、野口源三郎の足袋
オリンピック予選会後、野口源三郎の足袋。

レース後の記念写真を見る限り、同じ徒歩部の野口源三郎の足袋は無事だったようで、きっと、そのことを言ったのでしょう。

怒鳴られた金栗は、新しい足袋を買って、そそくさと逃げるように店を出てゆきます。

オリンピック代表に内定

年が明けた明治四十五年(1912年)正月、金栗は足袋が破けても自分でくつろい、毎朝の飛鳥山往復の練習も続けています。

校庭での徒歩部トレーニング風景

嘉納治五郎この月、嘉納治五郎の校長室に呼びだされ、ストックフォルム・オリンピック代表に内定したことを告げられます。
オリンピック代表といえば、お国の代表、お国の威信を背負うことに相違ありません。金栗は恐れ多いとその場で固辞しますが「費用は国が出す。返事は今すぐでなくとも良いので考えておいてくれ」と言われます。

当初、嘉納治五郎はオリンピック代表に五名を考えていました。マラソン競技で世界記録を破った金栗佐々木井出と短距離の三島明石

オリンピック予選会を参照

三島弥彦
三島弥彦。

オリンピック予選会において、東京帝大の明石は二百メートル走と走り幅跳びに優勝。東京帝大法科生の三島は卒業を控えて、スポーツ愛好会「天狗倶楽部」の一員として、この日は審判をしていましたが、生来のスポーツ好きとその身体能力がうずき、飛び入りで参加。百、四百、八百メートル走に優勝してしまった破天荒な逸材です。

明治三十三年(1900年)頃の東京帝国大学法文科。

文部省に直談判

嘉納治五郎は、竹橋の竹平町にある文部省を訪れ、費用の工面を申し出ます。

古地図:明治39-42年(1906-09年)2万分の1測図より文部省
古地図:明治39-42年(1906-09年)2万分の1測図より文部省。
明治後期の文部省
明治後期の文部省。
毎日新聞東京本社。ここはかつて文部省があった地。
毎日新聞東京本社。ここはかつて文部省があった地。
長谷場純孝
長谷場純孝。

時の文部大臣・長谷場純孝に直談判するも、この頃の日本は日露戦争に勝ったとはいえ、犠牲も多く国力は疲弊、オリンピックどころではない財政状況です。
学生の駆けっこごときに国費が使えるかっ」と一蹴されてしまいます。

しかたなく、大日本体育協会理事・アメリカ帰りの大森兵蔵と相談。三島子爵の御曹司である三島弥彦は自費参加、最も可能性のある金栗四三のために後援会をたちあげ寄付を募ることとし、代表は二人に絞り込みます。

しかし、三島は卒業試験を控えていて「駆けっこのために学校を休んでいては卒業できない」と拒否。嘉納治五郎は東京帝大に掛けあい、なんとか三島の卒業試験を延期してもらいます。

金栗の決意、黎明の鐘が鳴る

問題は金栗です。再度、嘉納治五郎は金栗を校長室に呼びます。

自費参加になってしまったが、費用は後援会でなんとかするから行ってほしい
……いっ、いやです。お国の期待を一身に背負うことなぞ自分には荷が重すぎます……

かたくなに拒否する金栗ですが、

誰かが一番最初にやらなくてはいけないことだ。どうか国のため、黎明の鐘となってくれ。君は失敗を恐れているのだろうが、世界の舞台で最善を尽くせばそれで良い。君の足跡に誰かが続いてゆくのだ

教育者・嘉納治五郎が熱く、そう説くと、金栗の気持ちは揺り動かされます。愛国心が湧き上がり「オリンピックに出場することは自分のためではない、出場すれば、お国のためになるのだ」そう思い承諾。明治四十五年(1912年)三月、初参加となる二人のオリンピック代表選手が決まり、金栗は日の丸を胸にすることを決意します。

オリンピック派遣選手決定

さて、費用は嘉納治五郎先生がなんとかすると言ってくれたので、自分は練習に打ち込めば良いのですが、問題は足袋です。
一度怒らせてしまった播磨屋に頭を下げて事情を話し、マラソン用の足袋を作ってほしいと頼むと「ようがす……」と一言。職人らしく言葉少なな返答が返ってきます。

金栗四三

「ストックホルムの死闘」へ続く

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