いだてん・金栗四三「ストックホルムの死闘」

播磨屋の足袋職人・黒坂辛作は底を二重に補強した足袋二十足を、金栗四三に持たせます。

播磨屋の足袋でオリンピックに負けたなんてぇ言われたら困るからなあ

後援会、仲間たちが奔走。寄付をかき集め、足りない分は故郷の兄が工面。多額の参加費用もどうにか集まり、金栗は多くの人々に支えられます。

明治四十五年(1912年)五月十六日、金栗は大塚の東京高等師範学校から「送国際選手金栗四三君」と書かれた大きなノボリを先頭に、見送りの行列百数十名とともに徒歩で出発。

二重橋

途中、二重橋前で皇居を礼拝、万歳を三唱して新橋停車場へ。

明治四十年ごろの新橋停車場
明治四十年ごろの新橋停車場。
復元された汐留の旧新橋停車場。
復元された汐留の旧新橋停車場。

ストックホルムへの長いながい旅の始まりです。

新橋停車場前では千人以上が送別激励に集まっています。この頃の日本人は、日露戦争に勝ったことで世界の一流国の仲間入りを果たしたとの自負があり、オリンピックでも勝ってくれとの期待が否応なしに高まっています。

選手団一行は、アメリカでスポーツ科学を学んだ大森兵蔵監督、阿仁子(Annie Shepley Omori)夫妻の引率、短距離の三島弥彦とマラソンの金栗四三の二選手。阿仁子は語学、西洋マナー面をサポートしています。

汽笛一声、万歳に送られて汽車は出発します。

大陸横断ストックホルムへの道

東海道本線・米原駅で汽車を乗り換え、船が出る敦賀港に向かいます。

敦賀港において。左から三番目、日本橋三越で山高帽・スーツを新調した金栗。
敦賀港において。左から三番目、日本橋三越で山高帽・スーツを新調した金栗。

船で大陸に渡り、シベリア鉄道で大陸横断。金栗と三島は二等寝台の四人部屋。たまたま一緒になったロシア人二人は日本にいたことがあり、フレンドリーで会話には困りません。
困ったことは朝の洗面。小ビン一本の水で済まさなければならず、あらためて水の豊かな日本、水の有り難さを知ります。

汽車での食事は節約のため缶詰などで自炊。
パンと牛乳は停車駅で買い、アルコールランプで牛乳や湯を沸かし、まるで遠足のようだと一同笑いますが、日に日に日本食が恋しくなってゆくのは当然のこと。

モスクワに到着。ここで数日間滞在します。在ロシア・本野大使は三島の親戚筋にあたり歓待してくれます。久々の日本料理は格別な味わい。日本橋三越で新調した燕尾服に着替え、大使館員の案内で徹夜で行われる上流階級のパーティを見学して呆然。ともあれ初めてずくしの貴重な経験をします。

そしてバルト海を船で渡り、旅の十七日目、ストックホルムに着きます。

当時のストックホルム。手前バサ橋、奥に国会議事堂。
当時のストックホルム。手前バサ橋、奥に国会議事堂。

オーストラリア選手団に次ぐ二番目の到着。開会式までは一ヶ月余。この間に長旅の疲れをとり、現地の気候でトレーニングしようという計画です。

歓迎ムードと現地練習

しかし、待っていたのは東洋からの、有色人種の初参加を珍しがるマスコミの取材攻勢。歓迎ムードと、まるで未開人が都会に出てきたかのような扱いよう。

日本選手団到着を知らせる現地新聞
日本選手団到着を知らせる現地新聞。左から金栗、大森監督、三島。

また、北欧スウェーデンは白夜の季節に入っており、夜はなかなか寝つけません。洋食に飽き飽き。さらに、大森監督は持病(肺結核)が悪化、寝込んでしまいます。

毎日午前中はスウェーデン語の勉強、午後は監督に代わって三島の練習に付き合い、スターターからタイムまで一人でこなします。欧米チームは大柄な選手と監督、コーチ、トレーナー、マッサージャー、ドクターまでいることに驚かされます。
三島の練習の後、白夜の街をランニング。当時の日本では珍しい舗装路・石畳など、見るもの全てが日本とは違う光景です。

