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赤城坂と古地図の間違い

古地図:明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より赤城坂周辺
明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より赤城坂周辺

赤城坂を調べていたとき、明治の地図をみてビックリ!
赤城神社の崖下に「喜楽座」?その近くに「赤城座」
この明治初期の地図では寺社がで示されるお約束なのですが、で芝居小屋?
他の地域は芝居小屋は描かれているのかもしれませんが色は民家と同じで「◯◯座」などの明記は無いのが普通。
この地域を担当した人は、そうとうな芝居好きだったと思われます。

古地図:藁店周辺
藁店周辺(芝居小屋の明記がない)

神楽坂の寄席とか芝居小屋が載っていれば面白いのになぁ、藁店にあった夏目漱石先生が通った「和良店亭」はどれだろう?といつも思っていたのですが、赤城坂だけ、なぜか芝居小屋の明記があります。屋根の形まで詳しく、どんな建物だったのかも想像できます。赤城神社の境内にある赤城小学校もです。

地図オタでないと、(ノ゚⊿゚)ノハア?ですよね。でも、これはうれしい間違いなのです。

古写真:明治の赤城神社
古写真:明治の赤城神社
近代的になった赤城神社
近代的になった赤城神社

ずいぶんと近代的になりましたねえ。
オシャレな観光スポット、神楽坂にはぴったりマッチしそうです。

赤城神社は、正安2年(1300年)群馬県赤城山の豪族大胡氏(のちの牛込氏)が牛込に移住した時、赤城神社の分霊をお祀りしたのが始まりと言われています。
その東側、神田川方面から一気に登る坂が赤城坂です。スリップ防止の丸い凹み(ドーナツ坂と勝手に呼んでます)が付けられた急坂です。

頂上部はなんでこんなに急なのぉ?と思ってしまうくらいの急勾配です。
ここに道を作る必要性があったのでしょうか?
中世の戦略的な道と疑ってしまいます。。。

赤城神社は砦だったのか?

大胡氏(のちの牛込氏)といえば、神楽坂の牛込城を作った一族。この赤城神社もお城に関係しているのでは?
赤城坂中腹から赤城神社をみると、、、

崖上が赤城神社
喜楽座があったあたりから見る崖。崖上が赤城神社

何かあやしい?これって砦かも?
以前考察した牛込城は江戸湾側の監視、ここは内陸側の監視にぴったりな崖上なのです。
これは牛込城の出城、砦、見張り台ではないかと妄想してしまいます。
牛込城と何か繋がりがあるのかもしれません。
侍たちが砦に向かって一気に駆け上がり、敵を待ち受ける場所と思えば、赤城坂の急峻さも意味があるように思えます。

金銀山猫?

江戸名所図会(赤城神社)
江戸名所図会(赤城神社)クリックで拡大。

手前に急峻な赤城坂が描かれています。昔も今も同じくらいの勾配でしょう。
赤城神社の裏門への石段も描かれていて、今と変わりありません。

赤城神社の裏門
赤城神社の裏門

江戸時代、赤城神社の境内と周辺は、江戸黒歴史の一つである岡場所(幕府非公認娼婦街)として有名でした。
しかも神楽坂エリアにはもう一つ、行元寺周辺にも岡場所があったといいます。
神楽坂で遊ぶことを「金銀山猫」といい、金は金一分(25000円)で赤城神社を指し、銀は銀七匁五分(12500円)で行元寺。山猫は「山の手で寝る子」という意味の私娼婦で、はじめは寺僧相手の娼婦だったそうです。
岡場所にもランクがあったようで面白いです。
山猫というのは、この近くの桜木町(大日坂手前)亀ヶ岡八幡の岡場所は山の下、崖の下なので、山の手を強調したかったのでしょうか。江戸っ子は見栄っ張りです (≧∇≦)。

赤城坂
赤城坂(坂下から)

中世には、赤城坂を駆け上る猛者どもがいたのでしょうか?
時は流れてお江戸では、
のんびり登り、遊びにくる若旦那の姿が目に浮かびます。

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神楽坂と光照寺(大手門通りから牛込城跡へ)

大手門通り

前編からの続き

神楽坂のメインストリート、毘沙門天の脇から入る道を大手門通りといいます。
ここが牛込城への入口だったと気づく人は誰もいません。

大手門通り
大手門通り

緩やか坂道を登り光照寺の方角に向かっています。
今ではここからは光照寺へ行けませんが。

隠れキリシタンの墓?

また余談ですが、、、
全く城跡の名残りがない光照寺ですが、光照寺には隠れキリシタンの墓石と言われるものがあります。なぜ隠れキリシタンかというと戒名が「桐安」ーキリスト教の「キリエ」、額の花飾りが十字架を形どっている、との理由から。「私は空飛ぶ円盤に誘拐された」ぐらい怪しい話です。

隠れキリシタンの墓
隠れキリシタンの墓?

今では隠れキリシタンの墓?は諸国旅人供養碑の一部としてまとめられてます。
これは神田の旅籠、紀伊国屋主人が行き倒れの旅人を不憫に思い建立したものです。

諸国旅人供養碑
諸国旅人供養碑

昔の旅は、命がけだったということがよく分かります。
そこをいくと松尾芭蕉は足も早く元気だったので芭蕉忍者説なんてえものが出てきたわけです。

総合的に見ると

走ってみた感覚でいうと、光照寺が本丸、神楽坂上周辺が第二郭、兵庫横丁が第三郭でしょうか?

等高線のある明治の地図でみてみましょう。
光照寺は標高27メートルの崖上にあって、確かに城郭を作るには最適な場所だったと想像できます。
ここから江戸湾に入る舟も監視できたといいます。

A地点が光照寺、B地点が大手門通り、C地点が兵庫横丁。
この地図でみると、ややややっ、D地点がお城の石垣の角っぽいです!(*’д’*)

古地図:牛込城跡の考察
牛込城跡周辺(明治9-17年(1876-84年)5千分の1東京図測量原図より)

そう思って後日、大手門通りを行くと、、、

光照寺墓地の崖
光照寺墓地の崖。牛込城の石垣の名残りか?

こんな光景でした。崖上は光照寺の墓地です。
お城の石垣の角っぽい!
地形はなかなか変わりません。
牛込城跡らしい唯一の痕跡です。

ところで「牛込」という地名は、大宝律令(701年)の頃、牛牧という牧場がこの地に建てられたのが始まりといいます。古代の国営牧場としての名称で「駒込」「馬込」などもそれにあたります。

ついに古代まできてしまった。
神楽坂周辺には古い歴史があります。

観光客で賑わう神楽坂ですが、神楽坂のこんな歴史を予備知識にして散策するのも楽しいかと思います。

【続報】牛込城跡近くの赤城坂の赤城神社も地形的にみて、砦だったのかもしれないと疑念があります。
【続続報】筑土八幡神社周辺も出城だった可能性があります。

意外な歴史の神楽坂四部作

神楽坂と光照寺(牛込城跡)
神楽坂と仇討ち事件
神楽坂と漱石先生
神楽坂のオシャレな坂たち

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