金栗が走っていると「China! China!」と指をさされ、国際社会での日本の認知度の低さを実感。自動車の並走を伴う欧米選手の練習に驚き、恵まれない環境の自分を鼓舞。「本番を見ておれ」と闘志を燃やします。

選手控室では、他国選手と交流、研究を怠りません。短距離に比べ長距離は小柄な選手が多く、日本人でも引けを取らない、やれると感じます。

珍しい足袋

初マラソンの三人が世界記録を破ったなどとは距離か時計の間違いだと参考記録となってしまいますが、世界新を出した金栗の評判は海外にも伝播しています。
これを履くと世界新がでるの?」と、親指に股があり、コハゼという金具で止める日本古来の足袋は好奇の目で見られます。興味津々、とても珍しがる他国選手たちはお土産に足袋を欲しがり、気のいい金栗はプレゼントします。

舗装路が多いストックホルム、残しておいた足袋も石畳での練習で破れてしまい、ここでも環境の差を痛感。あわてて播磨屋の辛作さんに電報を打ち、足袋の改良版を求めます。

プラカード問題

やがて多忙を極める日本選手団団長・嘉納治五郎が別便で到着。開会式で日本のプラカードになんと書くかが問題になります。大森監督は「JAPAN」を主張。金栗と三島は「日本」。欧米人に通じなければ意味がない、いや、JAPANは欧米人が勝手にそう呼ぶだけで我が国は日本です!と一悶着ありますが、嘉納治五郎はローマ字で「NIPPON」とします。

これなら誰でも読めるし、日本だし、双方、これで良いな。これこそが『自他共栄』というものだ

嘉納治五郎の書
嘉納治五郎の書。

大会本部もこれを認め、オリンピックでの「NIPPON 」表記はこの時だけ。嘉納治五郎らしいエピソードです。

開会式

明治四十五年(1912年)七月六日、ストックホルムオリンピックは華々しく開幕します。日本選手団は、日の丸を掲げる旗手・三島、「NIPPON」のプラカードを持つ金栗、嘉納団長、大森監督、ドイツ留学中の京都帝大・田島博士、在スウェーデン内田公使の六名のみ。

ストックホルムオリンピック日本選手団
行進する日本選手団の一行。
旗手の三島弥彦は陸上用スパイク、金栗四三は黒い足袋を履いています。
旗手の三島は陸上用スパイク、金栗は黒い足袋を履いています。
開会式。三島の持つ日の丸が確認できます。
開会式。三島の持つ日の丸が確認できます。

参加二十八カ国、選手数2541人の大行進に、金栗はカチカチに緊張します。が、日本選手団の数の少なさが群衆の興味を呼んだようで、かえって良かったと回想しています。

短距離競技

開会式の後、すぐに短距離競争が始まります。スタンドでは金栗ら、わずか八名が日の丸を振っています。
百メートル予選開始。クラウチングスタートを練習で磨いた三島ですが、スタート直後から体格の良い欧米選手にみるみる離されてゆきます。十一秒八の日本新記録を出すも予選落ち。二百、四百も欧米の壁に砕け散ります。

三島のゴール

身長170cm、筋骨たくまししい三島ですが、体格差・体力差は歴然たるもの。

短距離は日本人には向いていないようだ。金栗君、マラソンで欧米を驚かせてくれ

日本では敵無しだった三島は意気消沈、金栗に望みを託します。

マラソン競技

金栗有利を伝える新聞
金栗有利を伝える新聞。

オリンピック終盤の七月十四日、マラソン競技が開幕。播磨屋の辛作さんが送ってくれた三重に補強した底の足袋で挑みます。ぶ厚く丈夫な柔道着の布を縫い付けた足袋です。

ところがこの日、北欧に熱波が襲来、気温三十度を越す暑さ(陽当たりのよい場所では四十度とも)。夏の平均気温二十二度の当地では異例のことです。

猛暑の中、午後一時四十八分、レースはスタート。十七ヶ国、六十四人の選手はトラックを二周後、オリンピックスタジアムを飛び出して行きます。運動帽を深く被ったゼッケン822番の金栗は、スタジアムを出るとき、後ろから五番目。

スタジアムを出てゆく金栗四三

のっけからのハイペースにあせりますが、順調にペースアップ。折返し地点では十七番手まで順位を挽回します。
しかし、金栗はここで痛恨のミス。

先を急ぐあまりに給水を怠ります。

給水せずに、給水所を通り過ぎる金栗。
折返し地点。給水せずに、給水所を通り過ぎる金栗。
中には立ち止まって水を飲む選手もいます。
中には立ち止まって水を飲む選手もいます。

折返した直後、膝にいままで経験したことのない痛みが走ります。さらに日射病、暑さで脱水症状となり、次第に意識が遠くなっていきます。自分が苦しい時はみな苦しいのだと頑張りますが、ついに二十七キロ付近で気を失い、森に紛れ込んで倒れてしまいます(道を間違え農家に迷い込んだとも云いますが、このあたりはご本人も記憶が無いようです)。

それを近所の農家の主人が見つけ、ベットに寝かせ介抱します。

近くの沿道で応援していた日本公使館の林中佐と東京帝大・友枝助教授は、あまりに遅い、金栗の姿が見えない、どうしたのかと搜索すると、農家の金栗を発見。

大和魂は何処に捨てたか!

やっと意識が戻り、二人に抱えられて汽車に乗り、宿泊しているホテルに戻ると、いつまて経ってもスタジアムに戻ってこない金栗を心配していた大森監督、京都帝大・田島博士と嘉納治五郎が駆けつけてきます。

ベットで横になっている金栗。
田島博士は、いきなり怒鳴りつけます。

金栗!なんたる意気地なしか!大日本帝国の誇りはどうした、大和魂は何処に捨てたか!

これは田島博士だけの言葉でなく、期待していた人全ての想いだと金栗には重々分かっているだけに暗澹たる気持ちになります。
嘉納治五郎は口を真一文字に閉じ、無言で悔しさをかみしめています。

しかし、このままで終わる金栗ではありません。翌朝、日記にこう書いています。

大敗の朝を迎ふ
終生の遺憾のことで心うづく
余の一生の最も重大なる記念すべき日になりしに
しかれども失敗は成功の基にして
また他日その恥をすすぐの時あるべく
雨降って地固まる日を待つのみ
人笑はば笑へ

今回の失敗を糧にして、いつの日か、汚名を挽回しようとするポジティブな金栗。四年後のベルリン・オリンピックへの再挑戦を心に誓います。

後日、マラソン競技で死者が出たことを知り、金栗は愕然とします。ポルトガル代表のフランシスコ・ラザロ選手。足袋をプレゼントした選手の一人です。参加六十四名中棄権三十三名、死亡一名。オリンピック史上最悪、まさに死闘、金栗が脱落するのも無理もないレースでした。

大敗ムードただよう中、金栗の棄権届けも出さず、閉会式にも出席せずに、七月十九日、日本選手団はストックフォルムをあとにします。

帰路、欧州各国のスポーツ事情を視察。三島はこの機幸いと、日本では手に入らないスポーツ用品を大量に買い込みます。マルセイユから日本郵船「宮崎丸」に乗りこみ、コロンボ、シンガポール、香港を経由して帰国の途につきます。

播磨屋の決意

九月二十日、金栗の姿は新橋停車場にあります。
出発とは大違い、出迎えは徒歩部の橋本三郎、野口源三郎らの仲間が数名だけ。七月三十日に明治天皇が崩御、日本中が悲しみにくれ、時代はすでに大正になっています。報道陣も少なく、金栗はホッとしたりします。

すぐに大塚仲町の播磨屋に報告に伺うと、

金栗さん、すまない。こんな足袋を作ってしまって……

金栗以上に悔しさに満ちた辛作は頭を深く下げて詫びます。

金栗の履いた足袋
金栗の履いた足袋。

金栗さんは足で負けたんじゃない。俺の作った足袋で負けたんだ。どんなことをしても俺の足袋で金栗さんを世界の大競争で優勝させてみせる……

それから四十余年間、金栗四三と足袋職人父子二代にわたる挑戦は続いてゆきます。

金栗足袋発祥の地
金栗足袋発祥の地のプレート。

「消えたベルリンへの道」へとつづく

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